「ロゴス」を想う
金子 欣一
(1989.12「LOGOSNo.8」より)
ロゴス教会が創立100周年を迎えるという。
ふと、「ロゴス」に係わってからどのくらい経ったのか振り返ってみる。ちょうど40年になる。昭和25年のクリスマス、あの目白の丘の上の木造校舎の一室で、多くの仲間たちと山本牧師の手によって洗礼を受けてから40年も経つ。キリスト教の「キ」の字も知らなかった17才の少年が誘われるままに受洗してからもう40年も経つ。受洗祝いに頂いた「聖書」は文語体、読んでも読んでも解らない。みんなよき想い出である。最初の口語訳「聖書」は、ミス・クレーマーから頂いたもの。とはいえ、今のは二代目である。当時頂いた「聖書」はボロボロになり。同じ物を購入し、ミス・クレーマーのサインだけは剥がして貼りつけた。
ロゴスは私の「青春譜」。想い出はすべて「ロゴス」であり、「ロゴス」以外になにもない。多くの友と出会ったのも「ロゴス」である。キリスト教に失望し、「ロゴス」から離れたこともある。しかし、「ロゴス」は私の身に染み付いてしまっていて絶対に落ちない。考えてみると「神」が未だ解らない。「神」を信じたことなど一度もないようにさえ思う。今もそうかもしれない。悲しいかな私は、「唯物論的」な発想しか出来ない。「神」が解らない。
情けないかな「神は在るのだ」と信じるしかない。キリストがパウロの前に現れたように、私の前に現れることを願う。「神の存在」を考える時、空しさを感じる。ところが、仙台に赴任してから変化が起こった。「神」が私の後にいるように感じるのである。仕事の面でも、プライベートの面でも毎日が非情に充実している。ゲーテの「ファースト博士」のように、青春を取り戻してような気持ちがする。仙台への赴任は「神」が私に仕組んだ罠の様にさえ感じる。「ロゴス」は遠いが故に近く、近いが故に遠いのかも知れない。