戦中から戦後へ(6)

賀川豊彦との接点

中野 光

さる616日(土)、私は明治学院キリスト教教育研究所に求められて「日本のペスタロッチ−としての賀川豊彦」と題して研究報告をした。視力を失って一切の文字は読めず、記憶力は衰えているのでいったんはお断りしたが、かつてお世話になったことのある米沢和一郎先生という方の熱心なおすすめで、お引き受けしてしまった。

 レジュメのようなものがあるとよいと思って、この主題についてあれやこれやのことを思い出してみた。私が賀川豊彦という人を知ったのは敗戦の直後(16歳のとき)だった。新聞で彼が東久邇首相の顧問(ブレイン)に就任し「一億総懺悔」をといた、その記事に接したときだったと思う。私はその意味がわからず母にたずねた。

母から「日本国民の一人ひとり、全部が悪かったと悔い改めること」ということだと聞かされて「なぜそんなことが必要なの?」と問いただしたはずだが、納得できる解答を聞くことはできなかった。日本が負けたのは自分に責任はない、と思っていたのだから。

それにしても香川豊彦とはどんな人物か、たぶん母は「その人はキリスト教の牧師さんだ」ということくらいは教えてくれたのだろう。

それから1年半たった1947年の4月、私は岡崎高等師範学校に入学した。この学校は全国に四つしかない中等学校教員を養成する学校だった。入学して間もない頃、賀川豊彦が来校し全学生・教職員(約400名)に「科学と宗教との調和」について講演をした。校長は講師としての賀川を私たちに紹介するとき、彼がキリスト教の伝道者であると同時に主著の「死線を越えて」(1920年)についても語ったように思う。戦前にスラム街の貧困の只中で生きている人々と共に生活し、そこでの体験にもとづいて書かれたその小説は当時のベストセラ−として多くの人に深い感銘を与えたことも知った。しかし、その日の講演内容を思い出すことは全くできなかった。

驚いたことに、私のレジュメを読まれた米沢先生は、私の記憶を裏づける賀川の日記とその講演内容の記録を、賀川の在学した明治学院・賀川文庫から見つけ出し、すぐにそれらをコピ−して送ってくださった。                                                       (つづく)

TOPへ