ペスタロッチーを(かじ)

紫垣 喜紀

私は“ながら族”である。ラジオを何気なく聞きながら、他の作業をする。気になる放送があれば聞き耳を立てる。そんなラジオの活用法は、かつて取材記者をしていた当時からの習慣になっている。新しい情報をキャッチすれば、すぐ関連取材に腰をあげなければならない。

 今から6年ほど前の1月下旬、夕食後の一杯機嫌でラジオのスイッチを入れる。その内に、どこか聞き覚えのある声が耳に入ってきた。誰だろう。アナウンサーが「中野さん」と呼びかけた。「教会の中野光兄だ!」。私は飛び上がって驚いた。その番組は、「ペスタロッチー賞」を受賞された中野兄へのインタビュー番組だったのである。

 「ペスタロッチー賞」とはどういうものなのだろうか。日本の近代教育の歩みに最も大きな影響を与えた外国人の一人はペスタロッチーだといわれる。その研究の中心になってきたのが広島大学であった。広島大学は、ペスタロッチーの教育精神を広く教育の世界に広めようとして創設したのが、「ペスタロッチー教育賞」である。優れた民衆教育の実践者に授与される。日本で最も権威のある教育賞ともいわれる。中野兄はその13番目の受賞者であった。

 それでは、広島大学がなぜペスタロッチー研究のメッカなのだろうか。それには一人の「教育界の巨人」の名前をあげておかなければならない。長田新(おさだあらた)である。長田は旧制広島文理科大学の教授在任中、広島に投下された原爆を被曝。家族や教え子の看護で九死に一生を得た。長田は学長に就任して文理大の再建にあたり、新制広島大学に衣替えしたあとも、退官まで教授を務めた。

 長田は戦前から、ペスタロッチーの全著作を日本語に訳し全集を出版する夢を暖めていた。長田を中心にした翻訳陣に不足はなかった。問題は出版社である。途方に暮れていたとき、思いがけない救世主が現れた。

長田は偶然に出会った当時の平凡社社長、下中彌三郎(しもなかやさぶろう)に衝動的に出版の相談を持ちかけた。下中はあっさりと快諾する。

長田の願った「ペスタロッチー全集」(13巻)が下中によって出版された。

生涯をペスタロッチー研究に捧げた長田新と昭和の怪物、下中彌三郎。

中野兄は「大正の自由教育がつちかった歴史的土壌がそれを可能にした。全集は日本の学校改革史の記念碑であり、大いなる遺産になった」と賞賛する。

「ペスタロッチー全集」刊行の壮挙は、スイス政府とチューリヒ大学からも高く評価された。長田には「文化功労賞」と、画家バウムベルガーによるペスタロッチー晩年の肖像画「闘士ペスタロッチー」が贈られた。この肖像画の複製は、曲折を経て現在、中野家に所蔵されている。

スイスのペスタロッチーの墓に向かいあった教会の墓地に、長田新の分骨が埋められ、碑文が刻まれている。

「ここに最後の願いみちて、ペスタロッチーの偉大な理解者、長田新の遺骨が鎮まる」

 広島大学は、長田の業績を記念して1992年、「ペスタロッチー教育賞」を創設した。以上は、広島大学がなぜペスタロッチー研究のメッカと呼ばれるのか。その問いに対する答である。

 中野光兄は、新年早々、一冊の新しい本を出版された。もう少し丁寧に言うと、2004年秋のペスタロッチー賞受賞以来、2010年前期までに各地で講演された記録を一冊の本にまとめられた。タイトルは「大正自由教育研究の軌跡」。「人間ペスタロッチーに支えられて」という副題がつけられている。

 中野兄は2006119日、網膜黄斑部からの出血で入院。手術によっても視力を取り戻せなかった。ご本人は「不自由ではあるが、不幸ではない」とさりげなく言われる。しかし、研究者にとって、失明は不自由どころか再起不能とも思える痛手に違いない。その窮状を支えてくれたのが、教え子の人たちである。「和光大学・中野ゼミ」のメンバーは「中野先生の著作の出版を実現させる会」を発足させた。未発表の原稿を朗読・録音したテープを郵送してくれた。こうしてまず、2008年秋に400ページに近い「学校改革の史的原像」の大著が刊行の運びになった。今度の新しい出版はその姉妹編なのである。

 ゼミのメンバーの一人は「あの会は『中野先生の著書、論文を読まなかった者の“罪滅ぼしの会”』なんですよ」と言ってくれたという。

ペスタロッチアンの恩師、中野光先生に、教え子たちもペスタロッチー精神で応えたというところであろうか。今時珍しい美談である。

 私は、ペスタロッチーという教育者をほとんど知らない。そこで、中野兄が新しい書物を世に問われたのを機会に、その人物像を撫でてみることにした。ペスタロッチーを囓(かじ)ってみることにした。書物に記述された範囲内で、ペスタロッチーの実像を、なるべく立体的に浮かびあがらせてみようという試みに挑んでみた。

 ペスタロッチーは、その最晩年に「墓は質素に。葬式は貧乏人の子どもと百姓だけが来て、埋めてほしい」と述べたという。

1846年、故郷、アールガウ州政府が「不滅の恩人」ペスタロッチーの生誕百年祭を記念して、墓に碑を建てた。

“ここにハインリッヒ・ペスタロッチーが眠る。

1746112日、チューリッヒに生まれ、    

1827217日、ブルユックで逝く。

ノイホーフでは貧者を救い、

「リーンハルトとゲルトルート」では民衆を教え、

シュタンツでは孤児の父

ブルグドルフとミュンヘンブーフーゼでは新しい小学校の基礎をつくり、

イヴェルドンでは人類の教育者になった。

人間、

キリスト者、

市民、

すべてを他者のために

己にはなにものをも

その名に恵みあれ。“

 ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチー(Johan Heinrich Pestalozzi

チューリッヒの大学でルソーをはじめとするフランス革命に通じる革新的思想の影響を受ける。親の反対を押し切って嫁いできた8歳年上の妻アンナ・シュルテスとともに農業経営に従事。そのかたわら貧児、孤児といわれた子どもたちの教育事業にうちこむ。その間に執筆した教育小説「リーンハルトとゲルトルート」は多くの人々に影響を与えた。50歳を過ぎてから学園を創設し、教育の実践と理論を展開、近代教育のあり方に貴重な遺産をつみあげた。

ペスタロッチーは、江戸時代中期の人。ヨーロッパに生きた同時代人にはゲーテがいる。ゲーテはペスタロッチーの3歳年下である。もう一人いる。ナポレオンである。ペスタロッチーより23年遅く生を受け、6年早く世を去った。

 このペスタロッチーのデッサンに、少し色づけをしてみよう。ペスタロッチーの助手をしていたJC.ブースという人は、初めてペスタロッチーを訪ねたときの印象を次のように記している。

「初対面の彼は、やはり私の想像通りでした。ずり落ちた靴下…それは見るからに埃っぽく、そしてひどくほころびていました。彼は二階の部屋から降りてきました。この瞬間に私の受けた感じ、私はそれを表現する言葉を知りません。それは、ほとんどいたわしいという感じでした。しかしそれは驚嘆の感じとも結びついていました。

目の前にいる人がペスタロッチーなんだ。その人のよさ、初対面を喜ぶ彼の様子、そのえらぶらない態度、その素朴さ、そのボロ姿、これらのすべてが、たちどころに私を魅了しました。」

 ペスタロッチーの処女作に「隠者の夕暮」というのがある。“隠者”という言葉は“世間とのかかわりを避けて山奥などで暮らす老人”というイメージが浮かぶが、出版したのは彼が34歳のときであった。著作活動に専念した期間を、彼は自ら「隠者生活」と呼んでいたそうだ。それでは、「隠者の夕暮」の一節を紹介しよう。

 「人間、王座にすわっている人も、あばら家に住んでいる人も、同じであるといわれるときの人間、それはいったい何であろうか。学者たちはなぜそれを私たちに教えてくれないのか。なぜ世のおえら方は、彼らの同類である人間が何であるのかを、知ろうとしないのか。」

ペスタロッチーは“玉座に座ろうと、あばら家に住もうと、人間は本質的に平等だ”という人間観を強く世に訴えた。

 ペスタロッチーは、青年時代から民衆の中に身をおいて生きてきたといわれる。彼の教育実践と成果、課題をまとめた「ゲルトルート」という著作の中で、そこで学んだことを自ら次のように述べている。

「私は、さながら鳥仲間のなかのふくろうのように、民衆の間で長い年月をくらしました。しかし、それは私を排斥する人々の嘲笑のなかにおいてでした。『貴様、惨めな奴め!貴様は自分ひとりの暮らしを立てることもできない最低の日雇人夫みたいな奴だ。そのくせ貴様は自分には民衆を救うことができるなどと思い込んでいるのか?』という彼らの高い悪罵の声のなかで私は暮らしたのです。

あらゆる人々の口から投げつけられるこういった嘲笑、悪罵のただなかにおいて、私の心は依然として、私のまわりの民衆が陥っていると思われた不幸の源泉を塞ぎとめる目的に向かって、ただひたすらに強い鼓動を打ちつづけたのです。

私の不幸は、私の目的が間違いのないものだということをいよいよ強く私に教えました。

だれもだまされなかったことに私はいつもだまされました。だれもがだまされたことに私はもはやだまされませんでした。」

ここまで書き進んでみて、私はふと旧約聖書「イザヤ書」53章の記事を連想した。イエス・キリストの生涯が預言されているところである。

「見るべき面影はなく

輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ

多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し

わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

………………

多くの人の過ちを担い

背いた者のために執り成しをしたのは

この人であった。」(新共同訳)

神は予言者イザヤに、今後起こるべき救いのわざを特別に啓示された。イザヤはイエスの栄光を見たので、イエスについて語ったのである。

ロゴス教会の会堂側壁にイエスの肖像画が掛けられている。イエスが颯爽としたハンサムな風貌に描かれている。まるでアイドル、スーパースターに映る。主を美化したい気持ちはわからないでもないが、イザヤが語ったイエス像とはかなりかけ離れているように思われて、微苦笑を禁じ得ない。やはり、海外でも名声が高い渡辺禎雄の型染版画が実相に近いのではなかろうか。

さて、それはそれとして、イザヤ書に描かれたイエス像が、失敗や挫折を繰り返すペスタロッチー像と、あまりに似通っているのに驚いてしまう。

いや、ペスタロッチー像がイエス像によく似ている、と言うべきであろう。言うまでもなく、イエスは神の身分であり、ペスタロッチーはただの人間にすぎない。それが、なぜこうも似ているのだろうか。

ペスタロッチー研究者の中には次のように指摘する人がいるという。

「ペスタロッチーは生涯キリストの名を口にしなかった」「彼は原罪も贖罪も無視した」「著作の中で、一度も信仰を告白していない」。

つまり、ペスタロッチーの思想や教育実践は彼の信仰や宗教観に基づいたものではない、という見方のようである。が、はたしてそうなのだろうか。それはあまりに不自然な見解のように思えてならない。

 ペスタロッチーは5歳のとき父親を亡くし、母親と祖父から人格的な影響を受けて育った。祖父がプロテスタントの牧師だったこともあって、若くして神学を学び聖職者を志していた。しかし、それには不向きだったようで、途中で進路を変更。貧しい人のために働く社会正義を身につけていった。しかし、聖職者こそ断念したものの、彼はキリスト者であった。彼の行動が信仰と無関係であったとはとても考えにくい。むしろ、ペスタロッチーにとって、神は厳然たる事実であり、存在そのものであり、説明の必要を超越したものではなかったのだろうか。

「フィリピの信徒への手紙」2章はキリストをこう記している。

「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」 これが歴史に登場したイエス・キリストの姿である。

ペスタロッチーは生涯この神人キリストを模範として行動し、忠実に従ったように見える。彼の行動の原点には強い信仰があったはずだ。私はそのように想像しないわけにはいかない。

 和光大学、初代学長の梅根悟(うめねさとる)は、日本における優れたペスタロッチアンの一人である。しかも、英、独、仏の三カ国語だけでなくラテン語やチェコ語も読みこなしたという。その梅根訳による「隠者の夕暮」の別の場面を紹介してみよう。ペスタロッチーが悲憤慷慨しているところに注目!

 「おお、高き才能を誇るゲーテよ。

あなたの歩みは、必ずしも自然ではないのだ。

弱き者をいたわり、最下層の人々を教育し強くするためにその才能を使うこと、

自己の才能について謙虚であること、自分の才能と知恵を行使するに当たって、親心、親としての心遣い、親としての犠牲心をもってすること、これこそ人間の真の高貴さであり、かくのごときが君主と学者の義務であるのだ。

おお、高貴を誇るゲーテよ。私は、私の低い谷底からあなたを仰ぎ見て、そして身震いし、沈黙し、そして嘆息するのみ。

あなたの威力は大国の君主のそれに似ている。王国の栄光のために幾百万の人民の純なる恵福を犠牲に供してはばからぬ大君主の衝動に似ている。

この人類の純なる恵福は、信仰の賜であるが、この真理を知らしめることこそ、あなたの任務ではないのか。

おお、高貴を誇るゲーテよ。あなたの歩んでいる道は自然ではないのだ。」

 これは痛烈なゲーテ批判である。ペスタロッチーとゲーテ。この二人はヨーロッパに生きた同時代人である。しかし、二人のおかれた境遇・地位はもとより活動舞台と業績は天と地の開きがある。

ペスタロッチーがゲーテをどの程度理解していたかはわからないが、当時ゲーテの生き方に我慢がならなかったのだ。

梅根悟は、ペスタロッチーの側に立って次のように解説を加えている。

「名声一世に高く、ワイマールの宮廷に入って大臣の地位にあり、燦然たる時代の脚光をあびていたゲーテ、しかもペスタロッチーに言わせれば、女たらしで、不信仰で、身辺の生活の荒廃していたゲーテ。それはペスタロッチーが攻撃し、非難して止まなかった、不信仰で不道徳で、権勢と名誉だけを追いまわし、人民大衆の幸福のことなど考えてみようともしない二つのグループ、政治家と思想家の一方、つまり『賢者』の代表的人物だったわけである。」

 当時、ゲーテは政治の世界で栄光の地位についていた。ペスタロッチーはそのゲーテの生き方に痛烈な批判を放ったのである。しかし、歴史は動く。ゲーテはその後、文学や学問の世界で不朽の名作を次々に遺していった。ペスタロッチーのゲーテ観は終世変わらなかったのだろうか?

ここからは、ロゴス教会のペスタロッチアン、中野光兄に登場してもらわなければならない。中野兄は、ペスタロッチーが「隠者の夕暮」からほぼ18年後に書いた「探究」と題する著作に注目された。

その冒頭にある「ある高貴な人への手紙」に鍵があるというのだ。

 「ある国に民衆のための真理を求めたふたりの人がありました。

そのひとりは高貴の生まれで、彼が治めた国に善政を行うために夜も眠らず、昼もそのためにささげました。彼は目的を達しました。

彼の国は彼の知恵によって栄えました。

彼の頭上には賞賛と名誉とが冠せられ、高貴な人たちは彼を信じ、

民衆は黙して彼に従ったのであります。

他のひとりはいわゆる徒労の人で、彼は目的を達しませんでした。

彼の苦労はことごとくに失敗しました。

彼は国のために尽くすことができず、

不運と苦悩と過ちとが彼の頭を押し曲げ、彼の真理からあらゆる力を奪い、

彼の存在からあらゆる影響力を奪い、

国内の高貴な人たちは彼を知らず、民衆は彼をあざけりました。

閣下よ!民衆のための真理をほんとうに見つけたのは、ふたりのうちのどちらだと思いますか。

世の人は即座に答えるでありましょう。

徒労の人は夢見る人であり、真理は高貴な人の側にある、と。

しかし、この高貴な人はそう考えなかったのであります。

徒労の人が民衆のための真理を求めて不断の探究をしていることを聞いたとき、

高貴な人は彼の陋屋(ろうおく)を訪ねて、あなたは何を見たかと尋ねました。

そこでこの人は高貴な人に対して彼の生涯の歩みを物語り、

高貴な人はまた彼に対して彼の知らない多くの事情を説明したのであります。

『徒労の人』は高貴な人の正しさを認め、また高貴な人は徒労の人の経験に深く心を留めたのであります。

彼らが別れるとき、ふたりの顔には静かな熱意があふれ、ふたりの口から次の言葉が出たのであります。

『わたしたちはふたりとも善を求めた。そしてふたりとも間違っていた』と。

 手紙の書き手「徒労の人」はペスタロッチーであるが、「高貴な人」が誰であるのか、ペスタロッチーはあえて明らかにしていない。そこで、中野兄は一つの仮説を立てられた。「高貴な人」は「ゲーテ」もしくは「ゲーテのように栄光に輝いていた人」と解釈したのである。こうして読むと、ペスタロッチーのゲーテ観が大きく変化していることにお気づきであろう。

 「夕暮」から「探究」にいたる18年間は、フランス革命を含む歴史的な激動の時代である。この間、ペスタロッチーは、ゲーテを読み、あらためて評価し直したのかもしれない。自らの過去を絶対視することなく、彼は自らの誤りをもきびしい自己批判の対象としている。そこにはペスタロッチーらしい誠実さが現れているといえよう。

 ペスタロッチーとゲーテは歴史上の偉人である。しかし、ペスタロッチーはゲーテにはなれない。ゲーテはペスタロッチーたりえない。

神は二人にそれぞれに違った賜物を授けられた。二人は、それぞれ違った境遇の下で、それぞれ違った思想を世に問うている。その違いをペスタロッチーは認めたのである。

「ある高貴な人への手紙」の解釈は、中野兄のペスタロッチー研究の成果であろう。しかし、中野兄は、「徒労の人」と「高貴な人」のモノローグの解釈について、「専門研究家から教えを乞いたい」と控え目に述べられている。

 「リーンハルトとゲルトルート」は教育大河小説である。ペスタロッチーを一躍有名にしたベストセラーでもある。多くの人に読まれた。

題名は、田舎で石屋を家業とする男とその妻の名前である。旦那のリーンハルトは飲んだくれで生活も乱れがち、7人の子持ちで生活は苦しい。ゲルトルートは妻としても母としても模範的な賢夫人であり、ペスタロッチーが理想とした女性の姿を描いている。この作品に込められた願いは、18世紀末のヨーロッパ農村を襲った資本主義的変動の中で、新しい教育のあり方を問うことにあった。

作品の中で、ひとりの村人が土地を治める領主に訴える場面がある。

 「領主様、どうですか、この50年ばかりのあいだに、村の様子はすっかり変わってしまって、もう昔のままの学校では全然間に合わなくなっているのです。

昔はすべてがずっと単純で、食べていくために百姓仕事だけでよかったのです。そうした暮らしでは学校などいらなかったのです。百姓にとっては、家畜小屋や粉打ち場、木や畑やが本当の学校だったのです。そして彼の行くところ、立ち止まるところ、たくさんの学ぶべきこと、なすべきことがあって、いわば学校なんかなくても、りっぱな人間になれたのです。

だが、今は事情がすっかり変わっているのです。

貧しい木綿職人たちはどんなに収益が増え、どんな保護を受けても、その仕事からは腐敗した肉体と貧しい老齢のほかに得るものはないでしょう。

領主様、腐敗した紡ぎ屋のおやじとおふくろが、そのせがれを秩序ある、思慮深い生活者に育て上げることはできません。

けっきょく残るところは、木綿つむぎがつづくかぎり、この人たちの家政の貧窮をつづけさせておくか、それとも学校で、こうした子どもたちに、その両親からはもう受けられなくなっているが、絶対に必要欠くべからざるところのもの(生活教育)を与えるか、二つに一つしかございません。」

 ペスタロッチーは、まだ若い30代の作品の中で、社会変動と近代学校をとりまく課題を鋭く捉えていたのである。

 それでは、ペスタロッチーの教育理念とはどういうものだろうか。彼は、道徳的な人間を育てる基盤として、家庭生活の大切さを説いた人である。学校にも家庭的な温かさが必要だと主張した。民衆が陥っている貧困をせき止め、家庭を立て直し、教育を通じて社会改革を進めるのが、かれの究極の目標であった。

人間形成まで含んだ組織的な教育活動に、貧民や民衆の子どもを対象としたのもペスタロッチーである。「民衆教育の父」と讃えられる由縁である。

ちなみに、啓蒙思想家ルソーの「エミール」はペスタロッチーにも少なからぬ影響を与えたといわれる。その「エミール」は、優れた教育書と言われるが、対象は富裕層、少なくとも中流階級以上の子どもたちであった。

ペスタロッチーにとって「教師の時代」とは、彼がシュタンツの孤児院長となった1798年から始まったといえる。ペスタロッチー53歳のときである。

教育実践家として評価されるのはここからだから、仮にペスタロッチーが早世していたら、これほど歴史に名を残すことはなかったであろう。

シュタンツの街は、フランス軍の攻撃を受け、多数の孤児が発生していた。その孤児たちのために作られた学校もわずか半年で閉鎖されてしまう。ペスタロッチーの革新的な思想に批判的な人々が足を引っ張ったためである。

その後、文部大臣シュタッパーの支援を受け、彼の最も重要な活躍の舞台となる「イヴェルドン学園」の長になったのは1805年、還暦の年であった。

イヴェルドンはチューリッヒの北にある旧い町で、古城跡の建物と環境は申し分なかった。彼は教育学の理論を実践に移し、発展させる夢を膨らませていた。

ペスタロッチーの名声と理論に共鳴してヨーロッパ各地から集まった教師も少なくなかった。有能な教師を同志に迎え、学園の発展に力を注いだ。生徒と生活を共にして、充実した日々が続いた。

 しかし、彼の表現によれば、それは「偽りの幸運」にすぎなかった。学園の発展とともに、彼の意に反して中流階級の子どもが増えはじめる。教師たちの間には派閥ができてしまった。経営重視の現実主義のグループと、ペスタロッチーの思想を純粋に実践しようとする理想主義のグループ。二大派閥の抗争が抜き差しならなくなったのだ。こうして学園は閉鎖に追い込まれていった。

ペスタロッチーの人生は失意と挫折の連続であった。今でこそ教育思想家とか教育実践家として評価されているが、当時は失意のうちに亡くなっている。

生きているうちに報われなかったひとりである。

挫折にも耐えて希望を捨てなかった彼の生き方。その原動力には、母の愛情があったのかも知れない。8歳年上の夫人アンナ・シュルテスも温かく献身的な協力者であった。理想を貫く男らしい意思は、育ての親である祖父(牧師)の影響かもしれない。キリスト信仰に強く支えられたのであろう。

白鳥は死ぬ前に鳴く、歌を唄うという伝説がある。ペスタロッチーは亡くなる2年前に、「白鳥の歌」という著作を執筆した。

「このわたしの生涯の努力はある程度成熟に近づいているのであって、その保存のために生き、たたかい、そして死ぬことが私の聖なる義務である。わたしがこの理念のために安息を求めることが許され、また、安息を求めようとする時の鐘はなだ鳴らない。いや、それとは違った鐘がわたしのために鳴った。」

ペスタロッチーは闘った。最後まで。殉教者のように。

 「この人がいなかったら、日本でペスタロッチーという教育者とその歴史的偉業はこれほどまでに知られることはなかっただろう」。

中野兄がこう述べ、福澤諭吉に次ぐ明治の偉大な教育者と評価する人物がいる。澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)である。

文部次官。東北帝国大学の初代総長、京都帝国大学総長。京大時代に教授の任免をめぐって辞任、在野の人に。私立成城小学校を創設、教育改造の実験校とする。澤柳は自ら「教育界の渡り鳥」と回想している。「最も興味があったのは小学校の教育であった」とも告白した。

この澤柳政太郎こそ、ペスタロッチーを日本に紹介した最初の人であった。

 「彼(ペスタロッチー)は学問の素深かかりしにあらす、家富めるにあらす、有力者の助くるものありしか為ならす、好機に投せしか為ならす、唯誠実と熱心との二つは彼の如き大教育者を生せり。」

澤柳はペスタロッチーをこのように紹介した。

ペスタロッチーという教育者がどこでもいそうな、風采のあがらない、そして「変わり者」といわれる人でありながら、すべての子どもが人間として平等である、という人間観にもとづいて、わけへだてなく子どもたちを愛し、とくに社会的に恵まれない子どもたちに献身し、学校教育のあり方を変革しようとした人だ。日本人はこんなことを、柳沢の「ペスタロッチー伝」で知ったのである。

 澤柳は,1917年(大正6年)に私立成城小学校を創設、初代校長をつとめた。

「新しい学校」のあり方を求める実験校としたのである。

かつてペスタロッチーが「リーンハルトとゲルトルート」の中で「まったく新しい学校」を創らなければならない、と考えたのと同じことだった。

ここには、ペスタロッチー研究者の長田新ら錚々たる教育者を招いた。ペスタロッチー研究の中心地、大正自由主義教育運動の震源地となったのである。

 その澤柳政太郎の胸像が、和光大学のキャンパスに置かれている。長崎の平和祈念像を制作した彫刻界の巨匠、北村西望の作である。なぜ和光大学に?

それは、日本のペスタロッチアンの一人、梅根悟(うめねさとる)が和光大学の初代学長になったとき、日教組の「教育会館」に眠っていた胸像を引き取ったのである。澤柳が成城小学校を実験校としたように、梅根は和光大学を「実験大学」にする構想を描いたのである。胸像はそのシンボルであった。

「日本のペスタロッチー」の譜系は、澤柳政太郎、長田新、梅根悟、そして中野光と続く。大正デモクラシー自由教育の系譜ともいわれる。

 ペスタロッチーは“貧しい子どもを救う”という歴史的課題に生涯を捧げた。彼の墓碑には「すべてを他者のために、己のためには何ものをも…」と刻まれている。そして、日本にもペスタロッチーのような献身的な教育者はいた。

そうした教育者を「日本のペスタロッチー」と呼んだことがあったという。

しかし、「日本のペスタロッチー」たちは、大正が遠のき、軍国主義の波が高まっていく1930年代後半から1940年代にかけて、厳しい歴史の現実に遭遇した。

平和主義者・ペスタロッチーの肖像は外され、戦時下の日本の学校から姿が消えていった。ある教育者は歴史認識を誤って現実と妥協した。ある人は「隠れペスタロッチアン」として沈黙を守らざるをえなかった。

終戦は19458月15日である。ペスタロッチーは復活したのだろうか。

戦争が終わった翌年、文部省が配布した文書に意外な人物が登場したのである。ペスタロッチーであった。

文部省は19465月から472月にかけて、「新教育指針」と題する冊子を全国の教職員に配布した。その“はしがき”に次のような文章が綴られていた。

 「フランス革命のあらしがかれの祖国スイスにも荒れくるって、親を失い家を焼かれたみなし児、貧児たちは、たよる力もなく巷をさまよっていた。青年時代から革命運動に深い関心をいだいていたペスタロッチは、結局その一生がいの力をそれらあわれな子ども達の教育にそそいだのである。

『こじきを人間らしく育てるために自分もこじきのような生活をした』というのが彼自身の告白である。

今日の日本の教育者にこじきの生活をせよ、というのではないが、生活のなやみの中にも高い理想を仰ぎ、貴いつとめによって自らを慰めたこのペスタロッチの精神こそは、永遠に教育者の力であり光でなければならない。」

文部省はすべての日本の教育者が「日本のペスタロッチー」になることが本来の「平和的文化国家」のために必要である、と説いたのである。

日本の文部省が、ペスタロッチーに対してこのような歴史的評価をしたのは、これが最初のことだった。

しかし、それ以後、ペスタロッチーが教育行政当局の公的な言説に登場することはなかった。それは、教育政策の変更を示す象徴的な現実でもあった。

ペスタロッチーの精神が生かされたのは、わずかに個人や団体においてであった。団体としては、梅根悟らをリーダーとする日本生活教育連盟。個人の代表的な人物は長田新である。長田は、前述の通り、「ペスタロッチー全集・全13巻」を刊行した。ペスタロッチーを信奉した教育者たちによる業績のみである。

いずれにせよ、公的教育からペスタロッチーの名はあっという間に消えた。

「日本の教育者たちがペスタロッチーを語らなくなって、日本の教育は荒廃の時代になった」。ある教育者のつぶやきである。嘆きは深い。

現代日本の教育はどうであろうか。

子どもたちの瞳は輝いているだろうか。

中学生や高校生たちは未来に希望をいだいた日々をおくっているだろうか。

大学生たちは「知」の厳しさと喜びを体感しているだろうか。

教育者は、次代を背負う青少年の教育に、誇りと自信に満ちているだろうか。

教育者の尊厳と自由は保障されているだろうか。

中野兄は「ペスタロッチーとの対話がいまこそ必要だ」と主張する。

中野兄は「子どもの中に光るものを見つけたときがいちばんうれしい」とも

語る。

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