恵みのシャワーを浴びる
2012.7.29
菊池 節子
聖句:詩篇23篇、 ガラテヤの信徒への手紙2章20節
生きているのは、もはや、わたしではない。
キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。
しかし、もしわたしが肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのために
ご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
最近、二つの忘れられない出来事に出会いました。
一つは同じマンションに住むYさんと一緒に市内にあるM総合老人ホームを訪問したことです。バスで20分。山の中腹を削った広い平地に高級ホテルのような建物が、あちらこちらにゆったりと並んでいました。廊下は清潔で広く心地よい音楽が流れていました。隅々、共同入浴場で二人だけのとき、Yさんの唄う“南部牛追い唄”を聴き、あまりの上手さに吃驚し、もっと聴きたいとお願いしたらMホームについて来てくれれば、何曲でも唄うとのことでした。
Yさんは、嘗て武道館の全国民謡大会で上位入賞、プロで活躍した過去が偲ばれる気配の女性でもありました。
その日は、朝からわくわくでした。会場についたものの、約束の時間が過ぎても一人も来ません。
Yさんと目顔で、「うんッ」「日時、間違えた?」と、がっかりし始めたとき、開いているドアに向かって車椅子の方や、介護士さんに付添われた人たちが三々五々やって来るのが見えました。
私は邪魔にならないように離れた端の椅子に座り直し、ぼうっと入場する方々へ目を向けていました。不思議な出来事は、その時始まりました。入ってくるどの方もどの方も、真直ぐ迷うことなく私に向かってきて、ニコッと笑いかけ私の手に自分の手を重ねて、それぞれの席に去って行きます。
一瞬、“あれ、どうした、何、これ”そうか、私もいよいよ・・・と思いました。
Yさんが、「それでは歌います」と素気ない挨拶をすると、アカペラで各地の民謡や、美空ひばりの歌を次々と聴かせてくれました。ふと、気が付くと両隣りに、私を労わるように女の方が二人、キラキラした瞳で顔をのぞきこんでおりました。
手拍子を取りながら、“上手ねぇ”“楽しいねぇ”と頷きあい、笑顔を交わすだけでしたが、熱い思いが胸いっぱいに広がり心も体も嬉しさでどんどん膨らむ感じでした。
魂の響き合うような、深い喜びの不思議な交流でした。
帰り際、施設の方が、「今日は、私どもの手違いで、家族の面接日なのにおいで頂いてしまいました。結局大半が認知症の人たちになってしまい、すみませんでした。」と言われました。
帰りの下り道、Yさんが唄う“津軽あいや節”が木霊する二重奏を背に、イエスさまの復活を天使に告げられ、恐れながらも、大いに喜び、ころげるように走って行ったマグダラのマリアたちの心境とクロスしたかのような体験でした。
いま一つの出来事は、昨年の秋、中学の同級会に出席した事です。温泉ホテルでの規模は、最後の集りになるだろうとの呼びかけでした。この同級会への参加はいつも気重で、殆ど欠席してきました。理由は、H・S君が来るのではないかと不安になるからでした。
戦後、地方の何処でも見られた光景だったかと思いますが、戦災にあい生き残った人々は、食べるため農山村に開拓民となって入植していました。
私たちも貧しかったですが、H・S君達はもっともっと貧しく、昼時はいつも水飲場にかたまっていました。夏休みを前にして、一学期の成績順位が貼り出されました。恒例のことです。大好きな友達が一番でした。そして私より二、三番前にH・S君の名前がありました。私はいつも上位を占めていましたからこの結果は、悔しくてたまりませんでした。親友に負けたのも悔しいけど、もっと許しがたく認めたくなかったのは、H・S君より下だったことです。
おさまりのつかない私は、おしゃべりで調子者のKちゃんに耳うちしました。「H・S君の家ってさ、掘っ立て小屋みたいで、すごく不衛生なんだって」と。少し前、開拓地域の世話役の大人が、父の処へ開拓地の生活改善の相談にきていたことを聞きかじっての言動でした。子どもは天使という見方がありますが、とんでもない、私のばあい、子どもは悪魔です。
夏休みに入ると、私は自分のやったことをすっかり忘れていました。休み明け早々、H・S君がKちゃんを伴って抗議に来ました。真っ赤な顔で、足音荒く目の前に立つと、「俺んちへ来て見たのか。馬鹿にするな。誤れ。」「えッ、だって大人が言っていたもん。聞いたもん・・・」と、しどろもどろ言いわけ始めた私に、Kちゃんが「謝った方がいいよ・・・」と目くばせしました。チョコっとだけ頭を下げました。H・S君は、「許さないからな、ずっと」と言って立ち去りました。
やがて、彼は、集団就職で遠い名古屋へ出て行ったので、ほっとしました。しかし、澱のように心の底に沈んだ痛みは消えませんでした。
私がキリスト教に初めて接したのは、高校生のとき、通学道の角に立つ、カトリックの教会でした。(因みに、私は岩手の遠野という土地で育ちました。)教会は、文化の香りに包まれ、西洋音楽や英会話(ドイツ、フランス語なども)や、珍しい欧州の菓子など、ただで供与してくれました。帰宅列車時間の格好の待合場所でした。
特に忘れられないのは、遠いヨーロッパから祈るためだけに、その一生を神に捧げた”修道女“と呼ばれる女性がいたことです。この人たちは、祭壇に跪いていつも祈っておりました。その先には、痩せ細った十字架上の裸の男の姿がありました。見た事のない不思議な光景でした。
H・S君に、心から詫びなくてはと思い始めたのは、中学を卒業して15年以上も経てからです。 調べれば住所もわかったはずなのに捜し出す勇気がありませんでした。
30代、40代いづれの同級会にも出席しませんでした。会の後、送付される名簿の欄に、「消息不明、欠席」とあるのを、不安と安心ん入り交じった複雑な思いで見過ごしていました。
紆余曲折を経て、やがてこの私の身にも神さまの愛が及んで下さるようになりました。 十字架上のイエス・キリストによって贖って頂くほか、罪のこの救いはない、とわかったとき、赦して頂く罪の一つがH・S君に行った行為でした。
昨年の秋の同級会は、直接会ってきちんと詫びる最後のチャンスでした。当日、配布された名簿に、住所、消息とも不明とあるのを見て、言葉に ならない悔恨の情がこみ上げて来ました。
“必ず捜し出そう”そう決意して顔を上げたとき、幹事が「訃報のお知らせです。H・S君は、九月初めに逝去されたそうです。黙祷しましょう。」と告げました。
捜した人は、天国にいる。いつの日か再会できるよう、神様にとりなしと感謝の祈りを捧げました。
罪人である私(人間)が、主に在る生き方、神の導き示す道を生きることは、なんと厳しく難しい道だろうと、つくづく痛感する毎日です。
十字架によって解放され、砕かれて主にある平安、平和を得ていると確信しているにも拘らず、日常の生活では、感謝のことばの舌の根も乾かぬ間に、傲慢な自己がむくむくと頭をもたげ、他人を嫉んだり、蔑んだり、不平、不満を口にし、見栄を張りたがる誘惑におちいる自分がいます。
まさに、ローマ書(ローマ人への手紙7章22節)にある
『内なる人としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則とりこにしているのが分かります。』という状態です。
ミッションスクールに就職した私は、朝に夕に礼拝が行われ、御言葉と讃美歌の溢れる環境に入っていきました。しかし、長い間、私はその環境に違和感をおぼえました。
世の中から隔絶された真空地帯に浸っているような、息苦しさを感じたからです。
教職について五、六年たった頃、そんな私の信仰を根底から覆す人物にお会いしました。
谷口茂寿学院長です。 少し先生のことを述べさせてください。
先生は、母上に連れられて幼い頃から教会に通いました。父上は大阪高裁判事でした。旧北野中学のとき、天満教会で受洗し、政治家を目指して、旧制三高(現京都大学)に入学、そこで藤井武の本『新生』に出会い、一夜にして信仰告白をし、改めて神に従うと誓いました。
その後、内村鑑三の教えを受けたく、東京大学法科に転学し、藤井武、塚本虎ニ、三谷隆正、黒崎幸吉ら内村先生の高弟の感化を受けたとのことです。大学卒業後、実家である三菱財閥系の本社に入社しました。
数年後、関東大震災にあい、そのことがきっかけとなって、神の道を説き広める啓示を受けたそうです。
戦前における伝道活動は厳しく、国家との妥協もしてしまったそうです。そんな中で、賀川豊彦らと独立伝道の牧会を始めたそうです。
敗戦後、荒廃した日本人の心をたてなおし救うのは、子どもを育てる母親すなわち女性であると確信し、女子校を創立されたのが、1950年。
私は、その15年後に先生に出会いました。
先に述べましたように、真空地帯のような職場で、自分のいる処ではないと、こっそり地方の採用試験を受験したりしていました。
そんなある日の職員会議でのことです。経営ビジョンがないとか、待遇を改善しろとか、厚生福利に配慮しろとか、先輩教師たちが先生に要望を求めていました。
じっと耳を傾けていた谷口先生は、静かに立ち上がると、「私のいたらぬところを、どうぞ言って下さい。」とおっしゃいました。すると、先輩の方々は、なぜか黙してしまいました。思わず手を上げた私は、「先生のお話は難しくて理解できません。その上、早口で追いついて行けません。祈りだすと、始業のベルが鳴っても終わらない・・・。教師より生徒を大切にする姿勢は、生徒を増長させ、教師を馬鹿にする生徒を増やしています。」英雄気取りで発言しました。パチパチと同感の拍手もありました。
傲岸になる何の根拠もないのに、堂々とデカイ態度をとる、ほんと若いって恐ろしいです。
谷口先生は、私の発言が終わると、「若い者が何を言うか、辞めていい!」と言い放ちました。
翌朝、少し心がチクチクしていましたが、ぐっすり眠って出勤しました。
二階の教員室に向かって踊り場にさしかかったとき、ドアを出たり入ったりしていらしたらしい先生がタッタッと駆け降りて同じ踊り場に立ちました。
私はすでに上への階段を登っていました。先生は、私を見上げるように、
「菊池先生、昨日は大変失礼いたしました。大切な指摘をありがとうございました。謝ります。先生が必要です。辞めないで下さい。お願いします。」と、深々と頭をさげられました。
慌てて、踊り場まで戻った私はただただ腰を折るだけで、言葉が出ませんでした。
その日、どう過ごしたか、全く覚えていません。あまりのショックに体中震えていたように記憶しています。
谷口先生は、そのときたしか75才。二年後、病で召天なさいました。
私にとって以後30年以上、職場は神さまを学び、信仰の試練と修養を積む大切な場になりました。
驚くばかりの謙遜、真摯な姿で、罪深い私のような者に、「あなたは、かけがえのない神の生命だから必要」とおっしゃって下さった一言が、頑迷なエゴを砕き、生まれ変わるきっかけとなりました。
私の信仰は、その後も遅々としてのろのろしたものでした。しかし、毎日生徒と授業やホームルーム、課外活動で走りまわることは、刺激的で楽しく、一日として同じ日はありませんでした。
いかに優れた創造性のある事を生み出すか、一人一人ほんとうに個性の異なる若い生徒たちの現在、未来にどう関るか、やりがいのある仕事でした。
特に最近話題になっている“大津市”のような虐め、喧嘩、悪質な悪戯などの暗闇は、楽しく明るい学校生活の裏表にあり、人間の集まりである以上、大人社会の縮図が展開しています。
そういう時ほど、主の助けを頂いた愛と緊張と忍耐が必要でした。問題やトラブルがある時こそ、私の信仰は試され鍛えられました。
最後に、遠いロゴス教会になぜ私は来るのか(年に数回ですが・・・)。もちろん母教会ですから当然ですが、理由の一つは、お心のこもった美味しい手料理ランチに与るからです。ほんとうにご馳走さまです。
さらに大事な理由は、山本三和人先生が常に開かれた教会を標榜し、神の前では、万人ひとしく救われると、通りすがりの誰かでも、礼拝の途中から加わる誰かでも、そして私みたいに出たり入ったり定まらない者でも、聖餐に与る祝福が生きていることです。
主は私の羊飼い。
私は乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、
いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、
御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、
それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、
いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。 詩篇23(新改訳)
いま、私はこのみことばのごとく、主から注がれる恵みは充分で、乏しいことはありません。
主はともにおられる私の羊飼いだからです。
一層、主を信頼し、恵みのシャワーを浴びて生きて行きたいと思います。
祈り
天にまします慈しみ深き神さま、この時、共に在ってお支え励まし下さりありがとうございます。
罪の奴隷のうちに迷い戸惑う私たちを捉え、十字架上で贖い救って下さいまして感謝いたします。
私たちは、主のもの、主に在りて生く。
救くわれしこの生命を、おのれを愛するごとく隣り人を愛する生命となりますように、お力をください。
この時代に起きている大切な事を、見落としたり見逃すことなく、平和と平安のためにこの身を尽くす者になさしめてください。
尊き主イエス・キリストの御名において、この祈りをお捧げいたします。 アーメン