「私が小学生だったころ」
戦争が突然やってきた
(軍国少年の戦中と戦後)
中野 光
(一)小学校の二年生のとき
1937年7月7日の「七夕」(たなばたの日)だった。日本軍は中国軍を相手に戦争をはじめた、と聞かされた。でも、私にはそれがどんなことかわからなかった。戦争とは「国と国とのケンカなのだから、はやく止めなくちゃ」と思ったくらいだろう。
「国語」の教科書には「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という絵入りの文章があり、鉄砲をかついだ兵隊さんが行進していた。だから、それ以上の想像力は私にはなかったはずである。
ただ私は家庭で母に「なぜ、日本と中国が戦争をはじめたの?」と質問した。
「日本と中国はきょうだいのような国、それなのに中国にいた日本の兵隊さんが中国の兵隊から殺されたらしい。だから、日本は中国の悪い兵隊をこらしめるために戦争をするわけ、中国がはやく降参すれば戦争はおわるよ」。
ただ二年生だった私は戦争がどうなるのだろうか、という問題に関心をよせ、毎日の新聞に眼を通すようになった。
学校から帰ると、まず新聞をひろげ、戦争の記事についての解説を母にしてもらった。
日本軍が戦争に勝ちすすんでいることを知ると、うれしくなった。
おそらく夏休みが終わった初秋のころだったろう。担任の岩間一郎先生が私の隣の席にいた三輪英治(ひではる)君をみんなの前に立たせて「実は、英治君のお父さんが兵隊さんになって遠い外国に行かれることになった。英治君の家にはこれから長いあいだ、お父さんがおられなくなる。英治君はさびしいだろうが、がんばりなさい。みんなも英治君となかよくしょう。」というようなことを語られた。
私の家のごく近くの元気者だった「盛広(もりひろ)さん」にも召集令状(赤紙)が来て、村の神社で送別会が行われ、私たち子どもも「日の丸」の小旗をもって村境まで見送った。
ところが間もなく、盛広さんの「戦死」の報せがとどいた。あんなに元気でみんなに手をふって出征された盛広さんが白木の箱に入って帰ってこられるとは、全く思いがけないことだった。
葬儀は盛大に行われたが、息子を失った盛広さんのお父さんが、多勢の村民の前で「息子は天皇陛下のために生命を捧げたのです。こいう立派な息子をもった父として光栄なことです」と挨拶されたそうだ。
我が家では母が「私だったら泣きくずれただろうにー」とつぶやいていたことが印象に残っている。
その年の暮れに、私にとって大好きな叔父(母の実弟)にも召集令状が来た。この時も神社で神主の祈祷をうけて「出征軍人」として出立していった。祖父の挨拶は、悠然とした口調だったように思う。あとで母から聞いたところでは、二人の伯父は実弟に軍隊生活の「要領」をあれこれと教えていたらしい。私は「戦地」の叔父に手紙を書き送ったが、しばらくして返事もとどいた。
ところが、出征して半年もたたない頃、叔父は中国で病気になって、豊橋の陸軍病院に入院しているとの報せがとどいた。母と伯母は早速、見舞いに行ったが、叔父の病気は全く心配無用とのことで安心した。しかもその後、叔父は傷痍軍人の白衣姿で我が家に来てくれた。しばらくの休暇が与えられ、二度目の赤紙が来て、今度は「満州」へ行った。
× × × ×
(二)あとになってわかったこと
1980年の秋、私は日中教育研究交流のための訪中団のひとりとして、はじめて北京郊外の盧溝橋を訪れた。
北京からバスに乗って二時間ほどの距離にあった盧溝橋は、かつてマルコ・ポーロも立ち寄ったという美しい観光地で、橋も芸術的価値の高いものだった。
そのことよりも私にとっての驚きは、60年も前になぜ日本軍が、こんなに遠い外国で戦争をおこしたのか、ということだった。
1937年7月7日から1945年8月15日にいたる15年間のアジア・太平洋戦争の発端となった「盧溝橋事件」は、日本軍によって仕組まれたものだった。くわしい歴史年表を調べてわかったことは、1937年7月7日の前、日本軍と日本政府はすでに1931年9月18日から日中全面戦争への準備を着々とすすめていたということである。そして7月7日以後の軍事的対応のすばやかったこと。
私は1980年後も16回の中国への往還をしたが、私たちはいかに歴史の真実からへだてられたか、そして今もなお歴史への無知の状態から脱け出していないのではないか、と思っている。 (続く)