「第80回キリスト教音楽講習会」に参加して
原 寿枝
ひとことで言うと「神様の愛と 音楽の 洪水で 満腹 !」という感じの凝縮された時間であった。
なにしろ朝から晩まで食事以外は殆ど休む間もなく「オルガン実技」「奏楽ゼミ」「合唱練習」「演奏会」と続くのだ。日本中の多くの教会から真剣に学ぼうという老若男女(老いの割合がとても多くてすごい!と思う)が集い、心をひとつにして合唱したり、学び合うなんて本当に貴重な体験だった。
講師陣の多くが「讃美歌21」(以下「21」に省略)編集委員なので、礼拝における讃美歌の歌い方の新しい試みや、選曲する際のポイント等聞くうちに熱い思いが伝わってきた。
「21」が出た当初は、どちらかと言うと昔から歌い慣れてきた讃美歌の歌詞と違っていたり、リズムや拍の取り方も変更されていたりして、個人的にはなじめない部分も多かったがそれぞれ変更するにはそれなりの理由があったようだ。例えば、No.231はアドヴェントによく歌われるが「21」では小節線も無く、音符もいわゆるぼうが無い。左上の表記を見る9世紀とあり、グレゴリオ聖歌の詞であるため基本的にユニゾンで歌う曲であることがわかる。そのため ●は♪ではなくて「進む」を意味し、○は「止まる」と解釈する。以上を踏まえて試しに歌ってみると、もうこの曲は今までのNo.94とは全く別物という気がしてきて、ヨーロッパの石畳の教会に響く歌声を想起させる。
又No.377は作詞がルターで第二次世界大戦時にドイツ軍が「勝利の歌」として歌っていたが、後にその歌い方が反省され、改められて「慰めの歌」として歌われるようになったという経緯がある。
歌詞をじっくり読むと、宗教改革時にルターが説いた「救いは行いによらず信仰のみによる。」という精神が貫かれているように感じる。曲に関しては拍子記号もフェルマーターも無くメロディーも従来のものより固いラインなので、歌う時には注意が必要と思われる。
さらに、すべての曲に「アーメン」を必ず付けるという歌い方も諸外国の例を見ても主流ではなく、「21」においては独立した形で記されている。講習会の中でも頌栄以外は「アーメン」を歌わずに曲を終えていた。
歌い方も常に全節を歌う必要はなく、その日の説教(証言)の内容によって撰んだりメロディーを奏楽者が弾き、歌詞は誰かが朗読して、斉唱にふさわしい部分のみ会衆意一堂が歌うパターン等斬新な方法も提案されていた。
時代は移りゆく。古きものの良さはやはり残しておきたいが、新しい試みも同時に必要なのかもしれない。加えてもっと本質的なことを考えてゆくと、讃美歌は「信仰告白」「賛美」「とりなしの祈り」「奉献」等のために歌われるものなので、大きな声で喜びを持って力強く歌ってゆきたいと思う。
ロゴス教会では座ったまま讃美歌を歌う部分があるが、体調が大丈夫であればどの讃美歌も立って歌ったほうが声も出しやすいし、神様に向かって歌うという意味でも良いのでは?と私個人としては感じている。
讃美歌を歌うと勇気が湧いてきたり、心が安らいだり、自分自身の罪を再認識して悔い改める心が生まれることもある。
又、礼拝の中で会衆の心をひとつにする力もある。
私自身、技術的にも精神的にもまだまだ未熟であるので、そういった讃美歌の持つ力によって強められ、奏楽者として一歩一歩成長してゆきたいと切に願っている。