思いがけない電話とクレーマー先生

1.不思議な電話

 たしか、530日(日)の午後のことだった。教会から帰宅してしばらくたった頃、真野みつ子姉から電話をいただいた。

 「鈴木善平という方の友人でイトウトシオという方から中野さんあての電話がありました。」とのこと。

 それは私にとって不思議な電話だった。私はイトウトシオという人は知らない。だが、鈴木善平君は私の海軍兵学校時代のクラス・メイトで、戦後私をキリスト教の世界に導いてくれた畏友である。そして私は彼のことを三年半ほど前の会報「ロゴス」に「鈴木善平君のこと」と題してエッセイを書いたことがある。とっさに私は「鈴木君に何かあったのでは……」と心配になった。さっそく彼に電話したところ、健在だったのでほっとした。しばらく話をした後で、「ところで君にはイトウトシオトいう友人がいる?」とたずねました。「うん、いるよ。豊橋二中時代からの友人で、一橋大学から大手企業に入って、海外勤務も長かったんじゃなかったかなあ。年賀状のやりとりは今でも続いているよ。」

これで私の疑問の半分は解けた。あとは、イトウトシオ(伊藤登志夫とわかった)なる人がなぜロゴス教会に、しかも私あての電話をかけてこられたのか、という疑問が残った。しかし、それから間もなく伊藤さんご本人から電話がかかってきた。鈴木善平君がさっそく私のことを知らせてくれたようだった

「はじめてお電話申し上げますが伊藤登志夫と申します。このたびは突然中野さんをお騒がせいたしまして申し訳ありませんでした。」といわれ、次のような自己紹介をされた。

 「じつは私は昭和25年の春一橋大学に入学し、実兄のすすめで目白のロゴス英語学校に入り、ミス・クレーマーから英語教育を受けました。ミス・クレーマーから学んだことは英語だけではありません。彼女の人格とキリスト教の教養がその後の私の支えになりました。八王子のロゴス教会を訪れたことはありませんがホーム・ページで会報「LOGOS」はずっと愛読しています。かつて中野さんが3年ほど前に「鈴木善平君のこと」を書いておられたのには驚きました。彼は私にとっても懐かしい友人だったからです。

なおLOGOSにはあなたの奥さんと思われる中野ユリさんがお父さん・福富啓泰さんのことを書いておられた原稿も印象的でした。………」

 伊藤登志夫さんからの電話の内容には驚くことばかりだった。私の原稿が白築さんのお骨折りでLOGOSに掲載され、ロゴス教会のホームページに載せられ、思いもかけなかった方に読まれ、それが御縁になって感動的なコミュニケーションに結びつくとは、とても信じられないことだった。その夜、鈴木善平君から「伊藤君がLOGOSに君が書いたもの全部をプリント・アウトして送ってくれたよ。僕について書いてくれたものも改めて読んだ。君の友情の厚さに感激した。ありがとう。」と言ってくれた。

 それにしても、伊藤登志夫さんが半世紀前のロゴス英語学校のこと、特にミス・クレーマーの信仰と人格とについて今でも深い尊敬の念を抱いておられることに感銘を受けた。会報の「LOGOS」が文字どおり「時空をこえて」はかり知れない力を持っていたことを今更のごとく知った。

 伊藤さんがミス・クレーマーについて語られた言葉にも力がこもっていた。恥ずかしいことに、私は「ミス・クレーマー先生」については教会の壁にかかっている写真しか知らなかった。ロゴス教会が目白からここ八王子に新しい土地を求めて開堂した26年前だったら、故山本三和人先生をはじめ幾人かの方々に、ロゴス教会と英語学校の歴史を支えてくださった方についてお話をうかがうことができたのに、と悔やまれる。

 2.ミス・クレーマーのこと

 私は遅すぎたとはいえ、手許にある『日本キリスト教大辞典』(1988年、教文館)をひも解いてみた。そこにはクレーマー先生について、わりあいくわしく経歴・業績などが次のように紹介されていた。(執筆者は太田俊男)

「クレーマー Kramer Rois F (1891.7.71976.4.23)アメリカ福音教会婦人宣教師。1911年オハイオ州クリーヴランドの幼稚園教師養成所を卒業、同市立A.G.ベル聾学校に奉職。17(大正6)年、宣教師として来日、牛込矢来町福音教会で伝導、バイブル・クラスを指導 (192427193139)。

一方ライシャワーA.K.(大正13〜昭和2)夫妻の要請により、同教会で日本聾話学校の創立に協力。読唇法によって聾者が話せるようになる教育法の先駆者となる。何回かの休暇帰米の後37(昭和12)年7月以来、大戦中も日本にとどまり、収容所での不自由な生活を送った。45年91日帰米したが47年再び来日して伝道と救済活動に献身した。

48年6月中渋谷教会に聾者の教会、のちのエパタ教会を発足させた。53年、定年に達したが延期を出願、57年6月23日まで日本にとどまり戦災で焼失した矢来町福音教会のために尽力、それを継承した山本三和人牧師のロゴス教会とロゴス英語学校を献身的に助けた。引退後、アイオア州シダーフォールズ市のウェスタン老人ホームで召天。」

 なお、この『日本キリスト教歴史大辞典』には「ロゴス教会」の項目があり、そこにクレーマーがライシャワー夫妻と協力して1920(大正9)年に「日本聾学校」を創設したことが記されていた。さらに、続けて「特筆すべきは婦人宣教師による英語のバイブル・クラスが開設され、多くの優秀な学生たちが集まった」とも書かれていた。さらに重要なことは、次のことも明記されていたことだった。

  「反戦牧師として言論弾圧を受けた牧師、山本三和人牧師が、1947623日『言葉こそ自由につながる』として『初めに言葉ありき』(ヨハネ1-1)から牛込矢来町教会を『ロゴス教会』と改称、豊島区目白町に会堂を建築し、ロゴス英語学校を併設した。」 クレーマーが再来日した直後のことであった。彼女が日本における長年の「神奉仕」を終えて日本を去ったのは1957623日のことであった。

3.ロゴス教会の歴史に思う                

いまの私にとって「クレーマー先生」について知りうることはこの程度に限られると思っていた。しかし、曲りなりにも教育史を学んだことになっている私にとって恥ずべきことがあった。 それは日本における言語障害児教育について無知に等しかったことだ。

「日本聾学校」は1954年に訪ねたことがあった。聾教育について「口話法」のことは金沢大学教育学部に在職したこともあって少しは知ったつもりだった。ライシャワー夫妻と日本の聾教育の関係についても不十分な知識だが私にもあった。しかしクレーマー先生のことは知らなかった。その人が日本における言語障害児教育の発足にかけがえのない働きをされておられたとは。私は無知であったことを恥ずるよりほかはなかった。さらにクレーマー先生については文字で知っただけでも「厳粛な」ともいうべき疑問がうかんできた。

1941(昭和16)年128日、あのパール・ハーバー事件以後、当時在日していたアメリカ人は民間人も捕らえられ、東京では田園調布に日本政府が設けた「敵国人収容所」に全員連行され、厳重な監視下におかれたはずである。

そして翌年早々当時「中立国」だったポルトガルのリスボンを経由してアメリカへ帰国させられたはずだ。軍国少年だった私はそのことを新聞で知っていた。

にもかかわらずクレーマー先生は帰国を拒否、終戦の日まで戦時下の日本にとどまられた、という.終戦から2週間後の「194591日、帰米」という文字を拡大読書機で読み取った私はわが目を疑った。そして翌々年の1947年、再び来日、伝道と救済に献身された。当時の東京は文字通りの焼野原で、そこで生きていく苦難は十分予想されたはずなのに、あえて再来日された先生の決断を支えたものはなんだったのだろうか。

 私はロゴス教会で長い間お世話になりながら、すっかり御無沙汰を重ねていた渡部法雄兄に電話でうかがうことができた。

 渡部兄がクレーマー先生にはじめて会われたのは「戦後の昭和22年」、先生が再来日された直後のことだった。「クレーマー先生を抜きにしてはロゴス教会の歴史を語ることはできません。あの時代、それは大変な時代でした。住む家もないし、食べ物もない。飢えと混乱の時代でした、クレーマー先生は終戦の日まで日本の捕虜収容所に閉じ込められたはずなのに、米人宣教師として帰ってこられ、山本三和人先生を援けて伝道と日本人の救済に献身されました………」私が「先生はどんなタイプの方でしたか」とお尋ねしたところ「一口にいって『かあちゃん!!』と言いたくなるような方でした。頼りがいのある婦人宣教師でしたよ」という言葉がかえってきた。

 「戦争は人間のまちがいによっておこる。しかし、間違ったものに従う必要はない。日本人もアメリカ人も本来は平和を愛する者同士だ。戦後、日本人は大変な苦難の中で生きている。それを救い、平和を取り戻すために努力することは神のみ心に応えるうえで当然のこと。―― というのがミス・クレーマーの信仰と行動の本筋だったと思います。山本先生にしてもそうでした。」

 それにしてもあの「不思議な電話」はクレーマー先生と出会った一人の日本人学生の心の中に生きていた思い出に始まった。そして、おそらくこの話はこれで終わるとは思えない。私は電話の主・伊藤登志夫さんにまだ会っていない。鈴木善平君とも御無沙汰を続けている。  

お二人にいつか、どこかで会えることを楽しみにしているのだが―――。

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