戦中から戦後へ
(1)

鈴木善平君のこと



中野 光

―― T ――

 今から思うと、敗戦は時間の問題だった時のこと、あの東京大空襲・名古屋大空襲の直後、三月二十四日に私は郷里(愛知)を後に西へ向かった。十五歳の時である。超満員の列車に乗って、立ったまま三十六時間後に長崎県の(今はハウステンポス)についた。そこにあった海軍兵学校に入学するためであった。へとへとに疲れはてた私はクラス担任(分隊付教官)となる丸山栄少尉にはじめて会った。容姿端麗な青年将校だった。私を見るなり「おう!中野だな」と海軍式の敬礼をされた。この学校の教官は始めて生徒に会う時までに、それぞれの顔と名前を覚えている、というように個人への理解を深めていたのだった。

 丸山少尉とは戦後もおつきあいが続いたが3年前に逝去された。戦後は山形県の高校の教師をされ、たしか最後の在職は酒田西高校の校長だった。

 ところで、針尾についた私たちには四月の入学式までにつかの間の自由な時間があった。丸山教官はまだ私服姿の私たちを校舎の裏手の小高い丘につれて行ってくれて、自由な雰囲気で自己紹介をしあったり、やがて始まる授業のことや海軍兵学校生活のオリエンテ−ションをしてくれた。英語の授業はオ−ラルメソッドで日本語は使えないこと、体操の号令も英語でするとのこと、夕食後には「自選作業」という自主学習の時間があり、日記や故郷への手紙などはその時間を使うことなどなど、だった。

 その時、丸山教官が言われたことで忘れがたい言葉があった。

 「君たちのクラスには二人の耶蘇教の信者がいるはずだ。念のために二人に言っておきたいのだが、兵学校には神社参拝の行事がある。そのようなときには礼拝のル-ルに従うように。」

 私は「耶蘇」という言葉をはじめて聞いた。そこで隣にいた鈴木善平というまっ先に親しくなった友人に尋ねた。「耶蘇教というのは宗教の一つのようだけれども――」と。そうしたら鈴木は[うん、そうだ。教官のいう二人のうちのひとりは俺だよ]

そのときは「へえっ、そうか、詳しいことを後で教えてくれよな」といったと思うのだがその後、彼からそのことについての話を聞くことはなかった。

 八月十五日の正午、私たちは天皇の「玉音放送」を聞き、その一週間後にそれぞれの郷里に帰った。鈴木とは復員兵でごった返す名古屋駅で別れた。

―― 2 ――

 敗戦からほぼ三年たった一九四八年の秋、私は鈴木の郷里豊橋で偶然にも彼と出会った。愛知大学でドイツ文学を学んでいるとの事。私は同じ地域にあった岡崎高等師範学校の生徒だった。

懐かしい語らいの中で、兵学校時代の耶蘇教徒だったことを思い出し話題にした。聞けば彼は豊橋昇天教会(聖公会)の信徒として教会生活をしているという。

それまで寮生活をしていた私は彼の実家の近くに下宿を探してもらい、クリスチャン・ホ−ムの鈴木家の方々とも親しくさせていただいた。戦後もまだ三年、戦災都市豊橋での市民生活は厳しかった。実際、彼の家も文字どうりバラックであったように思う。しかし、彼の家庭の雰囲気は明るかった。私はクリスチャン・ホ−ムのあたたかさを知った。そして、毎日曜日彼とともに昇天教会に通い、大西牧師の説教を聞いた。毎夜、聖書を開いて読んだが、私の力ではとうていその内容を理解することはできなかった。そんなとき、もちろん私は鈴木に質問したはずだが彼からは「わからん。わからんから教会へ行くのさ」という返事が返ってくることが多かったように思う。

 鈴木との交わりが親しくなっていったある日、私は下宿の主人Iさんからこんな事を聞いた。

「鈴木さんと、鈴木家の皆さんはとてもいい方だけれど戦争中は特高警察ににらまれていたんですよ。何しろ鈴木さんのお父さんはヤソ教の信者で、出征兵士を送る会のときなど、たった一人鳥居をくぐらず神社に頭を下げなかったもんだから――」

その話については、当時鈴木には言わなかった。が、彼のお父さんの温顔に接するたびに戦時下、キリスト者としてつねに監視の対象にされていた厳しさを耐えてきたことへの尊敬の気持ちがわいてきた。兵学校入学者も厳重な身元調べがあったことは知っていたが、あの時、丸山教官が「二人の耶蘇教徒がいるはず」とさりげなく言われたことも、鈴木家への調査があってのことだったと後で気づいた。

 それから半世紀の間、私は鈴木と何度も会った。しかし、兵学校や、ここに記したようなことについては一度も話し合うことはなかった。

―― 3 ――

海軍兵学校最後の在学生(七十八期生)としての生活はオリエンテ−ションの期間を加えてもわずか五ヶ月にもかかわらず、戦後においても連帯の意識は強く、同窓会も全国的な集会、クラス別の集会がしばしば開かれてきた。私は鈴木をはじめとする三〇八分隊のクラス・メイトや丸山(後に佐藤と改正)教官への人間的つながりだけは大切にしてきたつもりだ。

一九九五年、海兵七十八期生の同窓会が金沢で開かれたとき、私はめずらしく妻とともに参加した。金沢が私たちにとって第二の故郷であったこと、その実行委員長を期友の武川昭男がつとめたからであった。鈴木とは同じホテルに泊まって食事をともにした。その時、私はここに記したことを始めて彼に語った。ところがそれを聞いた彼は驚いた表情で次のように言った。「そんな事始めて聞いたよ。おやじは戦前から熱心なクリスチャンだったから、戦時下に当局からにらまれていたことはあったかもしれない。しかし僕が兵学校に入るとき、“神社に対してだけは敬礼するように”といって送り出してくれたことが記憶に残っている。

私は鈴木に尊父について、豊橋と長野を往復する養蜂業に携わっておられたということ意外に知ることは少ない。その人が治安維持法と不敬罪を法的根拠とする特別警察の対象、戦争への不協力を疑われる「非国民」としてなぜ厳しい監視の対象になったのだろうか。いまの私に知るすべはない。しかし、故・山本三和人牧師もまた特高の監視下に置かれた「反戦牧師」であった事実を知るにつけ、鈴木の尊父の苦渋の日々が察せられる。

それにしても鈴木の尊父が息子をなぜあえて海軍兵学校へ志願入学させたのか。自らは神社参拝を拒否しながら、息子には「神社には頭を下げるように」といったのか。等々の疑問がわいてくる。苦渋の体験をした昭和史の証人はもはや真実を語ることなく旅立たれた。

<付記>

私は七月二日の受洗を名古屋にいる鈴木に「ロゴスno.40」とともに手紙で知らせた。彼は早速くれた電話で「おめでとう。しかし、驚いたも驚いた!こういうことがあるんだったら君にはもっと親切にしておくべきだったよ!」といって笑いあった。

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