世襲は続くか、どこまでも
紫垣喜紀
安倍晋三を継いだ福田康夫も政権を放り出してしまった。政権運営に手詰まりを感じて、平時に、首相が二代続けて突如退くのは異例の事である。普段意識していなかった“世襲政治家”の存在がにわかに顕在化している。「図太さがない。根性が弱い」。保守政界のご意見番、中曽根元老も嘆いておられた。世襲議員は時に政界のサラブレッドなどと持ち上げられたりする。しかし、個性の強い先代に比べると、カリスマ性に欠ける凡庸な人物が多いようにも思える。温室育ちで、庶民感情に疎いぼんぼん感覚の持ち主である場合もあるようだ。見栄えはスマートだが、力量不足はいなめない。世襲政治家は勿論海外にだっている。米国大統領のジョージ・ブッシュや北朝鮮の党総書記、キム・ジョンイルも有名な世襲政治家である。さて、二人の力量はどんなものだろうか。こちらもあまり芳しい評判を聞かない。テレビ映像の言動から受ける印象では、二人ともあまりお利口さんには見えない。国政は衰えているように見える。
私は、1968年から、政治記者として政界の取材を担当した経験がある。佐藤内閣が振り出しだった。そこで、1970年代から1980年代にかけての歴代首相の出自を調べてみた。日本経済が右肩上がりの時代である。佐藤栄作、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹と続く。さて、ここまで10人の首相の中に、世襲議員と呼ばれた政治家はほとんどいない。強いて難癖をつければ、佐藤栄作が岸信介の実弟だったというぐらいのものである。
それでは、1990年代から今日までの首相はどうだろうか。1990年代と言えば、“失われた10年”とも呼ばれている。バブル崩壊で経済が停滞期に入る。政治も漂流を続けた。顔ぶれはこうだ。宮沢喜一、細川護煕、羽田孜、村山富市、橋本龍太郎、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫。これら10人の中で、100%世襲政治家でないと断言できるのは、漁師の息子だった村山富市ただ一人。あとはすべて世襲か準世襲の議員が顔を揃えている。バブル崩壊を境にして、指導者の顔ぶれが見事なまでに世襲化されていたのだ。これら平成の首相10人を、その前の首相10人と見比べてみるのも一興である。業績の優劣は別にしても、どことなく体質や体臭が違うような気がする。政治家としての腕力、気迫、胆力、政治手法。あなたなら、どちらに軍配をあげるだろうか。
戦国時代の権力闘争は「武力」で決着がつけられた。少なくとも明治維新までは、敗者の多くは命を奪われた。だから、権力闘争、つまり政治は、人間同士が全能力をさらけ出して争う戦争であった。社会の頂点を目指す者が、善玉、悪玉入り交じって争った。謀略や権謀術数も駆使された。勇気、正義、人情、錯誤、憎悪、嫉妬、怨念。そこには、ありとあらゆる人間の情念が渦を巻く。勝者の栄光と敗者の悲哀が文学や演劇の格好の素材になった。そして、勝者もやがて亡びてゆく。盛者必衰の理が世の常であった。
現代は“民主主義”の世の中である。権力闘争に負けて首を刎ねられることはなくなった。長い歴史の教訓から、人間は少しだけましな考え方を学習した。建前上は、国民が権力を持ち、権力を行使する“民主主義の政治体制”が敷かれている。政治家は市民に選ばれる国民の代表。武力にかわって“多数決の原理”が勝敗を判定するルールになった。政治は“血を流さない戦争”に変わったのである。では、血を流さない戦争の武器とはなんであろうか。1955年の保守合同のあと、長く続いた自民党政権は“派閥連合政権”だったともいえる。当然、派閥の抱える議員が多いほど党内に幅が利く。子分を養うには資金がいる。派閥の領袖に求められた資質は“錬金術”であった。“資金収集力”である。錬金術に凄腕を持った典型的な政治家に田中角栄がいた。戦後はゼロからの出発。戦後復興が進む中で、田中は「金が政治を動かす最大の力」だと嗅覚を働かせた。吉田内閣、佐藤内閣を支え、失脚後も「闇将軍」として長く君臨できたのは豊富な資金力によるものだ。金を集めるには腕力がいる。派閥の領袖には、田中に限らず、押しの強い親分肌の人物が多かった。しかし、“派閥政治”“金権政治”はやがて世間の厳しい指弾を受けることになる。曲がりなりにも、政治資金に規制も加えられた。経済成長は放物線の頂点を過ぎ下降期に入ってきた。こうした時代の変化、政治環境の変化に伴って、政治家の姿にも変化が現れるのである。
“派閥政治”“金権政治”の影が薄れるにつれて、政治家のタイプや政権運営の手法は大きな変化をみせた。首相は派閥の領袖ではなくなった。閣僚や党役員の経験もあまり重視されなくなった。新しい首相には、“見栄え”や“弁舌のさわやかさ”や“人柄”が求められた。腹芸をするようなタイプは嫌われるようになった。権力者が、資金収集力や統率力のかわりに、国民の「人気」に依存するようになったのである。テレビ・メディアの影響力も政治のあり方に変化を及ぼした。しかし、人気などというのは、秋の空のように移ろいやすい。細川内閣が“政治改革関連法”を成立させた時、支持率は急上昇した。その高支持率に気をよくして“国民福祉税”を提案するや支持率は急降下した。大衆は気まぐれである。わがままで頼りないものなのである。このタイプの首相にとって「低支持率」は致命傷になる。平成の宰相たちは、政治基盤が弱い上に統率力や指導力には弱点がある。選挙に打って出ても勝利は覚束ないので、いざという時に伝家の宝刀“解散権”をうまく使いこなせない。だから、平成に入ってからの歴代政権は概して淡泊で短命なのである。粘着力がない。
ところが、ふわふわした世論を操って長期政権を維持した奇才が登場する。「変人」と評された小泉純一郎である。小泉は“構造改革”と“郵政改革”を進めるにあたって、自民党の中を「敵」と「味方」、「善」と「悪」に分類して見せた。「自民党をぶっ壊す」「私の内閣の方針に反対する勢力、これはすべて抵抗勢力である」。これらの発言にすべてが集約されている。
小泉が「ぶっ壊す」という「抵抗勢力」とは、“田中角栄の流れを汲む政治家集団”だと理解して差し支えない。小泉は党内の反小泉勢力に喧嘩を売ったのである。この喧嘩が、刺激を求める大衆に受けた。小泉はメディアを利用して大衆の情念に訴え続けた。自分は国民の味方。正義の味方として悪(抵抗勢力)と戦っている。そんなイメージを大衆に植えつけるのに成功したのである。大衆を味方につけることで、強力なリーダーシップを手にしたのが小泉だといえる。物事を単純化して短い言葉で語る政治スタイル、テレビを利用した政治の劇場化は、政治を身近に引きつけた点では「功」だともいえる。社会の閉塞感にいらいらしていた国民は「小泉劇場」を面白がった。小泉は一躍政界のヒーローとして派手な立ち回りを演じて見せた。自民党総裁選挙や総選挙に圧勝したのである。しかし、手拍子に乗って応援した小泉劇場が残したものは何だったのだろうか。終演のあとに後味の悪い後遺症が残った。しかも、小泉流の政治手法には別の危険を伴っていたことを後で知るようになる。政策の選択や利害の調整は、単純には割り切れない複雑で微妙な問題を孕んでることが多い。構造改革や郵政改革を真面目に吟味してみた有権者がどれほどいただろうか。小泉流は民主主義に欠かせない地味で慎重な討論を軽視させた。単純さの味を知った有権者がこれからも政治に「面白さ」と「わかりやすさ」だけを求めるとすれば、思わぬ落とし穴に落ち込むかもしれない。古来、人間社会を破滅に導いた“人神”や“独裁者”は、しばしば衆愚の人気に乗って出現している。
ポスト小泉の首相たちも小泉流を見習おうとした。安倍晋三は“官邸主導”、つまり“強い首相”を演じて見せようとした。これは失敗に終わった。「私と小沢一郎のどちらをとるか」。大見得を切って見せた参議院選挙で、安倍は歴史的な惨敗を喫する。明らかな力量不足だった。“劇場型政治”を演出するには、役者の演技力が問われる。安倍はあまりにも平凡な性格だった。魅力に欠けた。参院選の敗北、ねじれ国会は、その後の政権運営の致命傷になった。
安倍を継いだ福田康夫も同じ条件下に置かれた。福田は小沢一郎との党首会談を実現。自民党と民主党の“大連立”をもちかけて事態を打開しようとした。しかし、死中に活を求めた窮余の一策も実を結ばなかった。これで手詰まりになった。福田は政権を投げ出すとき、自民党政権維持のシナリオを計算する。やはり“劇場型政治”を想い描いたようだ。自民党総裁選挙を華々しく演出して、新総裁、新首相、新内閣へのご祝儀相場に期待をかける。ご祝儀相場が冷めないうちに、ただちに解散、総選挙という段取りをつけた。しかし、思惑通りには運ばなかった。総裁選挙は初めから消化試合と報ぜられ盛り上がりを欠いた。予想通り、キャラの立つ麻生太郎が新首相に選出されたものの、早急な解散はできなくなった。米国発の金融破綻と世界経済の混乱が怒濤のように襲ってきた。新閣僚の失言、新・年金問題も新政権の足を引っ張った。あっという間に早期解散のタイミングは失われた。
テレビ・メディアの影響力を利用する“劇場型政治”はこれからも政治手法の一つとして登場するかもしれない。しかし、政治は水もの。政界、一寸先は闇である。柳の下に二匹目のドジョウはいない。臭い芝居に多くの人がそっぽを向いた。役者不足なのだ。
ここまでは戦後政治の大雑把な流れである。しかし、これから書こうとするのは政局展望ではない。本筋の“世襲政治”に話を戻してみたい。さて、ポスト小泉の顔ぶれをもう一度ふり返ってみると、過去の首相たちとは明確な違いのあることにお気づきではなかろうか。
安倍の祖父は岸信介元首相。父は、自民党総裁候補と目されながら急逝した安倍晋太郎である。次の福田は、まだ記憶に新しい福田赳夫元首相を父に持つ。親子で首相になった初のケースである。総理大臣が単に世襲議員というだけではなくなっている。祖父や父に首相経験者を持つ政界の超サラブレッドが続いている点に注目したい。政治の舞台が、歌舞伎の舞台とそっくりになってきたのだ。政治の舞台に登場する役者も歌舞伎俳優と同じ世襲。しかも、屋号が大事になってきている。血筋が尊重され政治家が“ブランド化”している。指導者の格付けに、あたかも“血統書”が不可欠になったかのような印象がある。
その政治の花道に新しい主役が登場した。かけ声も飛びそうだ。「成田屋!」。“ブランド”の極めつけは、口を「へ」の字に結んだ麻生太郎である。なにしろ五世の世襲政治家なのだ。高祖父に大久保利通、曽祖父に牧野伸顕、祖父に吉田茂がいて、父は麻生多賀吉である。吉田茂までは既に歴史上の人物だといえよう。父の麻生多賀吉は北九州の炭坑経営者、吉田茂の三女の和子と結婚。代議士になり、田中角栄と共に吉田茂の財布の面倒をみた。余談ながら、麻生家はカトリックの門閥で、太郎も首にロザリオを掛けているという。これだけ先祖の光が輝いていると、ただ感服するほかはない。ちなみに、麻生太郎の奥さんは鈴木善幸元首相の三女である。
次に、麻生内閣の顔ぶれを点検してみよう。閣僚は全部で17人いる。世襲政治家ではない大臣をまず拾い上げたい。経済財政大臣の与謝野馨、厚生労働大臣の桝添要一、環境大臣の斉藤鉄夫(公明党)。非世襲はわずか3人しかいない。残りの世襲政治家14人の中身を調べると更に面白い現象を発見できる。総務大臣の鳩山邦夫は四世の世襲政治家。祖父に鳩山一郎元首相がいる。外務大臣の中曽根弘文は中曽根康弘元首相の長男。親子二代の風見鶏だ。少子化担当大臣の小渕優子は「平成おじさん」、こと小渕恵三元首相の三女。戦後最年少(34歳9ヶ月)で入閣した。祖父や父に首相経験者を持つ政治家が3人同時に閣僚に抜擢されたのは異例のことだろう。単なる偶然なのだろうか。やはり“ブランド化”が進んでいると見るべきではないだろうか。
ついでに、政局に強い影響力を持つ政権与党、自民党の三役はどうなっているだろうか。幹事長の細田博之、総務会長の笹川尭、政務調査会長の保利耕輔。全員が典型的な世襲議員で占められている。現在、衆議院の自民党代議士の凡そ40%が世襲政治家である。しかし、内閣や党の要職は、ほとんどが世襲政治家で構成されていることが明らかである。 自民党議員の中ですら、世襲議員が非世襲議員より高い地位に起用されているのがわかる。家柄で出世が決まるような雰囲気が保守政界に色濃く漂っている。
そうならば、野党が政権を握ればどうなるのだろうか。民主党の代表、小沢一郎は世襲。幹事長の鳩山由紀夫も祖父に鳩山一郎元首相をもつ典型的な世襲政治家なのである。自民党とさほど傾向は変わらない。最後に、国権の最高機関、国会の構成はいかがなものだろう。衆議院議長の河野洋平は世襲。父は、かつて保守政界の実力者、河野一郎である。副議長の横道孝弘も世襲。参議院議長の江田五月も世襲。こちらは革新政治家の家系だ。
戦後の政界は60余年たった今、世襲政治家にほぼ独占されてしまったかのようだ。これは、偶然のなせる現象とはとても思えない。日本社会の中にいつしか根を張っている“権力エリート層”の醸成に注意を払わなければなるまい。
「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」。その昔、江戸時代に駕籠に乗ったのは「殿様」であった。士農工商という階級制度の下に、大名は家臣団を従えて領民支配を行った。現代は、駕籠に乗るのは「政治家」である。駕籠を担ぐのは「後援会組織」であろう。
後援会組織は地域に出来上がった利権構造ともいえる。各種業種、土建業界に限らず下請けまで系列化されている。選挙時には集票マシーンになるが、政治家からは様々な見返りを期待することになる。組織の内部には親密な人間関係が生まれ、人情もからんでくるであろう。政治家を支えている誇りや生き甲斐を感じている人も沢山いるに違いない。一番の問題は政治家が引退する時である。後援会組織は、当然利権を温存する方向に走る。駕籠に乗せる候補者としては、引退する政治家の親族が手っ取り早いのである。選挙には「地盤」「看板(知名度)」「かばん(資金)」が必要だといわれる。世襲候補はこの3つの条件を容易に満たしてくれる。世襲政治家が増えるのは、日本の政治風土に根ざした後援会組織にも一つの問題がある。後援会組織は“世襲政治”を支える木の根っこである。
「一億総中流」という言葉は廃れて死語になった。近頃は、「格差社会」「階層の二極分化」が囁かれる。認めたくはないが、一握りの上流階層とそうでない階層が存在することを否定できない。いまや政界の枢要な地位を占める世襲政治家の門閥は、上流階層に属する典型的な存在であろう。有力財界人の門閥、その他の民間、官界のエリート層の門閥も上流階層を形成している。上流階層の人々は仕事や社交の場で互いに接触を保っている。意識する、しないに拘わらず、相互に相手の立場や都合を考慮に入れながら行動するだろう。地位を持つ者は富への機会をつかみやすい。富者は貧者に比べ容易に権力を獲得できる。こうして利益を共有する人々の結束は強まっていく。上流階層の人々の間では、互いに相応しいファミリー同士の婚姻も模索される。門閥同士が血縁によって蜘蛛の糸のように結びついていくのである。婚姻が既得権や富や地位を守るための手段であるのは昔も今も変わるまい。同時に、上流階層は、目に見えない堅い殻に覆われて、極めて排他的、かつ秘密主義的である。一般国民が容易に接近できる存在ではない。この現代の上流階層は、政治、経済、社会の多くの決定権を握っているので、“権力エリート層”と名づけるのが相応しいだろう。世襲政治家は縦の関係では“地域後援会”の御輿に乗っている。横の関係では“権力エリート層”に支えられているのである。
さて、この聞き慣れない言葉の“権力エリート層”は新しい造語ではない。50年以上も前、コロンビア大学の社会学教授だったC・ライト・ミルズが、米国の一握りの富裕層を指して“Power Elite”と名づけた。政治,経済,軍事の秩序を支配する頂点グループの存在を指摘。その“権力エリート”による権力維持と相互の結合関係を解き明かしながら、米国の権力構造を分析して見せた。
戦後の日本社会にはしばらくの間、健全な中流意識が根づいていた。それが、いつの間にか、格差社会と呼ばれるようになっている。日本にも“権力エリート層”が醸成されてきたと見るのは穿ち過ぎだろうか。
徳川幕府は、徳川家が代々将軍を世襲していく支配体制を築いた。抵抗しそうな勢力は武力で封殺した。お世継ぎを絶やさないための「子作り部屋」たる“大奥”が体制を支える大切な機能をはたした。現代の“権力エリート層”はこれほどえげつないやり方をとらない。
目に見えないもっと巧妙なシステムが自然に形成されてきた。政治に参画しようとする人を表向き排除したりしない。勿論、“大奥”などというものがあるはずはなく、世間並みの結婚をする。それでいて、既に記述したように、“権力エリート層”の周りには強固な砦が築かれているのだ。歌舞伎界で御曹司が幼少から芸を仕込まれるように、政治家の御曹司も私設秘書として政治の修行をする。仮に他の職業についていても、世襲候補は親の七光りを受け、後援会組織に支えられて易々と当選を果たせる。「地盤」「看板」「かばん」が物を言う。選挙を42キロのマラソン競技に喩えれば、世襲候補は30キロ地点から競技を始めるランナー。対抗しようとする候補は重いハンディキャップに喘ぐことになる。端から勝負にならないのだ。選挙制度に“小選挙区制”が導入されて、この傾向はさらに助長された。有力政治家が地盤を固めてしまうと、他の候補者が付け入る隙はほとんどなくなってしまう。政治参加の自由は表向きの建前にすぎなくなった。民主主義の政治体制が事実上形骸化しつつあるのだ。世襲政治の欠陥は政治参加への公平さが保たれないというだけではない。“権力エリート層”内部からだけでの人材補給は、やがて政界の人的枯渇に繋がる恐れを孕んでいるといえないだろうか。
戦後政治はさまざまな変遷を経ながら試行錯誤を繰り返してきた。“派閥政治”や“金権政治”の時代があった。最近は“劇場型政治”という新手も登場している。ところが政治手法の変遷とは別に、ここに来て“世襲政治”が顕在化してきた。日本社会に政治を家業とする門閥、階層が定着しつつある。これは従来の政治手法による弊害とは比べものにならない憂鬱で厄介な問題を孕んでいるように思える。世襲政治家は、政財界のエリートで形成された“権力エリート層”と地域の利権構造である“後援会組織”に支えられている。日本社会のパイ(富)は大きくなったというのに、その配分は“権力エリート層”へ極度に傾斜する傾向を強めようとしている。格差社会。米国型の社会構造に限りなく酷似してきた。特権階層は自己保存のために既得権を守ろうと本能的に動くであろう。世襲政治家は、自覚はないかも知れないが、“権力エリート層”の守護者でもある。このまま社会の階層化が進めば、この国の形はいびつなものになるかもしれない。極端に不平等な社会が造出される恐れがある。
しかし、「世襲政治の解消」を口で訴えても、容易には実現出来ないだろう。気の遠くなるほどの厚い壁が立ちはだかっている。第一、その弊害や実害が一般国民には実感しにくい。“権力エリート層”の存在はぼんやりとはわかっても直接目に触れることはない。高級料亭や高級ホテルのバーに出入りする階層の人たちである。なじみのない別世界に住んでいる。大衆が肌に感じないから改革を求める火の手も上がりにくい。しかも現行法の下では“政治の世襲”に違法性はない。それどころか政治家の子弟にも憲法上の職業選択の自由はしっかり保証されている。では、世襲が道徳や倫理に違反しているかといえば、それも的外れである。世襲政治のどこが社会正義に反しているのか。その弊害を訴えようとすれば、どうしても回りくどい観念論に陥りがちになる。いつの間にか形成された“権力エリート層”は手強い。彼らは自らを守る殻を一層強固なものにしようとするだろう。世襲政治家に支配されている政界。その政界に自浄作用を期待するのは端から無理というものだ。
特権をむざむざ手放すお人好しの政治家が存在するとも思えない。やはり、唯一の頼りは「世論の形成」ということになるのだろう。その頼りの綱、第四の権力といわれる“メディア”は健全に機能しているのだろうか。メディアまでが“権力エリート層”の喧伝手段として枠の中に取り込まれてはいないだろうか。そんな心配が杞憂であってほしい。
歴代の首相たち
ここからは、私が取材を始めた佐藤内閣以降の歴代首相の横顔を短くまとめてみた。過去40年間の政治の特徴がわかるように書いたつもりである。
佐藤内閣(1964年11月〜1972年7月)
佐藤栄作は、池田勇人と共に「吉田学校」の代表格である。自民党幹事長時代に造船疑獄が発覚。犬養法相の指揮権発動により逮捕を免れている。池田元首相の病気退陣に伴い、実力者会談を経て後継総裁に指名された。池田勇人に続いて、強力な政敵であった河野一郎、大野伴睦も相次いで他界する。政敵不在の中、佐藤は、派閥横断的に福田赳夫、田中角栄、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、竹下登を内閣・党の要職につけて競わせた。「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術で政権の求心力を維持し続ける。池田元首相の積極策が功を奏したせいか、経済は順調に成長期に入った。佐藤は「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の“非核三原則”を国是として表明。ノーベル平和賞受賞の理由の一つにされた。佐藤は吉田内閣以来の懸案“沖縄返還”の実現を花道にして長期政権の幕を閉じた。返還交渉の過程では、密約文書をスクープした毎日の西山記者が、情報提供者の女性事務官と共に逮捕される事件もあった。
「新聞記者とは話さない」。佐藤栄作は退陣の記者会見で記者団に喧嘩を売った。記者が一斉に退席した会見場で、テレビカメラを前に一人退陣の弁を語った。連続在任7年8ヶ月の最長期政権。佐藤は最後の最後までぎょろ目をむいて周囲を威圧した。会見場の隅にいた私は思わずたじろいだ。
田中内閣(1972年7月〜1974年12月)
田中角栄は、佐藤内閣の末期に佐藤派の大部分を掌握して田中派を結成。政権奪取に猛進した。実弾(現金)を撃ち込む多数派工作で40日に及ぶ“角福戦争”を制した。
佐藤からの禅譲を信じていた福田赳夫は苦杯をなめた。高等教育を受けていない田中は「今太閤」ともてはやされる。目白の田中邸には政財界人がひきもきらず、「よっしゃ、よっしゃ」の声が響き渡った。田中は党人ながら官僚を自在に操った。「コンピューターつきブルドーザー」と呼ばれ、“列島改造”を猛烈に進めた。外交面での功績は“日中国交正常化”である。中国からは「最初に日中外交の井戸を掘った人」と尊敬された。しかし、米国のニクソン政権は強い不快感を示した。のちの“ロッキード事件”が米国の仕掛けた罠だという説は根強い。「金は力なり」。その田中は、立花隆のリポートに端を発した“金脈問題”を追及され、退陣に追い込まれる。退陣後、更に追い打ちをかけるように“ロッキード事件”で逮捕・起訴された。しかし、党内最大派閥の田中派の領袖として影響力を温存。「闇将軍」として長らく政界に君臨した。私も経験があるが、田中に恫喝されると誰もが震え上がった。
三木内閣(1974年12月〜1976年12月)
少数派閥を率いるバルカン政治家、三木武夫に政権の座が回ってきた。党分裂を回避するため、副総裁、椎名悦三郎の下した苦心の“裁定”だった。「晴天の霹靂」が三木の第一声である。田中をして「プロの政治家は俺と三木だけだ」と言わせたほどのしたたかさを持っていた。三木は世論の沸騰を背景に“ロッキード事件”の捜査開始を指示。田中派の弱体化を狙った。政敵、田中の逮捕・起訴が異例のスピードで進められた。これに対して田中派は“逆指揮権発動”だと三木を憎悪。主な派閥を巻き込んでの倒閣運動“三木おろし”が渦を巻いた。三木は再三のピンチを粘り腰で凌いだものの、任期満了選挙に破れて命運が尽きた。敗北の責任は三木にはなかったが、三木は退陣を余儀なくされた。
福田内閣(1976年12月〜1978年12月)
「狂乱物価」「昭和元禄」「さあ働こう内閣」「昭和の黄門」。福田赳夫は造語の名手だった。就任後は、田中の列島改造とオイルショックによる経済混乱の収束に追われる。初めての赤字国債を発行した。福田は大平との話し合いの上で首相になっている。その際、「二年後には大平に政権を譲る」という密約があったが、福田はそれを反古にした。福田は派閥解消を唱え、自民党総裁選挙に党員による予備選挙を導入。当選を確信していた。マスコミも「福田圧勝」と報じた。福田は「予備選挙に負ければ、本選挙は辞退する」とまで言い切った。蓋を開けると大平が予備選挙に大勝してしまった。またしても、田中派にやられたのだ。時の幹事長は竹下登。田中派は党員名簿を独占して秘かに大平への集票活動を展開していた。福田派は無策。手抜かりがあった。再選を断たれた福田は「天の声にも変な声がある」と言って天を仰いだ。
大平内閣(1978年12月〜1980年7月)
大平正芳は「アーウー宰相」の異名をとった。しかし、答弁の速記録を起こすと立派な文章になっていたという。無教会派のクリスチャン。数少ない知性派宰相との評もある。盟友、田中角栄に支えられていたので「角影内閣」と呼ばれた。反主流派の福田派や三木派は徹底的に非協力の立場を貫いた。社会党が“大平内閣不信任決議案”を上程したのを切掛けに政局は激震に見舞われる。福田派と三木派が本会議を欠席。決議案は可決されてしまった。大平は衆議院を解散した。これを“ハプニング解散”という。総選挙で、自民党は主流、反主流が反目しあう完全な分裂選挙になった。ところが、もう一つハプニングが加わった。選挙の最中、大平が心筋梗塞で突如昇天する。自民党は弔い合戦で選挙に圧勝した。政界の空気が一変した。主流派と非主流派の軋轢も雲散霧消。党分裂の危機は回避された。大平は、聖句「死ねば、多くの実を結ぶ」を実践したかのようだった。
鈴木内閣(1980年7月〜1982年11月)
激しい党内抗争のあとは、鈴木善幸(大平派)が政権を引き継いだ。裁定した副総裁の西村栄一(田中派)は、穏やかで敵の少ない人物を選んだ。鈴木は裏で力を発揮する調整型の政治家。「もとより、私は総裁の力量に欠けることを十分自覚している」。両院議員総会で総裁に選ばれた時の異例の挨拶である。「Zenko Who?」。外国でも知名度は低かった。鈴木は社会党から保守政界に転向した経歴を持つ。外交面ではハト派の色が濃かった。だから、米国の受けはよくなかった。暫定政権を自覚していたのか、再選に挑戦することはなかった。
中曽根内閣(1982)年11月〜1987年11月
中曽根康弘は河野一郎の流れを汲む政治家である。保守政界では常に非主流派にあった。政権発足当初、官房長官に後藤田正晴(田中派)、党幹事長に二階堂進(田中派)を起用したほか、田中派から7人を入閣させた。田中角栄の影響力の強さに、「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄された。中曽根はタカ派の政治家で、「戦後政治の総決算」を掲げた。靖国神社の公式参拝。防衛費1%枠の撤廃などで知られる。米大統領との個人的な親交「ロン・ヤス関係」をアピール。米国の求めに応じて日米安全保障体制の強化に努め、対米従属との批判も浴びた。米国の貿易赤字を解消するため“円高ドル安政策(プラザ合意)”を導入。低金利政策で株や不動産が高騰。バブル経済の素因をつくったともいわれる。しかし、国鉄、電信電話公社、日本航空、専売公社の民営化は優れた業績として評価されている。中曽根は余力を残して4年11ヶ月の長期政権を終える。後継に竹下登を指名した。
竹下内閣(1987年11月〜1989年6月)
竹下登(旧田中派)は、首根っこを押さえられていた田中に反旗を翻して「創世会」(竹下派)を結成した。田中は激高して潰しにかかったが、20日後に脳梗塞に倒れた。「闇将軍」の威令は急速に衰えていく。「創世会」は「経世会」と名称を変え竹下派は党内最大派閥になる。竹下は自ら「言語明瞭、意味不明」と言う竹下語を駆使して、人に言質を与えなかった。「気配り、目配り、金配りで首相になった」と嘲弄されたほど、敵を作らなかった。「ふるさと創世」といって全国の市町村に一律一億円をばらまいたりした。しかし、世論の猛反対を押し切って日本初の付加価値税“消費税”を導入している。これで支持率は急降下。最後は“リクルート事件”が発覚して内閣総辞職に追い込まれた。在任中に昭和天皇が崩御。「大喪の礼」を執り行った。一つの時代の終焉でもあった。
宇野内閣(1989年6月〜1989年8月)
宇野宗佑(旧中曽根派)は、自民党両院議員総会で異例の起立採決によって総裁に選ばれた。派閥の領袖でない自民党総裁は初めて。宇野は党三役の経験もない。国会ではリクルート事件の追及が続き、事件に関わった安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らの実力者は身動きがとれなかった。宇野内閣は、清潔さを演出した急造内閣であった。しかし、就任3日目に宇野自身の女性スキャンダルが発覚。足許をすくわれた。間もなく行われた参議院選挙は、リクルート事件と首相のスキャンダルが争点になり、自民党は惨敗した。宇野は敗北の責任をとって退陣。69日の短命内閣だった。
海部内閣(1989年8月〜1991年11月)
海部俊樹(旧三木派)に政権の座が思いがけず転がり込んできた。自民党にとっては、「看板の掛け替え」にすぎなかった。海部は三木武夫の秘蔵っ子。清新なイメージで登場した海部に、世論は大いに期待をかけた。組閣では、ロッキード事件やリクルート事件にかかわった政治家を排除した。
これが主要派閥からの不興を買った。“湾岸戦争”では多国籍軍に130億ドルもの資金を拠出しながら国際的に評価されなかった。“天安門事件”で孤立しかかった中国に円借款を再開。中国側からは感謝された。政策の目玉とした“政治改革関連法案”は党内の強い抵抗を受けて廃案となった。党内の「海部おろし」にあって政権を維持できなくなった。
海部内閣の初期、1989年の大納会で日経平均株価は3万8915円の史上最高値を記録。一年後には湾岸戦争や原油高によって2万円割れと暴落した。やがて膨れあがったバブル経済が崩壊を始めた。
宮澤内閣(1991年11月〜1993年8月)
宮澤喜一(旧大平派、世襲)。有能な秘書官ではあったが、指導者の資質には恵まれなかった。池田勇人の流れをくむ保守本流の「宏池会」に所属しながら閥務は苦手だった。国際派の政治家と期待された反面、「英語屋」と軽んじられた。宮澤が総裁選に立候補した際、宮澤は竹下派No2、小沢一郎の面接を受ける。小沢は30歳以上も若かった。宮澤は首相就任時には72歳だった。宮沢内閣は竹下派に支配された。“政治改革関連法案”も思うにまかせず成立を断念させられた。
バブル崩壊後の経済立て直しにも見るべきものがなかった。嫌気のさした多くの議員が党を離れ自民党は分裂した。苦し紛れの解散、総選挙でも党勢は回復できず、自民党の長期単独政権が38年の幕を下ろした。保守合同以来のいわゆる“55年体制”の崩壊である。自民党15代総裁、宮澤喜一は、大政を奉還した幕末の15代将軍、徳川慶喜になぞらえられた。
細川内閣(1993年8月〜1994年4月)
細川護煕(日本新党、旧田中派、世襲)。肥後細川藩の当主。祖父に近衛文麿がいる。閣僚未経験の首相である。細川内閣は8頭立ての馬車といわれた。日本新党、新生党、新党さきがけ、社会党、公明党、民社党、社民連、民改連の連立政権である。新生党代表幹事の小沢一郎が舞台回しをした。細川は、何度も頓挫してきた“政治改革関連法案”を曲がりなりにも成立させた。これで空前の内閣支持率を記録した。気を良くした細川は、小沢一郎の構想に乗って、税率7%の“国民福祉税構想”を発表する。これは党内外の猛反発を招きすぐに撤回してしまった。小沢一郎と官房長官の武村正義の対立も表面化して手を焼く。さらに佐川急便事件を自民党に追及され、国会は空転。政権は一気に下り坂に向かった。細川はわずか8ヶ月で突如政権を投げ出した。政権投げ出しの先駆けである。
羽田内閣(1994年4月〜1994年6月)
羽田孜(新生党、旧田中派、世襲)。口の悪い田中真紀子に「多弁にして空疎」と評された。羽田内閣も自民、共産を除く各政党の支持を受けて発足する。間もなく、政界再編成と社会党の連立離脱で少数与党内閣へ。自民党が内閣不信任決議案を提出。解散の力はなく総辞職した。羽田内閣は64日の寿命で、戦後2番目の短命政権に終わった。
村山内閣(1994年6月〜1996年1月)
村山富市(社会党)。「自民・社会・新党さきがけ」の連立政権の首班に指名された。片山内閣以来46年ぶりの社会党委員長を首班とする内閣。村山は最初の所信表明演説で、「自衛隊合憲、日米安保堅持」を表明した。社会党の政策変更である。“阪神・淡路大震災”では対応の遅れを批判され、危機管理の弱さを指摘された。在任中、「首相、退陣の意向」と報道されたことがある。
ネタ元は自民党幹事長の森喜朗だった。閣僚全員が森に猛反発。村山は慰留され内閣は継続された。村山は、“「戦後50周年の終戦の日にあたって」と題する談話(村山談話)”を閣議決定した。この談話は侵略や植民地支配を公式に謝罪している。歴史認識にかかわる日本政府の見解として今も受け継がれている。村山は自民党総裁、橋本龍太郎を首班とする連立に合意。内閣を総辞職した。
橋本内閣(1996年1月1998年7月)
橋本龍太郎(旧田中派、世襲)。橋本内閣も当初、「自・社・さ」の連立政権として発足した。日米首脳会談で“普天間基地の返還”に合意。支持率が上昇した。橋本は衆議院を解散。“小選挙区比例代表並立制”の下で初めての総選挙を行った。リーゼントスタイルと端正なマスク。“橋龍人気”が巻き起こった。この選挙で自民党は復調する。第二次橋本内閣は3年ぶりに自民党単独内閣になった。橋本は「行政改革」「財政改革」を政策の柱に掲げた。省庁を削減する“中央省庁等改革基本法”を成立させた。また、歳出削減を目指す“財政構造改革法”も成立させた。しかし、景気は急速に減速した。山一証券や北海道拓殖銀行が破綻すると、国内外から積極財政を求める声が高まり、財政再建路線をやむなく転換した。景気回復は思うにまかせなかった。参議院選挙に敗れ、橋本内閣は総辞職する。
小渕内閣(1998年7月〜2000年4月)
小渕恵三(旧田中派、世襲)。官房長官の時代に新しい元号「平成」を発表。「平成おじさん」と呼ばれた。外務大臣の時、外務官僚の反対を押し切って“対人地雷禁止条約”を締結している。しかし、小渕内閣は、参議院が与野党逆転していたため、当初から政権運営に苦慮する。しばしば野党の要求を丸呑みにした。NYタイムズには「冷めたピザほどの魅力もない」と形容された。自由党の党首、小沢一郎と連立に合意して、ようやく政権基盤が安定する。世論の反対が強かった法案を次々に通した。“周辺事態法”“憲法調査会設置法”“国旗・国家法”“通信傍受法”“国民総背番号制法”などがある。また、無駄な公共事業を進め「ばら撒きの極致」とも酷評された。連立1年後に自由党が連立離脱を通告。翌日、小渕は脳梗塞で倒れた。1ヶ月半の闘病を経て死去した。
森内閣(2000年4月〜2001年4月)
森喜朗(旧福田派、準世襲)。祖父、父が首長。「理念がない」「政策がない」「節操がない」。ないない尽くしの首相だから、めぼしい「実績もない」のである。それだけに失言には事欠かない。神道政治連盟国会議員懇談会の席上、「日本の国、まさに天皇を中心にしている神の国であるぞ、ということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」と述べた。この訳のわからない、いわゆる「神の国発言」も大きな波紋を呼んだ。高校生の練習船「えひめ丸」が米海軍の潜水艦に衝突されたとき、森はゴルフ場にいた。森は一報を知ったあと1時間半もプレーを続けたとして批判を浴びた。内閣支持率は終始低調。「蜃気楼内閣」と呼ばれた(森喜朗の音読み)。1年で退任した。
小泉内閣(2001年4月〜2006年9月)
小泉純一郎(旧福田派、世襲)。小泉は清新なイメージで自民党の総裁選挙に“小泉旋風”を巻き起こした。大衆に人気のあった田中真紀子の応援を得る。小泉は旧福田派の政治家。真紀子は角栄の娘。仇敵同士のタッグだった。本命だった橋本龍太郎は予備選挙に完敗した。旧田中派凋落の始まりである。小泉は閣僚・党人事を全て自分で決めて「官邸主導」の流れをつくった。最大派閥の旧田中派からは誰も起用しなかった。
発足時の内閣支持率は戦後最高を記録する。米国同時多発テロの発生を受けて、小泉はブッシュの「テロとの戦い」を支持した。海上自衛隊をインド洋に派遣する“テロ特措法”を制定。米軍のイラク侵攻にも、“イラク特措法”を成立させ、陸上自衛隊を派遣した。日米同盟が外交の基軸だと、ブッシュとの蜜月関係を守った。
一方、靖国神社に参拝して、中国、韓国との関係は悪化させた。国際情勢が緊迫する中、外務大臣に起用した田中真紀子が外務官僚と衝突、外務省が機能不全に陥る。小泉は遂に田中を更迭。支持率は急落した。しかし、小泉は北朝鮮を電撃訪問。キム・ジョンイルとの首脳会談でピョンヤン宣言に調印した。拉致被害者5人を帰国させ、一定の成果をあげたと評価された。次の自民党総裁選挙で小泉は楽々再選される。この時、旧田中派は藤井孝男を擁立したが、派内は分裂した。旧田中派の実力者、野中弘務は政争に敗れ引退した。小泉は在任中、仇敵の旧田中派に徹底的な意趣返しをした。小泉は各種選挙で、「自民党をぶっ壊す」「私を批判する者は抵抗勢力」と熱弁を振るった。これは旧田中派を意識した発言である。戦後政治史上、小泉は田中角栄の流れを汲む自民党内の政治勢力を無力化した点で注目される。
小泉は、「聖域なき構造改革」を打ち出し、とりわけ持論である“郵政3事業の民営化”を「改革の本丸」と位置づけた。自民党内に猛反対が起こり政争になった。参議院では、自民党議員の造反で“郵政民営化法案”は否決された。小泉はこれを逆手にとる。衆議院を解散して総選挙に打って出た。郵政民営化の民意を問うとして、自ら「郵政解散」と名づけた。マスコミを利用して、反対派を「抵抗勢力」と呼び、悪役のイメージを作る戦略に成功。造反した議員の公認は認めず、刺客候補を投入した。この“劇場政治”は都市部の大衆に受けて、高い投票率を記録した。選挙は圧勝。こうして“郵政民営化法”を強引に成立させた。意表をついた小泉流の政治手法は「小泉劇場」とも呼ばれた。在任期間の5年5ヶ月は、佐藤内閣、吉田内閣に次ぐ戦後3番目の長期政権。任期を全うして退任した。小泉内閣の功罪はなお定まってはいないが、“構造改革”は「弱者切り捨て」「格差社会の導入」との厳しい批判がある。多くの後遺症を残したことは否めない。折しも、手本にした米国から金融破綻が伝えられる中、政界引退を表明した。選挙地盤は次男に譲るという。
安倍内閣(2006年9月〜2007年9月)
安倍晋三(旧福田派、世襲)。祖父に岸信介、父は安倍晋太郎。戦後生まれの初めての首相である。安倍内閣は、「美しい国づくり」「戦後レジームからの脱却」をスローガンにした。道徳教育や愛国心にふれる“教育基本法”を改定。防衛庁を防衛省に昇格させた。中国、韓国を訪問して冷え切った日中、日韓関係を改善した。しかし、消えた年金記録問題が持ち上がって内閣支持率は急落した。これに追い打ちをかけるように閣僚の不祥事、失言が相次ぎ、閣僚4人が次々に交代した。参議院選挙では、「私と小沢さんのどちらが首相にふさわしいか」と有権者に訴えた。結果は、連立を組む公明党と合わせても過半数を大きく割りこむ歴史的大敗を喫した。安倍は、この頃から食欲不振を訴えていたという。秋の臨時国会では、「職責を全うする」と所信を述べたものの、野党の代表質問を前に緊急記者会見を開いて辞意を表明した。
福田内閣(2007年9月〜2008年9月)
福田康夫(旧福田派、世襲)。父は福田赳夫。親子で首相になった初めての例である。野党第一党、民主党代表の小沢一郎が田中角栄の秘蔵っ子であった点から、因縁の対決と注目された。福田は、安倍内閣の閣僚をほとんど再任、横滑りさせて、「背水の陣内閣」と命名した。福田は、間もなく民主党代表の小沢との党首会談で“大連立”を提案。小沢は合意したが、民主党幹部がこぞって反対したために頓挫した。福田も、参議院の与野党逆転による“ねじれ国会”に手を焼いた。海上自衛隊をインド洋に派遣する“テロ対策特措法”が失効していたため、それに代わる“補給支援特措法”を衆議院で“再”議決することによって辛うじて成立させた。その防衛省では、事務次官のゴルフ接待事件、給油量の隠蔽問題、エイジス艦の漁船衝突事故など不祥事が続発。福田は内閣を改造したものの、政権運営は手詰まり状態に陥った。改造の1ヶ月後に辞意を表明した。
麻生内閣(2008年9月〜?) (完)