祈りは神との対話
福富 保子
(1989.4.2記 「LOGOS No.1」より)
昭和17年4月、横浜に米軍機が1機来ました。日本軍が打ち上げた高射砲は一発も命中せず、あざ笑うかのように西の空に消えていきました。その頃から食料事情が悪化し、米の代わりに大豆の絞りかすや外米等が配給になり、学童の足に栄養不足による吹出物が出る様になりました。私共の庭も芝生をはがして芋畑にしました。
夜は夜で防空演習にかり出されたり、戦地へ慰問袋を作って送ったりしました。そのような生活の過労が重なって、その年の7月とうとう床に伏す身となってしまいました。左肺を冒されているというので、近くにある横浜国立療養所に入院を申し込みました。しかし希望者が多数のため、7ヵ月後にやっと許可がおり、夫と小学生の二人の子供と姑を残して更生車(自転車タクシー)に乗せられて病院にむかいました。
再びこの家に帰ってこられるのだろうかと悲愴な気持ちでした。大部屋の病室の窓は開け放たれ、窓の下の鉄のベッドには10人の老若の病める婦人たちが静かに横たわっていました。私の右のベッドの神谷さんんは二人の子持ちとか、「肺えそ」という病名で胸の穴に管がさし入れられ、そこから血やうみが下のコップにたえず流れ落ちていました。その向こうのベッドの娘さんは腰のカリエスで、二人共すでに4年間寝たきりでした。
私の8ヶ月の入院中に6人の方が亡くなりました。
そのたびに、コンクリートの床を響かせながら二人の看護婦が鉄の運搬車を押してやってきて、遺体をシーツで無造作に包み、霊安室の方へ曳いていきました。
左隣のベッドの大野さんは天涯孤独の身の上で、この病院にもう14年も入院しておられるとのことでした。
この方は熱心なカトリック信者で毎日がお祈りの明け暮れでした。毎日若い神父さんが来院され、聖体拝受や信仰告白の式を行われました。恐ろしい伝染病の患者の口許に頬をすり寄せて、告白を聞いておられるその敬虔なお姿に何度涙したことでしょう。神父の外に老伝道師も見えて重体の方々を慰められ、死の前日注油の祈りを与えられ安らかに天国に召された娘さんもありました。
私の退院が近づいたある日、大野さんがまくら元に来ておっしゃいました言葉は今でも忘れられません。
「人間は結局みな「ひとり」なのです。しかし、神のみは常にその人の中に居給うて離れず守っていて下さるのです。神への感謝の祈りは神との唯一の対話です。どうかこの後も信仰を貫いて下さい」と子供に言い含めるかのようにおっしゃいました。
その後、戦争はますます激しくなり、私共は茨城の海岸に疎開し、そこで8月15日をむかえました。
大野さんとはあれ依頼一度もお目にかかる機会はありません。