私が小学生だった頃(3)

学校からの帰り道

中野 光

1.ひょっこり出てきた一枚の作文

  十年ほど前、故郷の生家で父(中野力、18921981)の遺品の整理をしていたら私が小学四年生のときに書いた一枚の作文が出てきた。原文のままここに書き写してみよう。

  

題目  <学校の帰り道>

                      尋常四年男子組      中野光

   かっかっというくつの音が静かな道にひびく。僕は元気よく道を急いだ。算術のことや

読み方のことも思い出してなお早く急いだ。     

   空は青くすみ渡って所々に真っ白な綿のやうな雲がふんわりういて居るなんともいえ

ないいい気持ちがする。

   カバンの中のお弁当の箱がことこと鳴る。僕はそれがおもしろいので飛ぶやうにして

あるいた。大曲のそばへ来ると、一人のおばあさんが僕に 「なにかひもを持っていま

せんか。げたのはなおが切れましたので」 とおっしゃったので 「これを上げましょう」

と言ってつつみ紙のひもをあげました。空ではいつも 「あほう、あほう」 と言っていた

からすが今日は 「えらい、えらい」 と言っていた。かばんの中ではお弁当箱がもとよ

り大きな音で「カタンコ、カタンコ」と言ってほめていた。僕はまえよりも早く道を急いだ。

橋のそばでふりかえると、さっきのおばあさんが立ち上がったところでした。

*      *      *      *

これはまちがいなく私の作文だった。「綴り方」の時間に先生から与えられた題で書いたものである。しかし、私はすっかり忘れていた。改めてこれを読んでみると、小学生時代に家と学校を往復した通学のときの情景が懐かしく思い出された。

私の母校・愛知県海部郡立田村北部尋常小学校は濃尾平野の西部、木曽川とその支流に囲まれた「輪中」のなかにある。見渡すかぎりどこまでも田んぼの広がる海抜0メートル地帯である。家から学校までの距離は約2キロメートル、およそ20戸の「むら」((あざ))はずれから学校までの一本道が通学路で、途中には一軒の家もなかった。登校時は村の子どもたちと集団登校するのだが、帰りはたいてい一人だった。単調な通学路を往復した私は四季の移ろいの中で自然を友として育まれたように思う。故郷を離れてわかったことは、秋の空の青さと雲の美しさと、そして都会では見られないその空の広さである。日本海から吹きこむ風は伊吹山と養老山脈のあいだを通りぬけるとき、にわかに風速をはやめ、雲は流れるように動いていく。それは壮大な動画であった。こうした自然の中をたった一人で帰る私はいつか空想や白昼夢を楽しむようなっていった。あるとき「養老山脈のほうに飛行船を見た」と皆に言って、「ウソつき」と責められたことがあった。少年時代の私は自分でも「ウソつき」を自覚して、ひそかに自分の中の「悪」と戦ったこともあった。

川べりの土手道はほぼ南北に一直線に伸びているが、ただ一か所中間地点で大きく曲がる。私たちはそこを「大曲り」と呼んだ。そこは待ち合わせの目印となったり、ちょっとした休憩の場所ともなった。子どもたちにとっては道草を食うのにふさわしい場所だった。この作文は私にこうした風景を思い起こさせてくれた。このあたりで小学四年生の私は下駄の鼻緒を切らしたおばあさんに「小さな親切」をしてあげたというのだ。多分私はランドセルの中にたまたま一本のひもをもっていたのだろう。また作文には「いつもは『あほうあほう』といっていたカラスが今日は『えらいえらい』と言っていた」と書いているが、はたしてカラスが鳴いていたかどうかまことに怪しい。例のよい意味でのイマジネーション、つくり話かもしれない。しかし作文の最後を「ふりかえったら、さっきのおばあさんが立ちあがったところでした」としめくくったこの文章は「うまいなあ」と我ながら子どもの自分をほめてやりたい気持ちになった。

2.先生の赤ペン

 この作文を書いたのが四年生の秋のことだとしたら、当時の受け持ちは「片野艶子」先生だったことはすぐに思い出した。先生はあの頃、三十歳前後で和服姿の上品な「おなご先生」だった。先生方の中でただ一人オルガンを弾きこなすことができ、いわゆる四大節(11日、紀元節、天長節、明治節という国家儀式)の全校全員「斉唱」の時はきまって先生がオルガンで伴奏された。例年は一年女子組の担任だったのに、あの年は九月の二学期から私たち四年男子組の担任に代わられた。「やんちゃ盛り」といわれた私たちの担任になられた事情は知るよしもない。でも片野先生になってクラスの雰囲気は変わった。先生のやさしさと同時に規律正しい躾の指導にもよったと思われる。

さて、作文のことになるが、用紙は学校所定のもので右上段に 「成績」 の記入欄があり、そこには 「甲上」 という文字が記されていた。さらにその上に赤い色で 「校長賞」 のスタンプ印も押されていた。が、それよりも赤インクで 「光さんの元気でゆくわいなことがよくわかります。うまいうまい」 と書き記されていたことが印象的だった。

先生はたしかに私の作文をていねいに読んでくださっていたのだ。そして私の書いた内容を 「うまいうまい」 と受け止めてくださっていたのだった。先生はこの作文に「評定」を下したのではなく 「評価」 をして下さったといえる。ここでいう 「評定」 とは単なる 「品定め」 とか「審査の結果」 なのだが、そうではなく良いところを見つけ、それに教師として共鳴し、相手を励ます、という「評価」をして下さったということである。教育の世界ではランキングをつけたり、選別の手段としての 「評定」 は必ずしもことばの正しい意味での 「評価」 にはならない。片野先生の私の作文に対することばは文字どおりの 「評価」だった。私は片野先生の 「うまいうまい」 という評価を先生にこそ感謝をもってお返ししたいと思った。

2.あとがき

 私はこの作文の赤ペンを故・片野艶子先生のご遺族にもお見せしたいと思った。先生はすでに半世紀も前に亡くなられておられたが、作文を持ってお宅にうかがった。私がお会いしたかったご長女の方はあいにくご不在で、ご家族のお一人にそのコピーをお渡しして帰った。その日の夕刻ご長女からお電話をいただいた。 「たしかに母の筆跡でした。こんなに大切にしていただき感謝申し上げます。実は今日は母の命日で、お墓参りにいっておりました。偶然にも母の筆跡に接し、いただいたコピーを仏壇にそなえて線香をあげさせてもらいました。」 とのことだった。今、私は書棚に片野先生のご遺族からいただいた七宝焼きのペン皿とともに大切に保存している。

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