袖野パウロ長之進兄 いづれ又会いましょう



 

糸川 滋

                 

「あのー、何ですよー 」 話に熱が帯びれば帯びるほど、しきりと出てくるのがこの言葉だ。逆に言うと、この言葉が出ない場合は、心を通わせているとはいえない。袖野のお・や・じ・は政治にしても、行政にしても、生活にしても私たちを取り巻くあらゆることに、神学をとうして考え、物をいう。

 話の終りに、よく「信仰のない者は・・・」とか「信仰がなくちゃ・・・」といった言葉が付いたものだ。何より、おやじが喋ったことは、キチッとした考えも、思想もないのに、あたかもそうであるかのような態度をすることで、そう仕様ものなら、それはそれは目を背けるほどの排斥振りっであった。

 おやじは、大正12年、現岩手県の資産家の長男として生まれ育ち、当時の村としては未曾有の大学就学者で、一族を初め村人からも将来を嘱望されながら、都内の大学で倫理学を専攻し学んだ。

 軍靴の響きはやがて、おやじの上にも覆いかぶさり、海軍士官として従軍。こうした生育環境が、生活態度が、いわゆる「日本男児袖野長之進」を形成したのであろう。

 何時であったか、おやじの奨励に、許し難き差別意識ありとの意義が出たことがあったが、これは無意識な男社会に根ざした、不用意な発言であったと解釈している。おやじは決して差別意識を持ったり、蔑視したりする人間ではないと改めて弁護したい。

 戦後、高等学校で社会科、英語で教鞭を執り、特に夜間高校では、永年にわたって生活指導に奔走している中で、ロゴス教会で山本三和人牧師との出会いがあり、青山学院大学基督教学科に学士入学。おやじの命題は「神とは」「信仰とは」「教会とは」であった。したがって教義学を中心に勉学の仕方で、「パウロの神学」「バルト神学」に意を注いだ。聖日礼拝後の神学研究会では、Karl Barth Dogmatik im GrundriB とかdie Theologie und die Kircheをひもといた。自宅にあっては、終末論、福音書の様式批判、バルトの著作集等々寸暇を惜しんで、学習に励んだ。愛蔵書籍で埋れて起居していた姿が浮かぶ。入院直前の転居の際、居住環境の都合からとはいえ、これらの書籍が廃棄処分されたのには、相当なダメージを受けてしまったようであった。

父の御手の中にありますように アーメン
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