南の島セブ島に遊学する
紫垣 喜紀(06.2.19)
インターネットで遊んでいた妻の紀代が「へエー」と感嘆の声をあげた。一昨年の夏の夜のことだったと思う。三ヶ月滞在して費用が40万円ですむ英会話学校があるという。それも航空運賃、授業料、宿泊費、食費一切を含んでの値段だ。「胡散臭い話だなあ。どこにあるんだい、その学校は?」私は冷淡に口をきいた。「フィリピンのセブ島。CPILS(シィピルス)っていう学校」 そんな会話から始まって、セブ島行きが次第に現実味を帯びていく。とつおいつ思案しながら、全寮制の英会話学校「Cebu Pacific International Language School」への入校をついに決意した。圧倒的な割安感に抗しきれなかったのである。昨年の2月末、成田発のフィリピン航空は4時間ほどの飛行を終えて夕暮れのセブ国際空港に到着した。差し回しのバスに乗って学校に着いた頃、周りはすっかり闇に包まれていた。外壁を薄いブルーに塗装した6階建ての建物。旧いホテルに増改築を重ねたこの建物は、奇怪な形に映る柱や壁がいまにも崩れそうな危うさを見せている。警備員の携帯する大型拳銃が黒光を放つ。嗚呼!このセブの青い城に幽閉されるのだ!心細い。我らを試みに会わせず、悪より救い出し給え!そんな不安な気持ちにもなったものだ。だが、しかしである。私たちの第一印象は全くの杞憂にすぎなかった。その後4ヶ月、私たちは大きなトラブルもなく学園生活を満喫することになるのだ。「LとRの発音の違いはこうよ」 私の先生、ゲイ・ピアさんは20代前半のピチピチギャル。大学を出た後ラジオ局に勤め、アロヨ現大統領にインタビューした経験もあるそうだ。外国人に英語を教えることに興味を持ち、この学校に転職したという。「舌の動きよく見てね」と発音の口形を教えてくれる。 Oh! なんて愛らしい口元なんだろう! 発音そっちのけで見とれてしまったりもする。ここでは、ゲイさんのように若いフィリピン人の教師が200人以上も教鞭をとっている。成る程。「南の島でマンツーマン英会話」がこの学校の売りなのだ。
生徒は総数が500人をこえる。韓国資本がホテルを買い取って設立した学校なので、生徒の大半は韓国の若者たちだ。日本人の生徒も常時6〜70人はいた。この中にリタイアー組の仲間たちも頑張っていた。娘さんと一緒にきている人がいた。寮を根城にスキューバ・ダイビングに打ち込んでいる元気者もいた。賄いの韓国料理に悪戦苦闘しているご婦人もいた。1年以上滞在した揚げ句、人も羨むマンションを購入した金持ちもいる。若いフィリッピン女性をお嫁さんにおびき寄せる魂胆なのだろう、と冷やかされていた。あながち的外れでもないらしい。リタイアー組のおじさん達には共通点がひとつある。英会話がうまくない。だから、1日3時限、のべ5時間に及ぶ授業には誰もが青息吐息だった。
セブ・シティーは100万都市。マニラ、ダバオに次ぐフィリピン第三の都会である。だからなんでもある。遊ぶことには事欠かない。海浜のリゾートホテル、カジノ、ビキニバー、マッサージパーラー。バーやレストランもピンからキリまで。買い物には高級ショッピング・センターもあれば盗人の多い庶民の市場「カルボン・マーケット」もある。 買い物に便利なのは、やはり品物が揃っていて信頼の置けるショッピング・センターだ。CPILSの生徒たちは「アヤラモール」と「SMモール」の二つのショッピング・モールをよく利用していた。
セブ島の文化・ファッションの発信基地でもある。学校からは、いずれもタクシーで15分。タクシー料金は片道45ペソ、約90円ぐらいだ。日本のバスよりうんと安い。しかし、街の様子に慣れると、昼間はもっと安価な乗り物を利用するようになった。庶民の乗合自動車「ジプニー」だ。これなら片道5ペソ、約10円の運賃ですむ。クッションの悪さが玉に瑕だけど。ジプニーは元々ジープを改造して荷台に人が座れるようにした超ミニバス。セブ島のジプニーは年々進化を続けているという。いまでは台車に日本製の2トン・トラックを使い、大型化している。15人は乗れるだろう。このジプニーが、昼夜をおかず、市内をくまなく頻繁に、しかもわれ先にと猛烈な勢いで走り回っている。世界一安く、早く、便利なジプニー。セブ島が世界に誇る公共輸送システムといっていい。まだあった。ジプニーは美しいと褒めるべきであろう。これでもかと飾り立てた満艦飾のボディーは「走る美術品」でもある。
週末はバカンスである。私たちはセブ島を周遊したほか、ボホール島、レイテ島、マクタン島、バンタヤン島を訪ねた。白砂の美しい浜辺の散策。熱帯魚と戯れるシュノーケリング。ドルフィン・ウオッチング。それにフィリピンの海鮮料理に舌鼓をうち、日本女性が絶賛するフィリピン版かき氷「ハロハロ」も楽しんだ。
ここでは、まず生き物の話題に限って二つ紹介することにしよう。
セブ島南西部の海辺にマラブヨックという小さな町がある。そこの宿の主人に勧められて闘鶏場に行くことになった。相撲の土俵を四角にしたような砂場がリングだ。四方はガラスで仕切ってある。その周りを階段状になった観覧席が取り巻いている。飼い主に抱えられた闘鶏が東西から入場する。はじめの4〜5分間は仕切り直しが続く。相手の鶏冠を突いたり、睨みあったりするうちに、闘争心がいやが上にも高揚してくる。闘鶏の左足には、刃わたり4センチほどの鋭いナイフがつけられている。高く飛び上がったり、低く飛び込んだりして相手の心臓をねらうのだ。阿吽の呼吸で戦闘は始まる。一瞬に勝負が決まることもある。瀕死の状態になりながら延々と死力をふりしぼる闘いもある。判定はない。生か死。鮮血がパッと砂をぬらす。壮絶。残忍。無情。戦慄が走る。血走った男たちの目がリンクを凝視する。観客席に女の姿はない。大金を手にするか、多額の賭け金を失うのか。欲望が渦巻く。異様な興奮と熱気が会場をつつみ込んでいる。勝負はまだまだ続く。私たちは二時間ほどの観戦を終えて外に出た。言葉もない。ふうっと深く息をついた。もう夕暮れだった。西の海が夕焼けに染まっている。真っ赤な太陽が水平線に沈んだ。
ボホール島の最大の見所は「チョコレート・ヒルズ」だろう。高さ40メートルほどの小さな円錐形の丘が約1,200、地平線の果てまで延々と続き独特の景観を見せる。乾期に山の色が茶色に変わるのでこの名がついた。太古の海が隆起したらしい。が、その形成過程には謎が多いという。この近くの森に「ターシャ」と呼ばれる野生のメガネ猿が生息している。飼育センターで実物を観察することが出来た。120グラムほどの手の平に乗る大きさで、世界最小の霊長類だそうだ。身体の割にビックリするほど大きいガラス玉のような目に特徴がある。きょとんとした表情がかわゆい。この猿は、2〜30年前までは、ボホール島ならどこにでも見られたという。しかし、いまや全島で1,000匹を割ったと推定されている。大型の鳥「フィリピン鷲」も島から姿を消した。餌にしていた猿が激減したからだ。原因は言うまでもなく森林の伐採。野生動物たちの食物の連鎖が絶たれた。野生動物を圧迫して人間だけが増殖する。これを人類の繁栄といえるのだろうか。
セブ島とレイテ島の間には、船の深夜便が就航している。6時間余りの航海で、夜明け前に対岸に着く。この船に乗ってレイテ島に渡り、島巡りをしたあと、再び深夜の船でセブ島に帰るという旅を強行した。船のトイレ事情が悪いので、その間我慢を決め込まねばならない。楽な旅ではなかったけれども、興味深い歴史探訪となった。
レイテ島の歴史には、あくが強く、過剰な自尊心と自己顕示欲の持ち主たちが絡んでくる。
1944年10月20日、ダグラス・マッカーサー元帥がレイテ島に上陸。やがてフィリピンの奪還に成功する。「I shall return」の約束を果たしたのだ。大地を颯爽と踏みしめるマッカーサーのブロンズ像は、いまも「ランディング・メモリアル・パーク」で金色の輝きを放っている。その風貌は英雄に相応しい。しかし、この人の毀誉褒貶も相半ばする。フィリピンの利権にからみ、私財を肥やしたとも囁かれる。日本軍のマニラ侵攻では、家族と幕僚だけを連れてコレヒドール島から魚雷艇で脱出した。部下を見捨てた敵前逃亡に他ならない。「日本人は12歳」と発言。勝者の傲慢と受け取られた。朝鮮戦争では核兵器の使用を主張して更迭された。危険人物とみなされたのだ。まだ、いろいろある。
それにもかかわらず、この男はここでも「軍神」の扱いである。威厳のある風貌、カリスマ性、強靱な意思力が、諸々の負の評価を上回るのであろうか。
世界一の靴の収集家として、ギネスブックに記載されている一人のフィリピン女性がいる。
1986年の二月革命(民衆革命)で、21年続いたマルコス王朝は崩壊し、一家はハワイに亡命した。マラカニアン宮殿には、高価な3,000足の婦人用シューズが残されていた。持ち主は、言わずと知れたイメルダ夫人。宮殿のもう一人の主である。イメルダはレイテ島のタクロバンに生まれ、大学時代までそこで過ごした。美しかった。「タクロバンのバラ」と謳われた。24歳のとき憧れのマニラに出た。銀行に勤めながら、歌のレッスンに励んだ。その頃のことである。ミス・マニラの美人コンテストに出場、準ミスに選ばれた。イメルダは納得しない。「どうして私
じゃないの?」マニラ市長に直接談判する。その年は、二人のミス・マニラが誕生することになった。この新聞記事に興味を示したのが、当時36歳のマルコス下院議員。マルコスはイメルダの勤める銀行に押しかけた。連続11日間、一日も欠かさずダイアモンドを贈り続けたという。
イメルダは大統領夫人となって宮殿を私物化し、私腹を肥やした。スイスの隠し口座に不正蓄財を重ねたといわれる。「フィリピンのマリーアントワネット」「悪政」「人民の敵」だった。しかし、人心は理屈通りには反応しない。マルコス死去のあと、イメルダは亡命先のハワイから帰国する。彼女を待っていたのは熱烈歓迎「I love Imelda」のフィーバーだった。人々は「美の女神」のイメージを壊したくなかったのかも知れない。
タクロバンに「サントニーニョ聖堂・博物館」がある。かつてのマルコス・イメルダ夫妻の生活模様が忠実に再現されている。そこには世界の注目を集めた靴のコレクションは置かれていない。
いまにも壊れそうなポンコツのタクシーに乗った。信号待ちをしていると、ストリート・チルドレンが寄ってきて金品をねだる。窓ガラスを挟んで対峙する重苦しい時間。身の置き所がない。
「フィリピンより貧しい国を知っているかい?」運転手が突如口を開いた。質問の真意も測れないまま、口ごもってしまう。運転手はニヤニヤ笑っている。その運転台の上には「聖母マリア像」と「十字架」が置かれ、この車には似つかわしくない綺麗な飾りつけがしてあった。
そうだ。ここはアジアで唯一つのキリスト教国なのだ。
4月2日、法王ヨハネ・パウロ二世逝去の報に、アロヨ大統領は直ちにヴァチカンに飛んだ。セブ島の全教会で追悼のミサが行われた。市民の関心事は次の法王を決めるコンクラーベ。アフリカの枢機卿が有力だ、いやそうじゃないと噂をしていた。
歴史を少し遡ってみよう。1521年4月7日、ポルトガル生まれの探検家フェルディナンド・マゼランがセブ島に上陸する。マゼランはスペイン王に世界周航を献策。5隻の船を率いてマゼラン海峡を発見した後、太平洋に出てさらに西航。フィリピンに達した。彼はその3週間後、隣のマクタン島の酋長ラプラプに殺害される。しかし、セブ島に立てた大きな十字架「マゼラン・クロス」からキリスト教の
伝道が始まった。スペインは7,000余りの島々を「フィリピン」という群島国家にまとめ、350年の統治を通じてキリスト教を開花させていったのだ。
フィリピンは1898年には米西戦争の結果アメリカに支配されることとなる。列強の植民地争奪の渦に巻き込まれ、大国の支配に翻弄され続ける。独立した今ですら、フィリピン政権はアメリカの意向を無視しては何も出来ない立場にある。貧困ぶりも半端じゃない。400万人の出稼ぎ労働者が世界各地に散らばっている。総人口の5%。家族に仕送りして生計を支える。悲しく深刻な社会現象である。 しかし、人々の心に揺るぎはない。人々は自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えている。
数年前、ある外国のメディアが世界各国の幸福度を調査したそうだ。調査は「あなたは幸せですか」というごく単純な設問に答えるだけ。集計の結果はフィリピンが世界一だった。「自分は幸せだ」と答えた人の割合が群を抜いて高かったという。信仰がある。神を信じる。すべてを神に委ねる。そこに確かな希望と安らぎを見出している。セブ島を紹介するとき、ローマン・カソリックを抜きにしては何も語れない。
別れの日。わが愛する教師ゲイ・ピアさんは,最後の授業に英語の歌詞を準備して待っていた。
「Que
Sera Sera(ケ・セラ・セラ)」ドリス・デイが歌って一世を風靡した有名な曲なので、メロディーをご存じの方も多いだろう。この歌に託して、何かメッセージを伝えたいのかもしれない。私は、はじめ蚊の泣くような小さな声で何度も練習した。段々調子が出てきたので、次は二人で斉唱した。目一杯声を張り上げて歌ってみた。周りの教室からパラパラと拍手が起こる。アンコール? 私たちは目を合わせた。そして、このお座なりな拍手は早くやめろという合図だと解釈した。別れの時は苦手だ。照れる。暗記してきた英文の挨拶も思い出せない。間が持たない。私は握手を求めた。「Thank you」一言そう言うなり踵を返す。「さようなら」・・・。張りのある日本語が私を追いかけてきた。外に出る。瘋癲の寅さんの気分だ。椰子の葉陰から木漏れ日。いい心持ちだ。
“Que
Sera Sera Whatever will be ,will be The future’s not ours to see Que Sera Sera”「ケ・セラ・セラ 成るようになるわ 先のことなどわからない ケ・セラ・セラ」 フィリピン流処世術の神髄である。 END