私が歩いた道で
中野 光
私は77年に及んだ生活において、実に多くの方々と人間としての出会いを体験し、忘れることのできない貴重な事実に遭遇してきました。
それらの中で、キリスト教との出会いについてはつぎのようなことがいえるとおもいます。
第一は、戦争中から敗戦直後にかけてのことです。戦争中、私は海軍兵学校というところで教育を受けていました。同じクラスには数少ないキリスト者で、鈴木善平君という友人がいました。戦争が終わって、私は彼と再会し彼の家族を識り、彼に導かれて豊橋の聖公会昇天教会に通い、初めて聖書も読みました。しかし、当時の私の乏しい力量では内容を理解するにはいたりませんでした。時期は1947年、日本国憲法が誕生した年でしたが、日本の社会は貧しく混沌の中にありました。私自身、戦争中に受けた教育を否定しながらも新しい人間としての転生を求めて模索していたと思います。戦争中も信仰を守りとおした鈴木君の家庭の温かさと、彼の生き方の清純さとをとおしてキリスト教と出会えたことは幸せでした。また、私は新しい憲法の内容がイザヤ書にも示されている平和の思想と、人間が神の前に平等であるという思想に深い感銘を覚えました。
第二は、それから10年たった1952年、桐朋学園在職中のことです。私はクリスチャン・ホームに育った福富ユリと結婚しました。それは「思想・信条を異にしているとはいえ、お互いにそのちがいを尊重しあうこと」を確かめあった上のことでした。彼女は私にとってキリスト教信仰への道を私に先んじて歩いていた人でした。おかげで、すぐれた牧師、教会員の皆さんにも出会うことができ、今日にいたっております。とりわけ金沢在住の1960年代、今も交わりを続けさせていただいている加藤常昭・森野善右衛門の両先生、畏友の上野武さん御夫妻・深谷松男さん御夫妻に出会えたことはまことに幸いでした。その後、私は和光大学の教員を経て、1980年代にキリスト教主義の教育を目標として掲げる立教大学に移りました。そこでキリスト教について新しい知見を得ると同時に、クリスチャンの方々とのかけがえのない交わりに恵まれました。これも幸せなことでした。
第三は、45年に及んだ教師生活・教育研究者としての仕事に触れないわけには参りません。私は長年の教育経験をふりかえると「ゆるされてこそ、つとまった」という実感がわいてきます。未熟で誤り多き実践と、それをのりこえる努力を続けてこられたのは有難いことでした。
教育研究では教育の課題を常に厳しく問い直した教育改革者の仕事から多くを学んできました。内村鑑三をはじめとし、大正期の自由主義的教育改革者の仕事に光を当ててきましたが、そのこととキリスト教理解とはやはり結びついておりました。近代教育の思想的・実践的源流をつくったスイスの教育者J.H.ペスタロッチ(1746〜1827)への関心の深まりもそうした立場からのものでした。
最後の職場であった中央大学では、ロゴス教会とご縁の深い外間寛学長のご配慮で、韓国・台湾出身の学徒兵についての調査をすることができ、アジアへの国際的視野を広げ、日本の歴史を厳しく問い直すことの大切さを自覚したように思います。
今回の私の決断は、特に教育者として目には見えなかったものを見、耳には聞こえなかったものを聴こうとし、さらに神と人間とを結びつけたイエス・キリストに近づきイエスが求めたものを求めようとしていた、といえましょうか。
いま、故山本三和人先生を中心として117年の歴史を創ってきた日本基督教団ロゴス教会で、山本俊正牧師により受洗できますことを光栄に存じております。なお、私が受洗を決意して、そのことを書簡で山本先生にお伝えしたのは本年1月14日のことでした。それから5日後の19日早暁、私は右眼の突然の出血により5年前の左眼につづき両眼の視力を失いました。これは私にとって厳しい試練でしたが、同時にいつくしみ深き神からの贈り物であると受けとめております。
私を支え、育ててくださったすべての方々、とりわけロゴス教会でお世話になった先生方・教会員の皆さんに感謝し、キリスト者として皆さんのお仲間に加えていただくことをお願いするものです。