「私が小学生だった頃(2)」
夕空晴れて
中野 光
1. 1通の手紙
濃尾平野の西部にあった私の母校は1学年2学級の規模で、男女は別学編成だった。私の3年男子組の担任教員は、岩間一郎というまだ徴兵検査(満20歳)前の青年教師だった。丸々と太った人で相撲の強そうな、子どもたちには人気の高い先生だった。
秋の運動会が終わり、恒例の行事・学芸会の準備がはじまった頃、岩間先生は「これをお父さんに読んでもらって返事をいただきたいのだが‥‥」と一通の手紙を手渡された。当時私の父は名古屋市の小学校教師で特に学校劇や創作童話の研究に取り組んでいた。母も私が生まれるまで小学校の教師をしていた。
岩間先生からの手紙の内容は、学芸会の児童劇でイギリスの民謡「故郷の空」を子どもたちに歌わせてよいものかどうかについての相談だったらしい。あとで母から聞いたところによると「故郷の空」という歌の原曲はイギリスの歌だから「時局」にふさわしくない、それより日本の歌のほうがよくないか、という意見が教師仲間から出されたので、児童劇にくわしい私の父(中野力)に参考意見を伺おう、ということになったようだった。
「その歌が外国のものであれ、日本のものであれ、いいものはいいのだ。岩間先生の案に賛成だ。」というのが父と母の結論だったようだ。翌日、父からの返信を先生に渡すと「ありがとう」と先生は喜んで受け取ってくれた。
2. 思い出に残る状景
あの劇はめずらしく男女の合同劇だった。
ストーリーの場所は中国での戦場。日本軍の傷ついた兵士が「野戦病院」に収容され、ベッドに横たわっている。看護婦もかいがいしく働いている。夕やみが迫る頃、看護婦たちは「兵隊さん」のために懐かしい歌を合唱しよう、ということになって小学校からの愛唱歌「故郷の空」というイギリス・スコットランド民謡を歌う。――それを聴いた傷病兵たちの心はいやされて看護婦たちに感謝する――という「美談」だった。
ちなみに私は傷病兵の役を割り当てられたが、歌をうたった女子の中心には同じ村の幼な友達の「和(カズ)ちゃん」がいた。和ちゃんが看護婦の白衣を着て美しい声でうたった光景が印象的だった。女子たちの「故郷の空」は大変好評だった。
皆さんもご承知の歌かと思いますが、
<故郷の空>
夕空はれて あきかぜふき
つきかげ落ちて 鈴虫なく
おもえば遠し 故郷のそら
ああ わが父母 いかにおわす
すみゆく水に 秋萩たれ
玉なす露は すすきにみつ
おもえば似たり 故郷の野辺
ああ わが兄弟(ハラカラ) たれと遊ぶ
(大和田建樹・作詞、スコットランド民謡=Comin’ Through
the Rye 麦畑で)
3. それから半世紀
戦後五十年、私たち小学校時代のクラス会は友人たちのおかげで毎年のように開かれ、いつの頃からか男女合同のクラス会となった。私もそのたびに連絡をしてもらっていたが、故郷を遠くはなれていたために毎回出席、というわけにはいかなかった。還暦を過ぎた頃、私が参加できたクラス会で卒業後はじめて「和ちゃん」に会った。
「和ちゃん、3年生のときの学芸会で『夕空はれて』という歌をうたったね。覚えている?」とたずねた。「ええ、覚えているよ。今でも歌えるわ」といい周りの女子たちと共に口ずさんだ。誰かが「これをみんなで歌いましょう」といい、女子たちはステージに上って合唱したが、気がついてみたら舞台にいた男子は私一人だった。意外なことに、男子のほとんどはこの劇についても劇中歌についても忘れていたようだった。歌い終わったときには盛大な拍手がわき起こり、幹事役の西村幸雄君がステージにあがって「この『夕空晴れて』を今後われわれのクラス会の歌にしよう」と提案され、再び感動の拍手が起こった。
しかし私には気がかりなことがあった。それは岩間先生があの学芸会の脚本を自分で書かれたとしたら、物語はどういう構想で、どういう思いを込められたものなのか、が分からなかったことである。
私たちが3年生だった時は、昭和13(1928)年のことである。あの劇の舞台は中国大陸であり、登場人物は日本軍の兵士と従軍看護婦(看護士)である。当時の岩間一郎先生が20歳前後だったとすれば、先生自身にとって戦争は決して他人事ではない。ひょっとしたら先生の身近には戦地に赴いていた友人もいたかもしれない。白衣の従軍看護婦については、戦場に咲く白いバラのようなイメージが先生には浮かんだのかもしれない。だから、先生はあの歌にこだわったのか‥‥とも思ったのだった。
ところがその後、そんな幻想を打ち砕くようなことがおこった。
まったく偶然に、この脚本が父の遺品の中から見つかったのである。どうしてこれが父の手に入ったのか、それはわからない。脚本の題名は「軍国の華」、17ページからなるガリ版刷りの小冊子だった。第1ページには次のような「三幕」の内容が示されている。
第一幕 征衣上途(男女全部)
第二幕 野戦病院の夕べ(男女)
第三幕 主都陥落(男児だけ)
私の記憶に残っていたのはこの中の「第二幕」の一部だけだった。脚本の内容は私が想像していたのとは大ちがい「故郷の空」を看護婦が歌う場面はたしかにあったが、歌っている途中で軍医から「おいおい、そんな淋しい歌ではなく兵士を励ます歌を」と要求されて、「勝ってくるぞと勇ましく」という文言ではじまる「露営の歌」を歌うことになっていた。そして劇の結末は40度の高熱にもかかわらず主人公の兵士が主都南京を攻撃する「決死隊」に加わっていく、という筋書きになっていた。
私はそれを読んで戦慄を覚えた。軍国主義の教育は満十歳にも満たない子どもたちにそこまで影響力を及ぼそうとしていたのか、と。なお、岩間先生はまもなく教職から去っていかれた。戦後は一度だけ私たちのクラス会に出席されたことがあったが、私が3年生時代にあこがれた青年教師の雰囲気は先生から消えていた。
4.スコットランドの二教授と「夕空はれて」を歌う
1990年代のはじめ、早稲田大学の鈴木慎一教授に誘われて、スコットランドから日本の教師教育についての調査・研究のために来日された二人の教授との懇談会に出席した。といっても二教授の研究旅行はほぼ終わり、私は日本の教師教育の歴史におけるスコットランドの影響について短い講話をするのが役目であった。そこで、私は自分の受けた教育に即して、ここに書いたようなことを語った。二人の教授は興味深げに聞いてくださった。
とくに私が習った「故郷の空」という唱歌の原曲がスコットランド民謡の“カミング・スルー・ザ・ライ”であったこと、しかし日本人が学校で教えられた歌詞は原曲・「麦畑」の恋の歌詞とはまったく違っていたことなどについては大変驚かれ、日英交流史の興味深いエピソードであることを納得してくれた。
私の話が終わったとき、二人の教授は「それじゃあ、私たちは英語で、“カミング・スルー・ザ・ライ“を歌いますから、プロフェッサー中野と皆さんは日本語で一緒に歌いましょう」と提案された。私たちは「原曲」に調子をあわせながら「夕空晴れて」を歌った。会場からは拍手が起こり「アンコール!」の声にこたえて手をつなぎ、日英両国語でスコットランド民謡を歌った。思いがけない国際交流のひと時となった。