私が小学生だった頃 (5)
少年の記憶「ベルリンオリンピック」と歴史の真実
中野 光
一、映画「民族の祭典」とA.ヒトラー
ベルリンでオリンピック(第13回)が開催されたのは1936(昭和11)年のこと、それは私が小学校一年生のときだった。しかし、私の記憶はない。わが家にはまだラジオはなかったし、新聞を読む力もなかった。それが、どうして私の記憶の中に保存されているのだろうか。
ベルリンオリンピックのことを知ったのは翌年の1937(昭和12)年夏に封切られた映画「民族の祭典」を父と一緒に名古屋の映画館「名宝」へ観にいったからだった、と思われる。
映画館の中は満員だった。映画「民族の祭典」のはじめでナチス・ドイツ政府の総統、アドルフ・ヒトラーが登場した。大観衆の拍手の中でさっそうと現れ、「ハイル・ヒトラー」の歓声に応えてきびきびとした動作で片手の挙手で応えた「勇姿」は印象的だった。あの映画全体がナチス・ドイツの「国威」を世界に誇示するうえで大きな宣伝効果をねらったものだった。
ヒトラーは眼光鋭く、鼻の下の“チョビひげ”が目立ったが、表情にはいささかの微笑もなかった。同じ頃、イタリーにはムッソリーニという首相がファシズム政権をにぎり、ヒトラーと並んでヨーロッパの政治情勢に緊張をひきおこしていた。
だが、当時12才の少年だった私にとって映画「民族の祭典」で心に残る中心人物は二人の金メダリストだった。
ひとりは女子水泳200メートル平泳ぎで優勝した前畑秀子選手、彼女は名古屋の淑徳女学校の卒業生で前評判も高く、相当の成績が期待されていた。映画でも優勝争いの場面で河西アナウンサーの「前畑ガンバレ!!」と絶叫する放送とあいまって応援の拍手が鳴りひびき、興奮のるつぼとなった。少年の私もおそらくたちあがって拍手をしたにちがいない。
もうひとりの金メダリストは、マラソンで優勝した孫基禎選手だった。「民族の祭典」のカメラはオリンピック最後のメイン・イヴェントとして先頭を争った3人の選手に焦点をあてて追った。観る者の手に汗をにぎらせた。3人の選手のうち二人が胸に「日の丸」をつけていた。
「日本ガンバレ!!」と私も叫んで応援したはずである。ところが、隣に座っていた父が、他人には聞こえないように「日本人じゃないんだぞ」と言ったことが気がかりだった。
第一位で走りつづけ、見事に優勝した「孫」選手は表彰台に上り、映画の画面でも満場の拍手をあびたにちがいない。しかし、映画館の中では前畑秀子選手のばあいとは、何となく雰囲気の盛り上がりはなかった。
映画からの帰り道で、私は父にたずねた。
「孫選手は日の丸をつけていたんだから日本人だろ。それなのにお父さんはなぜ、あの人は日本人じゃない、と言ったの。」
父の私に対する解答はこうだった。
「一位の孫選手と三位の南選手は二人とも朝鮮人だ。だけど、日本人選手として日の丸をつけて出場したのさ。」
そう聞いた私はさらに父に対する質問をしなかった。
その後、日本はドイツ、イタリーとのあいだに「日・独・伊三国同盟」を結び第二次世界大戦へと突入していった。
ところで日本と朝鮮との関係は、学校では歴史教科書どおり教えられたはずで、とくに1910年の「日韓併合」についてもさりげない説明を受けたにすぎなかった。しかし、私は納得できないまま、日常生活において理解を深めることはなかった。そのことは単に私だけでなく、大部分の日本人もそうだったはずである。
二、孫 基禎選手のその後
ベルリンオリンピックから戦争をはさんで52年がすぎた1988年、オリンピックが韓国のソウルで開催された。開会式のテレビを観ていたとき、私は思わず「あ!」と叫んだ。スタジアムにオリンピックのシンボルの聖火を片手にかざして入ってきたのはあきらかに老人と思われた。アナウンサーが「入場してこられたのはかつてのベルリンオリンピックの金メダリスト・孫基禎さんです」と解説した。万場総起ち、歓声は最高潮、天にこだました。私は半世紀以上前の「民族の祭典」でみた孫選手の姿を想い出し、言いしれぬ感動をおぼえた。あのベルリンオリンピックの優勝者の孫基禎選手は健在だったのだ。その後、はじめて韓国を訪れたとき、ソウルの市民運動公園にタクシーで案内してもらい、孫選手の首像と対面した。韓国では「孫基禎」の名前は「安重根」とならんで民族的英雄として知らない者はない、ということを何人かの韓国人から聞かされた。
ソウルオリンピックの翌年、1989年の夏のこと、私の畏友・山本典人さん(1928年長崎生まれ、長崎師範学校在学中、ヒバクシャとなる。元小学校教師)は孫基禎さんと東京で出会い、親しい間柄になられた。歴史教育の研究者でもある山本さんは、孫さんの戦中、戦後史についてのくわしい聴き取りをされ、孫さんの歴史体験は日韓両国の教師や子どもたちに
共有されるにふさわしいと考え、それを両国の共通の教材にしたいと願って孫さんと協力された。
山本さんは東京とソウルの小学校で授業を試みられ、その過程を私にも報告して下さった。山本さんの実践の記録は1994年に岩波ブックレットの一冊『日の丸抹消事件を授業 する』(No.334)として出版された。
このブックレットによって、私は全くしらなかったことを知った。山本さんが孫さんにあの日の回想を求めると、鮮明な記憶を次のように語られた、という。
「42.195キロメートルを走り抜き、スタジアムにとびこんだときの満場総立ちの地鳴りのような拍手、ラストスパートの大地を蹴り上げた脚、胸で切ったゴールテープ、53年前の感動は今も鮮やかです。二位はイギリスのハーパー、三位は同胞の南昇吉選手でした。(中略)
記録は2時間29分19秒2、当時の世界最高記録でした。
表彰台にあがると、頭に月桂冠、さらにかしわの若木を両手でいただきました。怒涛のように大観衆の拍手がわきおこりました。
ところが、私が優勝の歓喜に酔いしれたまさにその時でした。空に日章旗があがり、君が代が鳴りひびいたのです。驚天動地の心境でした。(中略)
亡国のくやしさとみじめさ、悲しみと怒りが胸底に深く沈下し、涙がとめどなく頬をつたわりました。」(後略)
優勝した孫選手はベルリンでは外国人のサインぜめにあったのは当然だった。そのとき孫選手は、自分の名前をハングル文字で記し、そこに“Korea”と書いた、という。またその直後、日本選手団をねぎらう祝賀パーティーには欠席し、ベルリン市内に住んでいた韓国人の店でひそかに催された慰労会に出席した。そこで、孫さんははじめて祖国の旗「太極旗」をみたという。
三、日の丸抹消事件を授業にした日本人の教師・山本典人
山本典人さんが孫基禎さんから聴いた話で、私もはじめて知ったことがあった。それは、当時の朝鮮で最大の読者数をもっていた新聞「東亜日報」が、孫選手の優勝を大きく報じた。しかし、記事につけた孫選手の写真には胸の「日の丸」は黒くぬりつぶされていた、そのために日本政府の出先機関「朝鮮総督府」は新聞社の幹部を根こそぎ逮捕し、新聞も発行を停止された。その事件はおそらく当時の日本にもつたえられただろうが、孫選手も帰途のシンガポールではじめて知った、という。ベルリンオリンピックでの孫基禎選手のマラソン優勝は、日本の植民地になっていた韓国の人々の受難史につながっていたのだった。
山本典人さんの岩波ブックレット(No.334)の内容については、ここでは一部しか紹介できなかったが、これが発行された時期、日本では「国旗、国歌制定法」が政権与党によって強引に成立させられてしまった。
それだけに山本さんの著作の出版は貴重なことだったが、あのブックレットは私が期待したほどには問題にされなかった。
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《追記》
孫基禎さんが亡くなられたのはご遺族に確かめさせていただいたところ、2002年11月15日だったという。翌々日の17日、ソウルで盛大な告別式が行われた。
日本でも、その直後、在日韓国人・故人を知る体育関係者を中心とする追悼集会が明治大学の一室を会場にして行われた。私も山本典人さんと共に出席した。
晩秋の氷雨が降る寒い日だった。