子どもに語りたい
「青い目の人形」物語(4)
中野 光
4.よみがえった「青い目の人形」
15年間も続いた戦争がやっと終ったのは1945年8月15日のことでした。日本人だけでも300万人の人たちが戦争によって死にました。青い目の人形は戦災によってもたくさん焼け死にました。
青い人形を日本の子どもたちに贈ってくれたS.L.ギューリックさんもその年の暮れに亡くなりました。戦争中、ギューリックさんはどう思っていたでしょうか。きっと、日本とアメリカとに戦争をなげき、悲しんでいたにちがいありません。もう一度日本を訪れてみたい、あの人形たちがどうしているか、尋ねてみたいと願ったにちがいありません。
1973年にフランキー堺が司会をして「発見された青い目の人形」という番組がNHKから放送されたことがありました。そこでは群馬県に保存されていた人形が紹介されました。
この番組がきっかけになって、全国で青い目の人形が話題になってきましたが、それは戦争が終って30年もたってからということになります。仙台には「『青い目の人形』を調査する会」が生まれました。人形はそれからつぎつぎに見つかりました。けれども12,739体のうち生き残っていたのは日本全国でわずかに324体でした。
さてその頃、アメリカのカンザス州に住むマーガレット・コルベットさんは一対の可愛い日本人形を手にいれました。戦争が終ったとき家族で一年間、日本に住んだことのあるコルベットさんは素晴らしい刺繍入りの着物を着たこの人形がどうしてアメリカへきたのか、調べてみたいと思いました。16年という長い時間がかかりましたが、これは55年前にアメリカの子どもたちから日本の子どもたちに「平和と友情」を育てるために送られた「友情人形」に対して、日本の各県の子どもたちが送った「答礼人形」だということがわかりました。
コルベットさんの人形はその中の「ミスみやぎ」といって宮城県の子どもたちが贈ったものでした。コルベットさんも「アメリカと日本の子どもたちが人形をとおして友情をはぐくみ、互いに理解し、平和な交わりができるように、私も新しい『友情人形』をおくろう」と思いました。さっそく、プディンちゃんとスザンナちゃんという人形が宮城県に送られてきました。そして、コルベットさんは『ミス宮城』をもう一度宮城県仙台に『里帰り』させてあげたいと思いました。
2003年5月、仙台の「青い眼の人形を調査する会」の方たちの努力で「ミスみやぎ」とコルベットさん、娘さんの三人がついに仙台にやってきました。宮城県の浅野史郎知事を始めたくさんの方たちの協力がありました。仙台の歴史民族資料館には宮城県にわずかに残っていた八体の人形と「ミスみやぎ」がかざられました。宮城県には221体の人形が贈られましたが、残っていたのは8体です。そのうちの1体は「こいつはアメリカのスパイだ!」とさんざんにいじめられた跡が残っていました。裸で、髪の毛はすっかりむしりとられ、傷だらけでした。それでも残っていたというだけで幸せだったかもしれません。
宮城県の方々は、青い目の人形を贈られた日のことを覚えている人も、戦争中に人形を焼いた光景を見つめた人も、新しい友情人形をもらった子どもたちもみんなコルベットさんたちを心から歓迎しました。コルベットさんは3体の人形をお土産として持ってこられました。
そのうちの1体はかわいいアフリカ系の人形でした。「世界にはいろいろな人がいます。そうした多くの人たち、民族は共存共栄していかなければならないことを考えてください。」と言い添えました
「日本で大変素晴らしいときを過ごしました。‥‥本当にご尽力に感謝します。‥‥若い人たちはお互いに友達になるべきですし、人形はその人たちの間に友情をはぐくむのに有効だと思います。」といって大変喜んで仙台を後にしました。こうして戦争で断ち切られたように思われた「青い眼の人形」たちの「虹のかけ橋」は、再びよみがえり、二つの国の間にかけられました。
この「虹の橋」を作ったギューリックさんの孫に当たるD.ギューリックV世夫妻もまたそれから3年後・2006年に仙台を訪れました。じつは、ギューリックさんはその20年前1986年、世界の人形を集めた「人形の家」が横浜に完成したとき、記念のゲストとして招かれました。友情人形を贈ってくれたS.L.ギューリックさんはもう45年も前に亡くなっていましたので、孫のD.ギューリックさんが来ることになったのです。それまで祖父のギューリックさんが日本の子どもたちに友情と平和のしるしとして人形を贈っていたことについてあまり知りませんでした。でも、この仕事がどんなに大切なものであるかを知ったD.ギューリックさんは、お祖父さんの意志をついで「新・青い眼の人形」を贈ることにしました。2006年までに206体の人形が日本にやってきました。
D.ギューリックさんは大学で数学を教えています。奥さんのフランシス・ギューリックさんも数学の先生ですが、206の人形たちの洋服はフランシスさんがお休みのときに作りました。
2006年6月9日、仙台にD.ギューリック夫妻を迎えて歓迎会が開かれました。「日米人形文化を語る会」でギューリックさんは「妻と私は二つの人形をもって宮城県を訪れました。80年前と同じ精神をもって日本に来ています。二つの国の友情をはぐくみたいと思います。世界はどんどん小さくなっています。そして、世界はいろいろな問題を抱えています。洪水・地震・戦争ですね。世界が狭くなればなるほどお互いに助け合って理解しあっていくことが大切です。」人形の交流によって「子どもたちがお互いを理解する、平和を考える基になっていると思います。」と語りました。
宮城県で見つかった「10体の友情人形の展示」を興味深く見たギューリックさんは次のように語りました。「最も素晴らしい体験は、ここで80年前の十体の人形に出会えたことです。これらの人形のメッセージはいくつかありますが、一つはこれを残してくれた人の勇気を示してくれたことです。そして、友情を示しています。」
夫妻はこのたび2体の人形、シャロンちゃんとソフィアちゃんを連れてきました。ギューリックさんは「私の人形たちも元もとの人形たちと同じように、相互理解、友情、平和というメッセージがあるのです。」といってそれぞれを二つの学校に贈りました。
こうしてS.L.ギューリックさんによってかけられた日米の虹の橋は、孫のギューリックV世によってよみがえり、再びしっかりとかけなおされました。
(写真は「みやぎ青い目の人形」を調査する会編「お帰りなさい『ミス宮城』2003年里帰りの記録」より転載)