熱意あふれる説教で多くの魂を救った人 大柴恒著『山田弥十郎ーその人と生涯ー』


中野ユリ

 私はこの本を読むまで、山田弥十郎という人物について何も知りませんでした。 山田弥十郎は、1895(
明治28年)に救世がロンドンから来日して間もない1898年、救世軍に参加した山室軍平を支えてほとんどその一生を救世軍のために捧げた人です。

 山田弥十郎はその波乱に満ちた生涯を、救世軍の歴史と日本社会に果たした役割を明らかにしながら、読み易い文体と暖かい眼差しで描いています。
 山田弥十郎は、文書伝道よりもむしろ熱意あふれる説教で多くの魂を救った人でしたから、史料としての文書は余り残されてはいなかったようです。乏しい史料や聴き取りによって描き出した山田弥十郎の姿には、読者の胸を打つものがあります。

 山田弥十郎は、京都本友禅染の裕福な糊置業の長男として生まれましたが、父の代で家運は衰頽し、17歳で父を亡くした時には貧窮のどん底生活であったといいます。母と4人の弟妹の責任が17歳の弥十郎の肩にかかり、軍人か政治家にあんりたいという希望もかなわず、そのためか酒色におぼれ、暴力をふるい、自殺を計るといったすさんだ生活に堕したようでした。

 とこれで明治28年、20才のとき始めてキリスト教に触れ、21歳で洗礼を受けてからは、ただ一筋に「彼は真の基督者あった」と山室軍平に言わしめた生涯を貫き通しました。何がこのような劇的な回心をさせたのでしょうか。後年、「十字架の基督を仰」いで感じた「罪の意識」がキリストに向かわせたといわれたそうです。

 救世軍の伝道とは、福音に基づく貧民救済、つまり伝道と社会事業の実践でありましたから、出獄人救済所を設けたり、特に婦娼運動に積極的にかかわり「婦人救済所」を設置したりしました。これはいわゆる暴力団との対決が避けられず、再三、危害・迫害を受け、ついには重傷を負うなど命がけの毎日でありました。

1905(明治38)ネン30歳デ藤田喜四子ト結婚。物理的には決して恵まれない窮乏生活の中で、共に公娼廃止運動のために戦いました。それを支えた信仰の力には驚嘆するばかりです。

 とこ呂が1920(大正9)年、45歳の時、弥十郎は救世軍を脱退します。その理由は救世軍のイギリス的性格から脱皮して、日本の救世軍に変わっていくための「捨て石」にあんるためだったといいます。迫害の後遺症による絶え間ない頭痛に悩まされてもいました。また、その当時の日本は、第一次世界大戦から満州事変を経てファシズム・軍国主義体制へ移行していったことは周知のことですが、キリスト教会もまた「日本的キリスト教」へと変質していった時でもあり、山田弥十郎は救世軍に違和感を覚えるようになったといいます。

 生命を賭して共に戦ってきた救世軍との決別は、どんなに辛いものであったろうかと思います。去っても死ぬまで救世軍の発展を願い続けていました。その後は救世軍時代より満州にかかわっていましたので、そのまま大連を拠点に、自由伝道を行いました。

 決して物質的に豊かでない伝道者の家庭で、しかも救世軍時代は生命の危険を伴う生活でありながら、長男・基男は牧師(後に山梨英和学院長)として、長女・愛は婦人矯風会のために生涯を捧げ、ともにご両親の信仰と志をつがれました。

 昭和4年に貧窮と戦い、祈りと忍従と奉仕の生活を貫きとおされた夫人が永眠。昭和9年には次女・望が19歳で死去しました。大連で一人伝道生活をすることになったその年の秋に上京し、長男・基男が伝道師として働いていた富士見町教会の講壇に父子で立ちました。「親子して共に神の恩寵に応える最初にして最後の奉仕の場となった」場面は胸あつくなる思いがしました。

 そして、一人大蓮に帰任して間もなく60年の生涯を終え、召天しました。(この著書によってキリスト教伝道史に一頁が加えられ、山田弥十郎の名が残ることになったそうです) 新書判150頁 キリスト新聞社発行

TOPへ