真の謙虚を学ぶ

(「LOGOSNo.15」1990.9)

真野範一

「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。
神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。」

ルカによる福音書 3章3節

 当ロゴス教会は礼拝出席者数が平均して20数名で、教会としては決して大きな教会ではありません。にもかかわらず、この小人数の教会員に一人一人が誠に個性豊かで、CNC劇場やこのLOGOSの会報に見られるように生き生きとした宣教活動をしており、かつ、教会員の間ではさわやかな交わりを続けているのは、他のどの教会と比較しても劣らないのではないかと思います。その原因は山本と牧師を中心に本当の信仰とは何かをたえず反省し学んでいることにあると思います。

 冒頭にかかげた引用句はイエスの先駆者ヨハネがユダヤ人たちの選民意識を厳しく戒めた有名な聖句です。私達人間は自らを虚しくして神の前に立つことができず、たえず神から逃走しているのが実情です。神の存在を忘れ、人間的次元で物事を考える限り、私達人間は自分が何かひとかどの人間であると思うのは当然で、ユダヤ人やパリサイ人ならずとも誰でも何らかの誇りをもっています。

 何の誇りもなくては人間は生きていけないと言っても良いでしょう。“一寸の虫にも五分の魂”と言うのはこのことを言っているのでしょう。しかし、このような人間的次元での誇り(むしろ思い上がりと言うべきもの)を支えとして生きている限り、私達はけっして真の謙虚を身につけることはできません。特に、私達クリスチャンは知らず知らずのうちにユダヤ人やパリサイ人がもっていたと実質的に同じような選民意識、即ち自分は救われた人間で、未信者は未だ救われていない人間と思いがちです。

 クリスチャンと称する人に接する多くの未信者の人達は、このような思い上がりを敏感に感じとる結果、教会に足を運ぶことに抵抗を感ずるのではないでしょうか?

 私達がこのような思い上がりから解放されるには、やはり十字架上のイエスを見上げる以外に方法はありません。私達が自らの力ではイエスの教えの一かけらでも実行できないことを自覚するまでは、自らを虚しくして神の前に立つことはできません。十字架の前に立つ時、人間的次元での誇りや思い上がりは雲散霧消せざるを得ません。この時、初めて真の意味の謙虚が生まれます。

 ロゴス教会の礼拝に出席して学んだ最も大きなことはこの謙虚です。ロゴス教会の人達のさわやかな魅力と活動力の源泉はここにあると思います。今後とも、たえず “発音のしなおし”をし、十字架から目をそらさない教会であり続けたいと思います。

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