日曜日は感謝と平等・共存・平和の原点を考える日
(「LOGOS No.02」1989.4)
穴沢米子
4年前の秋のことです。 高尾駅で出会ったご婦人となにげなく話す機会があったとき、ご婦人は「主人は大学の教授でした。その時の大学の教え子が、山田駅近くのロゴス教会で牧師をしています。主人はその教会で哲学の話をすることが生きがいなのです。」と言われました。そのとき私は、この元大学教授の哲学の話を聞いてみよう、学んでみようと心が動きました。そして、日曜日には思い切って教会へ行ってみよう。教会には一度も行ったことがない、だが学ぶには何事にも勇気が必要と、決意したのです。
教会のドアーを開けて入ると、そこは静かで厳粛な礼拝堂でした。正面には、木々を背景に太陽の光にまばゆい輝きを受けた十字架が立っていました。牧師の威厳も格別、説教は「文学的神奉仕」。この日、私ははじめて聞く牧師の説教を、一言一句聞きもらすまいとノートに記録したことが思い出されます。学問の深さに感銘を受け、それから現在も教会で学んでいます。月に一度の聖書研究にも参加させていただいております。
私の家から教会までは、私の足で43分ほどの道のり、緑町を通り、京王線の橋を渡りきるとそこが小比企町とか。そこには、八王子緑地帯保護区域のベルト地帯が広がりと、みごとな野菜づくりに励む労働の姿の美しさに、しばし見入ることがあります。農家に育った私は、その農道を通ることが郷愁にかられるのです。
教会の帰り道には、丹精こめた野菜を分けていただくこと度々、教会で学び、郷愁あり、私にとっての日曜日は、絶対者である神の愛を受け、感謝と平等、共存、平和であることの原点を考える日なのです。