2011年11月13日、聖日礼拝のお祈り
紫垣 喜紀
御在天の父なる神様
きょうは小春日和です。穏やかで温かいこの日に、「主の日」をお与え下さいまして、ありがとうございます。
兄弟姉妹とともに礼拝の場に出席し、日頃の気苦労や心配事から離れ、思いをすべてあなたに集中して、お祈りできますことを、感謝します。
また、先週は「開堂記念礼拝」と「永眠者記念礼拝」をとどこおりなく終えることができました。あらためて感謝します。
ところで最近、「GNH」「Gross National Happiness」「国民総幸福度」という言葉が新鮮な響きを与えています。
これは「GNP」「国民総生産」に対比して作られた言葉です。
ヒマラヤ山麓の小さな国、ブータンの国王が提唱しました。
GNP・国民総生産などをいくら競っても、人は幸せにはなれない。
貧しい人、健康を損なっている人、身寄りのない人がいても、周りの人たちが互いに支え合う社会を作ろう、と呼びかけています。
この「国民総幸福度」という言葉に刺激されて、世界のシンク・タンクが「世界の幸福度調査」に乗り出し、次々に発表しています。
「幸せ」という超主観的な心情を、数量化して、なおかつ国別にランキングをつけようというのですから、どの程度の信憑性があるかは、大いに疑問があります。しかし、幾つかの調査結果を見て、ひとつ共通点のあることに気付きました。
それは、日本人の幸福度があまり高く評価されていない点でした。
世界の75番目とか90番目とか、随分下位にランクされています。
しかし、これには理由がありました。
この種の調査は、「あなたは幸せですか」という単純な質問が土台になっております。
「あなたは幸せですか」と聞かれて、デンマーク人の96%は「イエス」と答えています。ブータン人は95%が「幸せ」と答えています。
ギリシャ人も、90%が「幸せ」と答えています。
これに対して、日本人は「幸せだ」と答えた人の比率が、とても小さかったのです。
貧困や飢餓にあえぐ国の人々ですら、喜びの種を見つけ感謝の気持ちを忘れません。それが、物質のあり余った日本で、人々があまり「喜び」や「幸せ」を実感していない。このパラドックスを、どう受け止めたらよいのでしょうか。
私たちは、社会への不服を唱え、不満を述べる技術は、学校や職場でいやというほど学びました。しかし、「喜びを見出し、感謝する」術をあまり学ばなかったように思います。
いや、忘れ去ってはいないでしょうか。
いま聖書の言葉を、噛みしめなければならないと思います。
先程、ご唱和いただきました「詩編」の一節(詩編107:1~9)にもありましたように、あなたから、無限の恵みと慈しみをいただいていることを、あらためて思い起こします。感謝です。
今日は、土橋牧師から「戦う時、避ける時」と題した証言をいただきます。土橋牧師が、あなたの言葉を十分に語り、聞く私たちが正しく受け止められますように、お導きください。
私たちが、この世の生活と仕事に戻っていくときにも、ここで学んだ真理を忘れないようにさせてください。その教えをあなたの栄光のために、用いることができるようにさせてください。
きょう、教会に来られない人々を覚えます。
病める人、高齢の人、悲しみにくれている人、子どもや家族のことを心配している人、病人を看護している人、きょうも働かなければならない人。
これらすべての人々に、あなたの豊かな祝福がありますように、お願いいたします。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。