戦中から戦後へ(7)
賀川豊彦との接点(その2)
中野 光
私が賀川の講演を聞いたのは1947年で、いまから60年も前のことだからその内容を覚えていないのは当然のことかもしれない。岡崎高等師範学校の同窓生数人に電話でたずねてみたが、誰もその講演の題目を覚えていない。それどころか、賀川豊彦という人物の名前すら忘れてしまった、という友人もいた。しかし私の戦後私史において、この人の名はしばしば思い浮かんだ。主著の『死線をこえて』も読んだ。その題名から戦争文学かと思ったが、じつは「日本の底辺」に生きた人々の壮絶ともいうべき事実の記録文学だったことに驚いた。しかも彼は大正時代にその神戸のスラム街で生活をした牧師だった。
また、教育史研究では1920年代に新潟県の農民がおこした大規模な小作争議の過程で「無産農民学校」といわれた学校を小作農民が創設し、賀川がその校長をひきうけた、という史実も知って驚いた。しかし、私の関心はそれ以上に深まることはなかった。その理由は、前に記した戦後の賀川がとなえた「一億総懺悔論」に当時少年だった私が著しい違和感を持ったからだった。
私だけではなく、私の身近な人たちは「日本がどうせ負けるのなら、なぜもっと早く戦争を止められなかったのか」「せめて、半年前に降伏しておけば、こんな悲劇から救われたのに。」「いや、それよりも馬鹿な戦争をやらなければよかったのに‥‥‥」という気持ちが日常生活では口々に語られていた。だから「総懺悔論」を唱えた賀川豊彦という人物への違和感は解けることはなかった。
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そのような賀川へのマイナス・イメ−ジが変わったのは1980年代のことだった。確か1979年は国連がポ−ランド政府の提案を受けて、その年を「国際児童年」と定め、「子どもの権利に関する条約」を成立させるための運動の出発点となった年である。この条約は予定どおり十年後の1989年11月20日の第44回国連総会において満場一致で可決成立した。これは画期的なことだった。その内容が、子どもを権利の主体とし、いずれの国家もこの条約の内容を憲法もしくはそれに準ずる法律で保障することを求めたからである。そして、それを成立させるために各国は誠実な努力をした。さらに、この案が成立してから1年後には国際条約としては国連史上異例の速さで各国政府はこれを批准した。日本は5年後の1994年に世界で158番目に批准した。遅すぎたとはいえ、日本にとって有意義だったといえる。
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さて、私が「子どもの権利条約」の原文をはじめて読んで驚いたことがあった。それは、この条約の歴史的源流が、1924年に当時の「国際連盟」で採択された「子どもの権利に関するジュネ−ブ宣言」に発する、と記されていたことだった。1924年は日本の元号でいえば大正13年、関東大震災の翌年のことである。当時の教育についてやや深い関心をもっていた私は実はジュネ−ブ宣言のことについて知らなかった。知らなかったのは私だけかと思っていたところへ、日本教育学会の会長だった大田堯先生から電話がかかってきた。
「あの条約の前文に出てくるジュネ−ブ宣言のことについて、そのころ日本の教育界ではどう受け止められたのでしょうか。また、大正デモクラシ−の時代に子どもの権利について誰がどう考えていたのでしょうか」と。
私は自分の無知を恥じた。早速中央大学の図書館の地階にいって昔の新聞を調べたり、教育雑誌についても当たってみた。しかし、当時のジャ−ナリズムや教育学の世界ではジュネ−ブ宣言については全くの無反応だったことがわかった。しかし、その頃畏友の伊ヶ崎暁生さん(1930~2005)が賀川豊彦の「子どもの権利論」について『国民教育』という雑誌に紹介された。それによると、賀川の「子どもの権利論」は1924年に東京深川で講演したもので、その記録は雑誌「児童保護」に発表されているということだった。
時期は1924年、ジュネ−ブ宣言が出された年である。この宣言と賀川の講演とは関係があったのか、なかったのか、あったとすれば彼はジュネ−ブ宣言をどうして知ったのか。私は研究者としての知的興奮を覚えた。(つづく)