広島とペスタロッチーとヒロシマ
中野 光(日本生活教育連盟委員長・元中央大学教授)
(05.1.16 LOGOS No.5より)
明治以降の日本の教育史において、もっとも大きな影響力をもった外国人の名前をあげるとすれば、おそらくスイスの教育者、H・ペスタロッチーだろうと思います。この人は日本でいえば江戸中期、1746年にチューリッヒで生まれ、1827年81歳で亡くなっていますからすいぶん昔の人物です。にもかかわらず、日本の近代教育も貢献したのはその教育思想と教育者としての実践が魅力的でゆたかな精神的遺産をのこしたからでした。彼の著作のほとんどは日本語に翻訳され、1970年代には13巻にも及ぶ全集が平凡社から出版されています。
広島は20世紀のはじめから今日にいたるまでペスタロッチー研究のメッカとさえいえるところでした。とくに1902(明治35)年に日本で二番目の高等師範学校が広島に創設され、昭和に入って広島文理科大学が創設されると、そこでのペスタロッチー研究は国際的にも高く評価されました。その学問的蓄積は今日の広島大学にひきつがれています。
そのような歴史を創った中心人物は長田新(おさだあらた 1887〜1961)という教育者でした。ペスタロッチーの著作の翻訳、彼の評伝の著作全集の監修、同時に多くのすぐれたペスタロッチー研究者の育成はまさしく余人をもって代えがたいものでした。それだけではなく、自らも被爆者でしたが『原爆の子』と題する子どもたちの作文集を岩波書店から出版1951年)し、平和教育の礎をきずきました。この本は今でも岩波文庫(上下二巻)にも加えられ、十数カ国語に訳されています。
いま、私たちの国では広島という漢字をつかわず「ヒロシマ」とカナ書きで表現することが多くなりましたが、それは広島が国際的な平和都市となったことを意味しています。広島をかつての軍都から変えたのは長田新を中心としたペスタロッチー研究と平和教育と平和運動だった、といえましょう。
過日、「ロゴス往来」で私の「ペスタロッチー教育賞」受賞の報せをいちはやくつたえてくださったことに驚き、かつ恐縮しました。広島大学は13年前から「我が国の極めて困難な教育状況の中で教育の原点を示している個人ならびに団体」を選んで顕彰する制度を設けたのでした。私の場合、個人としてというより、私が責任を負っている二つの団体が、ペスタロッチーおよび長田新の精神を継承してきたことから、そのことが評価されたのだ、と思います。
なお、ペスタロッチーの墓碑銘には、彼の業績をたたえたうえで「人間!キリスト者!、市民!すべてを他人のためにし、己には何物も。恵みあれ彼の名に!」と記されています。