ことばの世界―〈光〉と〈風〉のことば(4)

(「LOGOSNo.33」1992.6

 栗原敦(実践女子大学教授)

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風


(新川和江)

 「わたしを(たば)ねないで」(『比喩でなく』68)の第四連。例えば、第一連、第二連は「わたしを束ねないで/あらせいとうの花の
ように/白い葱のように」、「わたしを()めないで/標本箱の昆虫のように/高原からこた絵葉書のように」とはじめられており、それに応じて「わたし」はそれぞれ「秋」の「見渡すかぎりの金色の稲穂」、やむことなく「空のひろさをかいさぐっている」「羽(ばた)き」であるとこたえられている

 おそらく、「束ね」ること、「止め」ること、「名付け」ること・・・のいずれもが、「わたし」を規定する営みとして表現されている。だから、ここの「風」すなわち「わたし」とは、名付けようもない、いわばいのちの本源としての〈自由〉の場所を指し示したものだといってよいだろう。もちろん、このような、このような〈自由〉は、果てしなく、苦しいものでさえあるから、詩人はさりげなく「夜とほうもなく満ちてくる/苦い(うしお) ふちのない水」(第三連)であるとも記しておくのだが。

 それにしても、人はなぜこのような〈自由〉に誘われ歩みだしてしまうのか。あふれ出るいのちの「泉」と知恵の木の実が5行目、6行目に記されているのも暗示的だが、名付けることと「りんご」の寓意はこの詩人の場合、同じ言葉の「呼名」でも使われていた。それは、幼稚園で母親の知らない愛称でこどもが呼ばれているのをはじめて聞いたとき、母と子に新しい瞬間が生じ、詩人はこどもを「もがれた一個の林檎」だと感じたという体験なのだった。

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