快僧 ソーマワンサ
〜スリランカ旅行の回想〜
紫垣 喜紀
「怪僧」といえば、ラスプーチン。ロマノフ王朝にとりいって政治を壟断したロシアの奸物です。
表題に使った「快僧」の二文字はもちろん造語なのですが、文字が違っているだけではなく、怪僧とはまるで反対の「かっこいい人」の意味をこめています。 ちょうど10年前、夫婦でスリランカに三ヶ月間滞在したことがありました。
小中学生に日本語の手ほどきをするボランティア活動をしたのです。
その滞在中の面倒をみてもらったのが、この国では名のあるソーマワンサ僧正でした。180センチをこえるがっちりした体躯。まれにみる美男。45歳。
この人がオレンジ色の法衣をひるがえして走り回る姿は、快男児、快僧の名にふさわしいものでした。
私たちを受け入れてくれたホームステイ先は、紅茶の卸業を営むワルポーラ家です。夫婦と大学生の息子、中学生の娘の四人家族です。
熱帯樹にかこまれた平屋建ての一軒家。そこで家族と生活をともにしました。
これからお読みいただくのは、いわば「スリランカ旅の雑記帳」です。
本棚を整理していたら、アルバム帳から手紙の束が見つかりました。
それも受け取った手紙ではなくて、旅行先のスリランカから日本の友人に宛てて出した手紙の写しでした。自分が書いた手紙を現地でコピーして保管していたのです。日記がわりにそうしておいたのでしょう。もう、そのへんの記憶は怪しくなっています。
読み返してみますと、そんなこともあったか、と懐かしく想い起こされてきました。
スリランカという国の一面をうかがい知ることはできそうです。
2001年4月9日から7月4日までのスリランカ滞在中、8通の手紙を出していました。それをまとめてみました。
私信ですので、公にするのにふさわしくない部分もあります。一部は割愛、一部は加筆して、体裁を整えました。
なにしろ10年前の記述ですから、現状とは相違があるかもしれません。そこらあたりを頭に置いて、お読みいただくようにお願いいたします。
スリランカ便り No.1
私たちは,インドの南、インド洋に浮かぶ雫(しずく)のような形をした島国、スリランカに入りました。
コロンボの近郊のお宅にご厄介になり、ホームステイの生活を続けています。
4月14日は、こちらの「お正月」でした。午前0時になると、無数の爆竹が鳴り響きました。午後からは、親戚縁者が集まって正月の晩餐を囲みました。
ワルポーラ家の周りには、椰子やバナナの木が生い茂り、色鮮やかな鳥が舞い、リスが走り回っています。満天に輝く「夜の星座」の美しさはたとえようもありません。
しかし、熱帯の生活には、ギョッとする思いも、しばしば体験します。
ヤモリやゴキブリ、風呂場に侵入してくる糸ミミズやナメクジを怖がっていたら、生活になりません。蝿、蚊、蟻とも、ほどほどのおつき合いをしています。
夜ベッドに入って天井を眺めますと、必ずヤモリが2〜3匹やってきて、天井を走り回っています。蚊を待ち伏せしてつかまえる見事な狩の技も見学させてもらえます。ただしですよ、ヤモリとて足を踏み外さないとは断言できません。
そこで、蚊帳(かや)をお借りしました。この蚊帳はすごい代物です。
天井の真ん中に吊して、ベッドの上にふわっと広げる大きな蚊帳なのです。
王侯貴族の寝室にある天蓋(てんがい)のようで、気分は悪くありません。
食卓は、日本の皿数にくらべますと、かなり質素と言わなければなりません。
原則として、朝昼晩3食カリー料理です。
この国のカリーは、さっぱりとした煮物風や汁っぽいものです。
具は色々入っているのではなくて、鶏肉なら鶏肉、魚なら魚、野菜なら野菜だ
けのカリーです。それぞれが独立した一皿となるのです。
カリー料理の具になる肉といえばもっぱら鶏肉です。宗教上の戒律によって、仏教徒は牛肉を食べません。イスラム教徒は豚肉がだめです
お祭りやお祝いの時には、このカリーの皿数が増えます。
普段の食事では、カリー一皿だけのことが多いようです。
このカリーに、つき合わせとして野菜サラダや野菜炒めが添えられます。
大皿にはパラパラした感じのご飯が盛られます。
各自は、自分の皿にご飯とカリーをよそって、右手の指で器用に混ぜながら、上手につまんで口に運びます。さすがに、私たちはスプーンを使いました。
スリランカのカリーは、様々な香辛料を混ぜて作るので、猛烈な辛さです。
最初は本当に涙が出てきました。半端な辛さではありません。
ただし、非常にうまい!辛いけどうまい? 泣き笑いの食事風景です。
妻の胃腸はこの辛さに悲鳴をあげ、お腹をこわしていました。でも、すぐ治ったようです。しかも、辛いカリーがすっかり気に入った様子です。
年来のお友だち、便秘薬と決別できた、と喜んでいます。
私たちを受け入れてくれたのは、ソーマワンサ僧正です。
この仏教界の偉いお坊様に頼んで、私たちはまずプロテスタントの教会を捜しました。
「私たちはクリスチャンだ」と告げますと、彼は「信仰は大切です」と、教会捜しを快く請け負ってくれました。
スリランカは、ポルトガル、オランダ、イギリスに次々に支配された土地柄なので、カトリックやアングリカンの教会はあるのですが、プロテスタント系の教会は少ないようです。
僧正の車でコロンボ市内をぐるぐる回り、中心部にようやく「シナモン公園
バプテスト教会」を見つけました。
ソーマワンサ僧正は自ら牧師に面会を求め、私たちを紹介してくれました。
最初に教会を訪ねたのは、4月15日のイースターです。
イースター礼拝では、シンハラ語、タミル語、英語の三つの言語を交えて、説教がありました。最大限の想像力を働かせても、理解するのは無理でした。
その日、白衣をまとった四人の娘さんが水槽につかって洗礼を受けました。
教会員には、「リプトン紅茶」の関係者という英国人夫妻もいて、仲良くなれそうです。
スリランカ人は大変優しく、目が会えばニッコリと微笑みが返ってきます。
人々は物事を急いで進めようとはしません。
草を食む聖なる牛のように、自然に逆らわず、自然と共存しているように見えます。ここでは、時がゆっくり流れていきます。
ところが、ただ一つ例外がありました。
道を走る車だけは、われ先にとスピードを競います。わずかな隙を突いて追い抜きをかけます。人々の優しさはどこにいったのでしょうか。実に不可解です。
街を走る車の95%以上は日本車です。ほとんどが中古車やポンコツ。日本で廃車になった車が、大量にこの国に持ち込まれているようです。
都市間を結ぶ急行バスのボディーに「下北半島温泉ホテル」と書いてあったりします。温泉の送迎バスが、異境の地でれっきとした遠距離バスとして、第二の人生を送っていました。
こうなると、もう笑い話ではすまされません。
にわか車社会が、この国の自然と人の心を壊そうとしてはいないだろうか。
なんだか気になる社会現象です。
スリランカ便り No.2
ワルポーラ家にお世話になるようになって一か月がたちました。
いまは雨期にあたり、ものすごい雷雨とともに長い停電が続きます。裸足の生活にも馴染んできました。
この家の生業は紅茶の卸業です。ワルポーラさんは、時折オークションに出かけると、翌日トラックがやってきて、倉庫一杯に紅茶袋が山積みされます。
しかし、それ以外には日本人のようにあくせく働くこともなく、あきれるほどのんびりした商いぶりです。
どんな風に商売をしているのか、近くにいながらまだ見えてきません。
その代わり、家庭生活をとても大切にしています。親戚や友人との寄り合いにも熱心なようです。
ワルポーラ家では、午前10時と午後3時がお茶の時間です。
奥さんが大きな鍋に湯を沸かし、お茶を点てます。
砂糖とミルクがたっぷり入った甘い紅茶です。
さすがに、セイロン・ティーにふさわしい香りと味わいです。
当地の水は硬水だと聞きます。紅茶との相性がいいらしいのです。
お茶はいつも、家にいる人がみんなで楽しんでいます。
自分一人でお茶をする習慣はないようです。
こちらでは、満月の日は「ポヤデイ(Poya Day)」といって国民の休日です。
なかでも、5月の満月の日(7日)は特別の日でした。
「ヴェサック祭(Vesak Utsavaya )」と呼ばれ、仏教徒が仏陀の誕生、成道、涅槃を祝います。全国規模で仏教の祝賀行事が展開されました。
新聞は全面ヴェサック特集記事で埋めつくされます。
小中学生たちは、民族衣装をつけて街を行進します。
街角では「仏陀の像」が派手にライトアップされ、人があふれています。
ヴェサック・ツリーが飾られ、ヴェサック・カードも売られています。
「仏教徒のクリスマス」といった趣です。
ヴェサックの日、人々は肉食を断ちます。5日間は酒も一切御法度です。
仏教徒は家族が全員そろってお寺参りをします。
その仏を拝む礼法が、イスラム教徒の祈りの姿とそっくりなのに驚きました。
当地の宗教は、お互い仲が悪いくせに、いろいろ影響しあっています。
ワルポーラ家は夫婦と大学生の息子、中学生の娘の四人家族です。
家族の絆が強く、自然な親子の対話があるのに感心しています。
ワルポーラさんは立派な人ですが、オナラはするし、下着姿などは褒められたものではありません。平均的な日本の父親と、どっこいどっこいといったところでしょう。それなのに子どもたちの尊敬と信頼をしっかり勝ちとっています。父親の権威が揺らいでいません。
戦前の日本の父親像とも違います。居丈高に子どもを押さえつけたりしません。終始、穏やかに子どもと接しています。
その秘密はどこにあるのでしょうか?
よくはわかりませんが、生活に溶けこんでいる「信仰」に鍵があるように思えます。形骸化を指摘される日本の仏教とはどこか違うようです。
日曜日になりますと、先の便りでお伝えしましたように
コロンボの目抜き通りにある「シナモン公園バプテスト教会」を訪ねています。
天井までの高さが20mはあろうかという大きな会堂です。300人ほどの会衆を収容できそうです。通常の日曜日ですと、通ってくる信徒の数は100人を少し切るといったところでしょうか。
会衆席の足許には跪いて祈るための踏み台が置いてあります。現にそうして祈っている人の姿も見かけます。
英語の説教には苦戦しています。
受洗して半年もたたない新米のクリスチャンには、日本語の説教ですらよくわからないのです。まして英語の説教を聞いてわかるわけがありません。
おまけに、「ペテロ」が「ピーター」。「マルコ」が「マーク」。「ヨハネ」が「ジョン」では、犬の名前を聞いているようで、変な気分です。
讃美歌はナンバーが壁に表示されます。10曲以上歌います。発音がでたらめなので、たいてい数語遅れで必死に追いかけなければなりません。
紙不足のせいか、「週報」は配られません。だから予習もできません。
この教会のサターンは騒音です。教会の扉と窓がすべて開かれていますので、大通りの騒音が容赦なく飛び込んできます。
……とめどもなく怨み節の連打になりました。
妻が「よく聞き取れない」と牧師に訴えますと、牧師は笑って言われました。
「いずれ神様が直接あなたに伝えられでしょう」。
どういう意味なのか不明です。
スリランカ便り No.3
日本は梅雨に入ったでしょうか。
香辛料の利いたカリーにもすっかり慣れてきました。
私たちは、日本でいえば、小学5,6年生、中学1,2年生に当たる子どもたちに日本語を教えています。
私たちが通っている学校は
「NCEF(National Children’s Educational
Foundation)」という学校です。
スリランカで唯一の私立学校だという話です。
この学校は、理事長のソーマワンサ僧正が10数年をかけて拡張してきました。
始めは保育・幼稚園からスタートさせて、子どもたちの成長に応じて、小学部、中学部、高等部を増設してきたのだそうです。
いまでは、園児、児童、生徒合わせて500人のユニークな教育(自由な校風)をする学校として知られているそうです。
ソーマワンサ僧正は日本に留学した6年間に、宗教界を中心に多くの知己を得たそうです。学校の校舎や各種施設のほとんどは、そうした日本人の寄附によって建設されました。
京都・寂光院(尼寺)の小松門主(尼僧)や千葉・我孫子の井上圭司牧師(幼稚園園長)らが学校建設を支援されたそうです。
敷地はスリランカ政府から国有地の譲渡を受けています。
こうしてみますと、ソーマワンサという人は聖職者でありながら、教育者、実業家、いや、辣腕の政治家といわなければなりません。
「国興しは幼児教育から」。その信念を着実に実現しているようです。
オレンジ色の法衣をまとったハンサムな45歳は、なかなかのやり手です。
余談になりますが、この国のお坊様の社会的地位は驚くほど高いようです。
満員のバスでも、お坊様が乗ってくると、近くの人がサッと席を譲ります。
信徒はひざまずいて挨拶をします。
大統領と同席する場合でも、お茶はまず僧侶から配られるそうです。
カースト制度の上層部に位置するお坊様は、社会のインテリであり、しばしば指導者でもあるのです。
私たちの授業風景もお知らせしておきましょう。
教室は日本の学校の三分の二ほどの広さで、児童・生徒数は15人から20人ほどに押さえてあります。授業は「アーユーボーワン(こんにちは)」の挨拶で始まります。
初めて五年生の授業を始めたときはドギマギしました。
教室が何となくざわついています。子どもたち同士が目配せしています。そのうち、男の子が水筒を抱えて教室を飛び出しました。早くも学級崩壊かと暗い気分になりかけた時です。いきなり目の前にコップが置かれ、オレンジジュースが注がれました。歓迎の企みを考えていてくれていたのです。
スリランカ人の70%を占める“シンハラ人”は、昔インド北部からこの島に渡ってきたアーリア系の民族です。子どもたちは目がパッチリ大きく、顔の彫りが深く、とても表情が豊かです。それに、一人一人の個性がこうも違うものかと、感心させられます。
「21日」を「ハツカツイタチ」と読んでくれた独創派もいます。
黒板に書いた文字をノートに写すようにいっても、「手が痛い」と懸命な演技をして逃れようとする役者もいます。
説明が上手くいかないので苦慮していますと、たちまち消しゴム投げが始まってしまいます。とにかく、子どもは正直です。
子どもと気持ちが通じていなければ、いくら知識を押しつけても、伝わるものではないことを痛感しています。
先生と生徒の間に心のパイプを通すのが、教育の第一歩であるようです。
「折り紙」は絶大な人気を博しております。これまでに「お相撲さん」と「蛙」を折りました。教室ではたちまち「紙相撲大会」が始まりました。
「蛙の幅跳び大会」も大賑わいです。子どもたちは「ジャンピング・ゲンバ」と命名しました。「ゲンバ(Gemba)」は現地語で「蛙」のことです。
隣の教室の先生が、恐い顔をして見回りにくるほどの盛り上がりようでした。そんなことで、新米のにわか教師も、子どもたちとのおつき合いでは、まずまずの成績をあげております。
教室に向かう途中、幼稚園の脇を通るときは大変です。
園児が窓から一斉に顔を出して「タッタ、タッタ」の大合唱が巻き起こります。
「おじちゃん、おじちゃん」ぐらいの意味なのでしょうか。
そんな時には、にこやかに手を振りながら、すっかりキムタク気分です。
スリランカ便り No.4
六月に入って少し涼しい日があり、ホッとしています。
この頃は、バスを使って自由に動くことが出来るようになりました。
コロンボのバスは、一番美しいバスですら、東京の一番汚いバスより見劣りすることでしょう。
スリランカに来たばかりの頃、空き地に使い古したバスが捨てられているのを見つけました。ところが、そのバスに人が乗り、バリバリと大きな音をたてて走り出したのには驚きました。空き地と思っていたのはバスステーション。廃車に見えた車は、現役の路線バスだったのです。
バスには必ず車掌さんが乗っています。サンダル履きか裸足で、超満員の車内でも空中遊泳よろしく自由に動き回っています。
左手の指の間に紙幣を挟み、手のひらに硬貨を握って、料金を徴収しています。バッグなどは持っていません。運賃は車掌さんによって違うこともあります。一時間乗っていても10円ぐらいですから、気にするほどのことではありません。
行き先はシンハラ語やタミル語で書かれていてわかりませんが、路線・系統を示す三桁の算用数字が頼りです。
乗降口の扉は開けっ放しですから、飛び乗り、飛び降りは自由です。
バス停でなくても、手をあげれば止まってくれます。
バス停で乗客を積み残すことはありません。博愛・平等の精神からでしょう。
定員30人ほどのバスに50〜60人の乗客を詰め込みます。
超満員になっても慎重に運転する習慣はありません。
バスは常にエンジンの出力一杯まで加速したあと、急ハンドル、急ブレーキの連続です。
乗っている人は両手両足を踏ん張って生命の安全を確保しなければなりません。運動不足の解消には、よく配慮された運転ぶりですが、坂道を下り始めますと生きた心地がしません。
コロンボ市内を走る「138系統」というバス路線があります。乗客の多いドル箱路線なので、数社のバス会社が競合しています。大型バスがひっきりなしに発着し、同じ停留所に2台、3台と「138系統」が停まることがあります。
すると車掌さんが降りてきて猛烈な客引き合戦を展開します。ひとしきり終わりますと、バスは次の停留所への一番乗りをめざして、走り去っていきます。
コロンボのバスは、料金が超安いうえに、たっぷりとスリルを味合わせてくれる世界に冠たる乗り物です。
コロンボの繁華街で、お巡りさんに「バス停はどこか」と尋ねた時は、思わぬ展開になりました。
小銃を担いだお巡りさんが、大通りを走ってきたバスに、いきなり停車を命じたのです。他の車も一斉に急停車です。
それから私たちを誘導してバスに乗せてくれました。 なんという職権乱用!
若いお巡りさんは、日本・スリランカの友好親善を第一と考え、超法規的措置をとってくれたのでしょう。厚い友情に感謝!
学校に行く途中、バスがやってきたので手をあげて停めました。現地のやり方もすっかり飲み込めてきました。バスに乗り込むとガラガラで様子が変です。窓に格子がはまっていて護送車風なのです。「ポリスか」と聞くと、「アーミーだ」との答でした。
よく見れば、運転手も同乗者も軍服を身に着けています。学校まで送り届けてくれました。料金は無料。陸軍省持ちです。兵隊さんも親切です。
スリランカに入って気がついたのは、兵隊や警察官がいたるところで目につくことです。国会が始まりますと、議事堂に通じる道路は武装した警察官によって厳重に警備されます。
ちなみに、スリランカの首都は大都会のコロンボではありません。そこから15キロ東に位置する「スリー・ジャヤワルダナプラ」という湖のある原野なのです。そこに議事堂だけが建っています。
しかし、政府機関のほとんどはコロンボに置かれています。どこも警察官だらけです。街角を曲がりますと、ドラム缶のバリケードの中から機関銃の銃口がこちらに向けられたりします。政府機関や宗教関係の施設の周辺は、軍がバリケードを築いて警備しています。
空港に向かう道路には何カ所も検問所が設けられています。日本人はパスポートを見せるだけですぐ解放してくれます。
しかし、現地人やインド人はそうはいきません。全員、車から降ろされます。まず爆弾検知器がかけられ、荷物の徹底チェックを受けます。
「軍の機関銃」「警察官の小銃」がむき出しになっている光景は、現代スリランカの苦悩を示す影の部分です。
スリランカ便り No.5
スリランカは北海道の80%ほどの島に1900万人あまりが暮らしています。
大ざっぱにいって、「三つの民族」「四つの宗教」それに「二つの紛争」を抱えています。
シンハラ人は、インド北部のアーリア系民族の流れで、仏教徒。全人口の74%を占め、シンハラ語を話します。
タミル人は、インド南部のドラヴィダ系民族といわれ、ヒンズー教を信じています。言語はタミル語。人口の12%を占めます。
ムーア人は、北アフリカや中東から流れてきたイスラム教徒を指します。少数派です。
民族は、シンハラ人、タミル人、ムーア人の三つの民族。
宗教は、仏教、イスラム教、ヒンズー教、それにキリスト教の四つの宗教。
*キリスト教は、植民地時代の宗主国(ポルトガル、オランダ、イギリス)の置きみやげです。
それでは、「二つの紛争」とはなんでしょうか。
それは、「タイガース問題」と「仏教徒、イスラム教徒の抗争」です。
「タイガース問題」というのは、敗北の美学に溺れやすい阪神タイガースの問題点ということではありません。
「タミル・イーラム解放の虎(Liberation Tigers of Tamil Elam)」というタミル人武装勢力の存在なのです。“イーラム”はタミル語でスリランカの意味です。
島の最北部にある第二の都市ジャフナを拠点に活動しています。
LTTEは分離独立を求めて、20数年前から政府要人や政府軍に対して爆弾攻撃やゲリラ攻撃を続けてきました。北朝鮮からの武器供与も噂されています。
スリランカ北部一帯では、戦闘状態が収まらず、外国旅行者の立ち入りは禁止されています。
「仏教徒とイスラム教徒の抗争」もやっかいな問題です。
仏教徒とイスラム教徒の対立感情は歴史的なもので、ほとんどDNA化されているといってもよさそうです。
互いの寺院を襲ったり、焼き討ちにしたり、暴徒化した双方の勢力が衝突したりします。このためコロンボに夜間外出禁止令が出たこともありました。
最近、タリバンによって“バーミヤンの仏像”が破壊されて以来、両者の関係は一層悪くなったといわれます。
現在、この国を率いているのは女性大統領です。
チャンドリカ・バンダラナーヤカ女史(Chandrika Bandaranaike)です。
彼女は治安対策に手を焼いています。和平が進まないばかりか、治安維持費が国家財政を大きく圧迫しています。チャンドリカ政権は、この一年の間に消費税をはじめ諸税を20%以上引き上げました。
増税は物価の高騰を招き、国民は悪性インフレに苦しんでいます。
わがソーマワンサ先生も、学校の体育館建設が思うように進まないと、嘆いています。
「あの女は、酒ばかり飲んで、ろくなことはしない」。
チャンドリカがフランス留学中覚えたワインの趣味を揶揄して、手厳しく非難します。
かつてのスリランカは、ポルトガル、オランダに侵略され、最後はイギリスの植民地にされて、香辛料、宝石、ゴム、紅茶などの富を収奪されました。
現代のスリランカは、国内紛争によって貧困の鎖をはずせないまま、立ち往生しています。
日本人もスリランカ人も、優れた一政治家の名前をほとんど忘れています。
故ジャヤワルダナ(Jayewardene)元大統領です。
彼は大蔵大臣の時、サンフランシスコの対日講和会議に出席しました。
そこで、真っ先に“対日賠償請求権”を放棄して、戦勝国に寛大な精神を求めました。日本人にとっては大恩人なのです。
当時、彼は「アジア随一の外交官」と称賛され、その時のジャヤワルダナ演説は歴史的名演説と讃えられました。
「憎悪は憎悪によってやむことなく、愛によってやむ」。
“Hatred ceases not by hatred, but by love”
いまや、スリランカ人が、この言葉をかみしめなければならない時なのかもしれません。
スリランカ便り No.6
今回は、「スリランカ便り」ではなくて「モルディヴ便り」になりました。
私たちは、就労ビザが間に合わなかったものですから、観光ビザでスリランカに入国しています。ところが観光ビザの期限は一か月しかありません。
三ヶ月滞在するには、途中二回にわたりビザを更新しなくてはならないのです。
入国管理局に問い合わせますと、一人一回、3万円の手数料が必要だとのことでした。それに、事務手続きがややこしそうです。
そこでビザの期限更新を見送りました。
別の方法を考えたのです。うまい妙手が見つかりました。ビザの期限切れ近くになると一旦、第三国に出国し、短期間の旅行をしたあと再びスリランカに舞い戻るという方法です。
私たちは、この目的のために五月上旬と六月上旬の二度にわたって“モルディヴ”を訪ねバカンスを楽しみました。
“モルディヴ”は、スリランカの南西700キロに位置し、1200の珊瑚の島から成っています。「インド洋に浮かぶ真珠」とも呼ばれ、世界で最も美しい海のひとつです。
人が住んでいるのは、このうち200の島です。いずれも標高は海抜2m未満。首都の島は「マーレ」という小都市です。大統領府やモスク、警察などの建物が目につきます。このほか「飛行場の島」「工場の島」「刑務所の島」という風に用途別にわかれています。
リゾートとして開発されているのは70の島々で、一つの島がリゾート・ホテルだと考えていただければよろしいでしょう。すべて外国資本です。
リゾート地は、アルコールあり、ビキニありと、イスラムの戒律から解放された別天地です。モルディヴの外貨獲得の決め手になっています。
コロンボ発ドバイ行きのアラブ首長国連邦の航空機“エミレーツ”に乗って、途中のモルディヴまで50分のフライトです。
機内はアラビアンナイトの世界を想わせる不思議な雰囲気があります。
中には黒ずくめの装束に身を覆い、目だけギョロギョロさせたイスラム教徒の婦人たちも目につきます。
短い空の旅のあと、五月には「ヴィリヴァル」、六月には「ボリフシー」という島にボートで渡り、それぞれ5日ほど滞在しました。どちらも島を一周するのに10分とはかからない小さな島です。
島の周りの海は、熱帯魚の宝庫です。特に、海底が珊瑚礁から深海に落ち込むドロップオフという部分に魚が群がっています。
海に入るときには、まず水中メガネをかけます。次に、鼻と口にシュノーケル(忍者が水中で用いる竹筒状の管)をくわえます。最後にフィン(ひれ)を足につけて海に入れば、もう、お魚気分です。海に漂っているだけでも、数十メートル先の海中を見通せます。
数千匹のアジの大群が巨大な円筒状の渦を描きながら回遊していたのは壮観でした。多分、敵を威嚇するための行動なのでしょう。見ている人間だって鳥肌がたちそうでした。
二つの違った種類の魚が、数百匹の群れで組み体操をしているのも面白い光景でした。四角、菱形、三角と形を変えながら集団遊泳を続けるのです。
こんな魚の演技にみとれてしまいますと、とんだ失敗もします。
海から上がった妻が「気分が悪い」と訴えました。長い間波に揺られ、船酔いにかかっていたのです。
この美しいモルディヴの海で、見たくないものを目撃してきました。
それは「葬送の風景」といってもいいかもしれません。
島の周辺に群落を形成していた珊瑚が、かなり広範に枯れて死んでいたのです。
珊瑚が死ぬと、まるで人間の白骨のように見えて不気味なものです。
枯れた珊瑚には魚も寄りつきません。「お花畑」が「墓場」に変貌していました。
ここ数年、インド洋は異常な高温に見舞われたといいます。時には35度以上まで達したそうです。珊瑚は呼吸できなくなり、白化現象を起こしました。
地球の温暖化は、一方で南極の氷河を溶かしています。南極は世界の氷の95%を保存する地球の冷凍庫。この冷凍庫が溶けますと、モルディヴの島々はやがて海面下に消えていくのです。
地球破壊の悲しい現実を、この美しい海で目撃しました。
モルディヴは雨期でした。雨が多いとはいえませんが、季節風が強く波も高かったようです。そんな雨期にあっても、見事な夕焼けが見られました。
空も海も島も、夕日で真っ赤に染まりました。
美しい地球。かけがえのない地球です。
スリランカ便り No.7
コロンボの中心部に「奴隷島(Slave Island)」という地名があります。イギリス植民地時代の地名が平気で残されています。あらゆる歴史を甘受するという懐の深さなのか、単に「自由」の概念に対して鈍感なだけなのか、この国の国民性を計りかねています。
スリランカは
「民主社会主義共和国(Democratic Socialist Republic of Sri Lanka)」と呼ばれ、社会主義的な色彩を打ち出しています。
しかし、指導者は、バンダラナーヤカ(=バンダラナイケ)一族の世襲になっています。
独立の父と呼ばれたバンダラナーヤカ元首相が暗殺されますと、スリマオ夫人があとを継いで世界初の女性首相に就任。その後、政治体制がかわり、いまのチャンドリカ大統領はその娘です。
現政権は増税を繰り返していますが、国の財政は悪くなる一方で火の車です。日米の経済援助に支えられているものの、有効な打開策を見出せないでいます。
「発展途上」の冠づきで呼ばれる国から、なお脱却できそうにもありません。
長い植民地支配を受けたために、スリランカは後進国というイメージが根づいてしまっています。しかし、北海道より小さな島国なのに「世界遺産」が七つも登録されているのは驚きです。旧約聖書の時代には、当時の日本の及びもつかない高度な文明が栄えていたのです。
世界で初めての動物保護区が紀元前3世紀に作られたというお国柄です。
現在では国土の十分の一が動物保護区に指定されていて、野生動物の宝庫となっています。
スリランカのほぼ中央部にある古都キャンディー。その西30キロほどのところに「象の孤児院(Elephant’s Orphanage)」があります。親をなくしたり、はぐれたりした子象50頭あまりを保護しています。
子象を背景に記念撮影をしていたところ、チビの子象の鼻が伸びてきて、妻の日傘を巻きあげてしまいました。象使いのオジさんが懸命に取りあげましたが、心棒が曲がって使いものにならなくなりました。子象はいたずらが大好きなようです。子どもだからと、うっかりしてはいけません。
この子象たちの水浴びの時間があります。
観光客は、危険防止のため特設の観覧席から見物します。
50頭もの子象たちが小走りで坂道を降りてきます。子象の行進とはいえ、地響きをたてながら、すぐそばを走る姿は迫力満点です。
河に入って思い思いに水浴びを始めますが、遠くに逃げ出そうとする子象もいて、飼育係のオジさんたちが苦労しています。
スリランカは古代の「文化遺産」と手つかずの「自然遺産」の宝庫です。
観光だけでも立国できるほどの豊富な資源に恵まれています。
ところが、外国人がこの国で旅行しようとすれば、絶望的と思えるほどの不便と不自由を忍ばなくてはなりません。
空港、駅、バスターミナル、タクシー、通信手段、インフォーメーション。何一つ満足のいくものはありません。
入国したとたん、むき出しの自動小銃を手にした兵隊に監視されるのでは、顔が引きつります。
“ツーリスト・ハンター”と呼ばれる物乞いの人に、しつこくつきまとわれるのも迷惑です。
観光地周辺のトイレ事情を想像しただけで旅の意欲は削がれます。
この国は折角の資源を持ちながら、基礎的なインフラ整備がないのです。
すべての問題の根っこに「民族紛争」と「宗教紛争」があります。
治安対策の名目で税金は泡のように消えていきます。社会は活力を削がれます。
出自は申し分ないとはいえ、大統領のチャンドリカ・バンダナーヤカ女史にとって、手に余る問題のようにも思えます。
みずからの内紛を収束できない限り、この国はなお貧困に支配された「奴隷の島」から這い上がれない時代が続きそうです。
スリランカに来て不思議に思うのは、内戦が続いているというのに、人々が実に優しく温かいことです。よその国の災害にも心配して、乏しい財布から、すぐカンパを募っています。
外国人、とりわけ日本人に対する親愛と尊敬の念は強く、私たちが接したすべての人々の態度や言動からも疑う余地はありません。
その日本で起こった悲惨な事件がシンハラ語の新聞に掲載されました。
「大阪の池田小学校での殺害事件」です。
わがソーマワンサ先生は「日本は立派な国だと教えている。この事件はどう説明したらいいものだろう」と問いかけてきました。
私も、うーん!と唸りました。
これが、繁栄を誇る国の人間の所行なのでしょうか。
高度経済成長や科学技術発展の延長線上にユートピアはあるのでしょうか。
生半可な知識で、よそ様の国を批判するのは傲慢だったかもしれません。
自戒自粛の念にかられています。
スリランカ便り No.8
六月の十日を過ぎた頃から、朝夕はめっきり涼しくなってきました。スリランカにも季節の微妙な変化はあるものだとわかりました。熱帯といえども一本調子の夏ではなくて、朝夕に限っていえば、さわやかな秋もあるのです。
それにしても、日中の暑さは「熱さ」と表現したいぐらいです。
私たちが寄宿しているワルポーラ家は、早寝早起きの典型的なスリランカ人の生活です。早ければ午前二時、三時に起きます。遅くとも四時起床です。鶏も三度とは鳴いていません。
大人たちは家事やビジネスの準備。子どもたちは勉強です。午前中の涼しい間が勝負時なのです。その代わり、昼過ぎから夕方までは、力を抜いて生活します。用事のない人は昼寝かブラブラして過ごします。街角の軽三輪タクシーの運転手も、木陰に車を止め、口を開けて眠っています。道ばたの牛や犬も横になったままピクリとも動きません。誰も余分な精力を浪費しません。
寝室の窓からは、バナナの木々やリス、それに色鮮やかな小鳥たちが群れ遊ぶのがよく観察できます。
バナナの木は、よく衣替えをします。バラの樹が新しいシュートを出して伸びていくように、バナナも空に向かって大きなシュートを伸ばします。
直径7~8cmの太さで2mぐらいの円筒形。紙をクルクル巻いたような感じの薄緑色のシュートです。伸びきってしまうと、2~3日がかりで巻物が徐々に広がってバナナの葉っぱになるのです。新しい葉が開くと、下の古い葉っぱが自然にちぎれ落ちていきます。精妙な自然の摂理に魅せられました。
バナナの種類は豊富です。
「アナマル」というバナナは、直径3cm、長さ30cmもある大型で、熟しても色は緑色です。完熟したフレッシュ・バナナですから、日本で食べるものとは、香りも甘さも全然違うのです。
カリーの具になるバナナもあります。これは芋のような食感があります。
八百屋さんには、様々なバナナが大きな房のまま所狭しとぶら下がっています。
熱帯樹のなかで、バナナとともに目につくのが椰子の木です。
「ココナツ・パームツリー」は五階建てのビルほどの高さに成長します。
この実をとるのは、やはりプロの仕事です。力士のような分厚いふんどしを締めた痩身の男が、素手でスルスルと登っていきます。猿のような身軽さです。
7~8個の実をひねって下に落とすと、あっという間に降りてきます。
仕事を終えた男に近づきますと、何とも言えない殺気を感じますから、やはり命がけの仕事なのです。
一つの実には、大きなグラス一杯の甘い果汁が入っています。
白い果肉を絞ったココナツ・ミルクはカリーに欠かせないベースになります。
外側の固い殻の部分は、彫刻を施して飾り物、花活け、植木鉢になります。
椰子の葉っぱは編んで敷物にしたり、屋根をふいたりするのに使います。
何一つ無駄なところがありません。
椰子の木には、もう一つの種類「キング・ココナツ・ツリー」があります。
こちらは、ずんぐりした低木です。実は子どもの頭ほどもある大きさです。
そんな黄色の実が10個ほど束になって、房が垂れ下がってきます。
一個の実からグラス二杯分のジュースがとれます。ほのかに甘い香りがします。
これがお腹にとてもいいのだそうです。
夜露でひんやり冷えたこの果汁を、朝の食卓でよくご馳走になりました。
強い風が吹きますと、椰子の木は葉擦れを起こし、雨が降ってきたような錯覚を覚えます。
ある時、ふと気がつきました。
夕闇が迫ったワルポーラ家の庭に、どこからともなく蛍が飛んできました。
蛍の光跡をたどっているうちに、あっと驚く光景が目に入ってきました。
近くの木々が青白い光りにつつまれているのです。
無数の蛍が高い木々に群れ集まって光を放っています。
まるで光り輝く巨大なクリスマスツリーの出現。
それは、見たことのない神秘的な光景でした。
現地の人々にとっては、ごくありふれた現象なのかもしれません。
蛍狩りをする風流人も見当たりません。
私たちは帰国直前まで、気がつきませんでした。
蛍狩りといえば、私たちは目線を下に向けるのが当たり前だと思っています。
日本で見るゲンジ蛍やヘイケ蛍は、清らかな水辺に漂っています。
幼虫はきれいな小川に棲んでいます。
当地では違います。「所かわれば品かわる」です。
上を向いて歩かなければ蛍は目に入りません。
スリランカの蛍は、蝉のように土の中で幼虫時代をすごします。
土から這いだした蛍は、
まるで自由を求めるように上へ上へと昇っていくのです。
私たちのスリランカの旅にも「蛍の光」が流れ始めました。
世直しに情熱を傾ける快僧ソーマワンサ僧正。
温かくもてなしてくださったワルポーラ家の人々。
親切だったお巡りさんや兵隊さん。
そして、瞳が輝いていた学校の子どもたち。
別れを告げる時が近づいてきたようです。
この国が、国の名前にふさわしく
「Sri(光り輝く) Lanka(島)」となることを念じつつ。 [完]