戦中から戦後へ(5) 

日本を愛した一アメリカ人の戦中と戦後


 

中野 光 

1.清里の父

山梨県の清里に「清泉寮」というホテルがあり、その南側にはキ−プ(清里教育実験計画)牧場という広大な牧場が広がっている。戦前の1938(昭和13)年にアメリカ人のポール・ラッシュ(18971979)によって創られたとのこと。ホテルの入り口近くに彼の胸像があり、夏にはそこのソフトクリ−ムがおいしいというので賑わいを見せている。

ポ−ル・ラッシュは第一次世界大戦後1925年来日し、アメリカン・フットボールを紹介した人としても知られているが、実は立教大学の教授であった。立教大学はアメリカ聖公会によって創設されたミッション・スク−ルで、ポ−ルは日本の教育・文化の交流とキリスト教伝道に精力的に活躍した。

 しかし、194112月8日日本軍の真珠湾攻撃によって日米間に戦争が始まるや、「敵国人」として日本政府によって拘束され、送還されるまでの約半年間を特別施設に閉じ込められた。アメリカへの強制送還の直前、一日だけ立教大学への往復を許され、キャンパスにあった外国人宿舎を出て・同僚・学生らに送られて日本を去ったが、その日のことは評伝(ポ−ル・ラッシュ伝、山梨新聞社編)に次のように書かれている。

 「立教大に戻ったポ−ルは、講堂に整列した教職員の前で遠山学長から感謝状を授与された。(略)多くの偉大な宣教師たちが日本に生涯をささげた。そしてこの感謝状は、その最後のたった一人の米国人宣教師ポ−ルの功績を永遠に記録しようとするものだった。このときポ−ルは43歳。独身だった。自分のすべてを日本の青年のためになげうってきた。

 五番館に帰るとポ−ルは教え子たちが見守る中で、カクテルグラスを暖炉に投げつけて割った。米国人が家を離れるときの習慣だった。

 学園はスズカケの美しい並木道で、もう二度と再会できないかもしれない別れを教え子や教職員が見送った。ポ−ルは恥も外聞もなく歩きながら男泣きに泣いた。」

2.再来日したポ−ル・ラッシュ

 1945815日、日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。首都東京をはじめ、ほとんどの大都市は米軍の空襲によって焼け野原となっており、日本の全土はアメリカをはじめとする連合軍の占領下に置かれることになった。その時ポ−ル・ラッシュは米軍少佐の肩書きを与えられ、GHQ(連合軍の最高司令部)で重要なポストにつき、情報部長のソ−プ准将と共にD・マッカ−サーが厚木飛行場に着いた直後に日本にやってきた。ポ−ルにとっては“なつかしの日本”への再来日であった。

 到着して間もなく彼はソ−プ准将と池袋の立教学院(大学と中学校)を視察した。立教のキャンパスは幸いにも戦災をまぬがれ、チャペルを始めすべての建物は3年半前、そこに別れを告げた当時のままだった。しかしチャペルのドア−を開けて内部へ入ったとき、二人は驚いた。正面の十字架はなく、大理石の聖壇は傷つけられ、礼拝堂は雑然とした倉庫となっていた。ポ−ルは立教学院の教授だった時、この学院がミッション・スク―ルの故をもって種々の受難を蒙ったことを知っていたはずである。天皇制国家主義教育の実態については、普通のアメリカ人よりもはるかにくわしい知日家であった。しかし、敗戦後の日本の、しかもアメリカ聖公会が創設した立教学院が戦後二ヶ月以上も

たった時点で、チャペルをこのような状態のままにしているとはどうしたことか。ソ−プ准将とポ−ルは激怒せざるを得なかった。続いて案内された奉安室(天皇・皇后の写真や勅語を保管するところ)が整然と保存されているのを知ると、その怒りは収まらなかった。総長をはじめとする学院の幹部を呼び集めて「あなた方はそれでもクリスチャンか!」と叱りつけたという。翌21日、学院の責任者はGHQ本部に呼び出され、重ねて叱責され、24日には書面をもって次のような通達が出された。『戦後日本教育史』(1977年、岩波書店)によると次のような歴史的評価がなされている。

 「1024日に達した指令『信教の自由侵害に関する件』では、ミッション系の学校の職員が『ソノ教育機関ヲ軍国主義化セン為ニマタ極端ニ国家主義化セン為ニ言語道断ニモ之ヲ完全ニ解体セシメルニ至ッタ、カカル赦シ難キ彼等ノ行為ニ対シテ連合国軍司令部ハ今日マデ注意ヲ向ケツツアリタリ』という厳しい前置きのもとに、戦時中のミッション系学校の腐敗を名指しで指弾している。当面の対象は、聖公会派の立教学院(大学・中学校)であった。すなわち、戦時中の同校が礼拝儀式と宗教教育を廃止し、教授・理事から教徒を解職し、記念礼拝堂を閉鎖した『蛮行』に対して、総長以下11名の教職員を解職すべきだと名指しで指令したのであった。また、敗戦以来文部省も学校幹部も『コノ信教ノ自由及ビ精神上ノ権利ノ侵害ヲ是正スベキ何等ノ措置ヲ講ジタル事実ナシ。』と」批判したのであった。

 これは立教学院の歴史にとって不幸で恥辱的な事件であった。しかし、戦後の立教学院はこのような事実から出発するほかなかった。

3.その後のポ−ル・ラッシュ

 1945年、軍務から開放されたポ−ルはアメリカへ一時帰国し、各地で日本への復興援助を呼びかけ、多額の資金をたずさえて山梨・清里へもどった。そして清泉寮を拠点に壮大な復興計画の実現にとりくんだ。1956年、キ−プ協会を結成、高根町の広大な土地を取得して“清里教育実験計画”の実現に全力を注いだ。現在の清泉寮の南側の牧場と教会・幼稚園・保育園を含む総合的諸施設はポ−ルの夢の実現であった。1970年代、日本の経済高度成長もそれを支えた。1977年、ポ−ルの日本での事業五十年を記念する祝賀会が東京・ホテル・オ−クラで盛大に開かれた。そこに来賓として招かれた皇族の三笠宮が述べた次のような祝辞はポ−ルに対してはもちろん参会者にも深い感銘を与えたと伝えられている。「先ごろ天皇陛下在位五十年ということがありましたが、きょうはそれに匹敵すべき式典だと思います。天皇の在位は運命のしからしめるところでありますが、ラッシュさんはご自分の意思において、また堅い信仰において今日の地位を築かれたのでありますから、いっそうの敬意を表さなければなりません。」

しかしその頃、ポ−ルの身体には病魔がおそっていた。式典の直後聖路加病院に入院。1979年死去した。享年82歳であった。『ポ−ル・ラッシュ伝』の最後にはこう記されている。

「ポ−ルの目指した「キ−プの道」はとてつもなくはるかに続く道程である。米国の援助で日本人が自立し、豊かな生活を実現したら、今度はその恩返しとして日本人はアジアの貧困、飢え、病気、不正に苦しむ人々を援助し・・・。それは愚かな戦争で国を破滅させてしまった日本人が、反省を込めて目指さなければならない、たった一つの世界平和への道である。そしてポ−ルは『私は死に至るまでこの道を進みたい』と常に語っていた。」という。

1986年刊の「ポ−ル・ラッシュ伝」1988年刊の英訳本は
ロゴス教会の
書棚に置きますのでお読みください。

    


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