子どもに語りたい
「青い眼の人形」物語 (1)

中野 光

2008.1.5

1.この歌、知っていますか

青い眼をした/お人形は

アメリカ生まれの/セルロイド

日本の港へ/ついたとき

一杯涙を/うかべてた

「わたしは言葉が/わからない

迷子になったら/なんとしょう」

やさしい日本の/嬢ちゃんよ

仲よく遊んで/やっとくれ

 いったい、この歌はいつごろ、誰がつくったのでしょうか。この歌はお母さんも、おばあちゃんも知っている歌ですから、ずっと昔につくられたのではないでしょうか。

 そうです。1918年、野口雨情という人が詞を作り本居長世という人が歌をつくったということですから、今からおよそ90年も前の事になりますね。野口雨情は子どものためにいくつのも童謡を作り、本居長世がそれに曲をつけました。たとえば「十五夜お月さん」とか「七つの子」など聞いたことがあるでしょう。これらは子どもたちだけでなく、大人の人々にも広く愛唱されました。今でも「なつかしのメロデイー」として歌いつがれています。

ところで、ここに歌われている人形は「アメリカ生まれ」で、船にのって日本の港についたのですね。その頃は、まだ今のように飛行機が空を飛んでいませんでしたから、太平洋をこえて、長い長い旅をしてきたのですね。誰につれられて日本までやってきたのでしょうか。日本語のわからない人形はどんなにかさみしく心細かったにちがいない、野口雨情はそんな人形の心がわかった人でした。そして、日本の子どもたちも「アメリカから来た青い眼の人形」の歌を大歓迎したのでした。

 それから数年たったころ、日本とアメリカとのあいだでたいへん困った問題がおこりました。日本からアメリカへ働きにいく人(移民といわれました)がふえて、アメリカ人の仕事をうばってしまうことが多くなりました。アメリカ人の「日本人はきらいだ!」「日本人は帰れ!」「日本人はアメリカへくるな!」という声がひろがったのです。そして、アメリカの国会では「日本人の移民を禁止する法律」ができてしまいました。その後も「日本人きらい」はふえていきました。

しかし、アメリカにはそのようなことに心をいためて、この悪い関係を変えなくてはならない、とつよく願った人たちもいました。とくに、明治時代から日本に住んで、日本人のやさしさと日本の自然の美しさを知り、アメリカへ帰っても日本を愛して、よい思い出を持ち続けていた人たちでした。そうしたひとりにシドニー・L・ギュ―リックという人がいました。ギューリックは1860年に生まれ、27歳のときキリスト教の宣教師として日本にやってきました。熊本や松山で伝道し、同志社大学・京都大学などでも教えました。5人の子どもたちはみんな日本で生まれ、日本人の生活にとけこんで、日本とアメリカが親しくなるために、いろいろ努力をした人でした。帰国してからはアメリカのキリスト教会のすぐれた指導者として活躍しました。

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