アルザスの旅
紫垣 喜紀
はじめに
2012年6月12日の夕刻、エール・フランスの大型旅客機エアバスA-380がパリのシャルル・ドゴール空港に着いた。巨大な空港だ。入国審査を受けて荷物を受け取るまでに、無人電車や歩く歩道も利用して、結構な距離を移動させられた。
空港から高速郊外鉄道(RER)と地下鉄を乗り継いで、ラッシュアワーのパリ東駅にたどり着く。旅行用のスーツケースを抱えて雑踏に翻弄された。このパリ東駅から歩いて4〜5分のところに私たちのホテルがある。そこに6日泊った。
パリの後は、ドイツ国境に近いアルザス地方に宿を移す。ストラスブールに4泊。喧噪から逃れ「ゆとり」を味わった。ヨーロッパの旅、第二話は「フランスのアルザス編」である。
豊かな田園風景
6月18日、朝6時前に宿を出て駅に向かう。
雨。傘をさして旅行用スーツケースを引っ張る。妻のスーツケースの車輪が壊れたらしい。キーキーと音をたてて人気のない街に響く。飯場の軒下に雨ガッパをかぶった人が横になっている。肌寒い。足を早める。
明るい駅構内に入ると、湯気をたててコーヒー店が店を開き、パン屋も焼きたてのパンを売り出している。旅行客は、パンやコーヒーを買って早朝の列車に乗り込む。私たちは、華も毒もあるパリを離れ、素朴な田舎に向かうのだ。
パリ東駅から、フランス国鉄(SNCF)の誇る高速鉄道TGVがほぼ真東に向かって走る。500キロ先にあるアルザスの中心都市ストラスブール(Strasbourg)までを2時間20分で結ぶ。
私たちのように、ぼうっーと外を眺めている人はあまりいない。フランス国土の面積は55万平方キロ。日本の1.5陪。農作物を栽培する耕地面積は国土の35%を占める。日本のそれは国土の12.5%にすぎない。耕地面積だけを比べれば日本の4~5倍も広い。しかも人口は6300万人と日本のちょうど半分ほどである。
フランスは、食糧自給率が100%を大きく超える世界有数の農業大国である。食糧安全保障には何の憂いもない国のひとつだ。そんな数字を裏づけるような田園の風景が飛んで行く。列車は、途中ノンストップでストラスブール駅に滑り込んだ
ドーデの「最後の授業」
フランスの北東部、ライン河を挟んでドイツと国境を接するのがアルザス地方。人々は、かつて「アルザス語」を話していた。ドイツ語の方言のひとつである。
とは言うものの、ドイツ人からも完全な「ドイツ人」扱いをされなかった経緯もある。
「フランスであって、フランスでない。ドイツでもない」。
フランスの作家アルフォンス・ドーデ(Alphonse Daudet)の短編小説に『最後の授業』という一編がある。
フランスが“普仏戦争”に敗れ、アルザスはドイツに割譲される。明日からは、小学校でも国語の授業にフランス語を使ってはいけなくなる。
アメル先生は最後の授業に臨む。「フランス語が世界で最も美しく、力強い言葉である」と祖国愛を熱く語る。
教会の鐘が正午の時を打ち、プロイセン兵のラッパが響いてきた。アメル先生は真っ青になって教壇に立ち上がった。言葉が出ない。先生は黒板に向きなおると、白墨を手にとってありったけの力で大きな文字を書いた。「フランス万歳(Vive la France)!」。『最後の授業』のラスト・シーンである。
アルザス地方は、17世紀にフランスの王制下におかれたが、普仏戦争でドイツ領となり、第一次世界大戦でフランスに戻り、第二次世界大戦ではナチス・ドイツに占領され、戦後再びフランス領に編入された。仏独の抗争に翻弄され続けている。
木骨組みの伝統家屋
ストラスブールの旧市街地は、“イル川”の本流と支流に挟まれた大きな中洲の上に建てられている。
イル川はライン河の主要な支流のひとつ。町の見所はほとんどがここに集まっている。中洲の周りを一周するイル川遊覧船に乗れば、一時間余りで主な観光スポットを案内してくれる。
イル川が四つの小さな支流に分かれ再び合流する地帯は“プティト・フランス(Petite France=小さなフランス)”と呼ばれる。昔は、なめし革職人の居住区域だった。
アルザスの伝統家屋が密集し、街区丸ごと世界遺産である。街じゅうに四階建て、五階建ての“木骨組の家”が軒を連ねる。
これらの伝統建築は、日本の木造建築とは構造も外観も違う。日本建築は柱と梁で建物を支える。
アルザスの木骨建築は、縦横斜めの木骨と木骨の間にレンガや砕石を詰め、漆喰で固めている。この「壁」が建物の重量を支える。
外観も日本建築と違い、斜めの木も生かして縦横斜めの幾何学模様を演出している。屋根は切り妻が多い。
中世のヨーロッパでは、家屋にかかる税金が一階の建坪で決められていたという。そこで、二階、三階と上に建物を積み上げて節税した。“木骨組み建築”はこうして編み出されたといわれる。
なかには、階を重ねるごとに、少しずつ外側にせり出している建物もある。よほど節税、脱税に執念を燃やした商家のようだ。
表紙の写真は、イル川沿いに並ぶ木骨組みの建築群である。中央の家屋は、その昔、革(かわ)なめし工場だった。
イル川遊覧船は満員。100人以上乗っていただろう。船内では、仏語、独語、それに英語のガイド・サービスがある。音響を考えてか、天井がガラス張りになっている。
私などは、何を聞いても薄ぼんやりとしか耳に入ってこない。昼下がりの直射日光が射しこんできて暑い。
船は時折運河を通過する。水門を閉じて水位を調整。水門を開けて別の水路に進む。その作業が面白くて退屈しない。
旧市街地を離れ、イル川を郊外へ進むと、総ガラス張りの現代建築に出会う。これは“欧州議会”の会議場。
“EU(欧州連合)”の立法機関である。EUの主要機関が仏独抗争の地ストラスブールに置かれたのには理由があるのだろう。EUの中軸たるべきフランスとドイツが手を握った。その和平の象徴としたかったに違いない。
ノートルダム大聖堂
古都ストラスブールの誇るもうひとつの世界遺産が“ノートルダム大聖堂”(Cathedrale Notre-Dame de Strasbourg)である。地上142mの美しい尖塔は、高い建物が少ないストラスブールにあって、際だったランド・マークになっている。
尖塔の高さもさることながら、このカソリック聖堂の驚異は、西側正面の「壁」にある。
数千の、いや無数の彫刻で覆われている。聖書物語や最後の審判が描かれているのだろうが、一々識別していられない。巨大にして繊細。細かくひしめくように施された彫刻群。この「壁」の前に立つと威圧される。ゲーテもヴィクトル・ユーゴも、誰もが脅威を覚えた。パリのノートルダム大聖堂にも感じられない迫力がある。凄味を加えているのが「壁」の色合いだ。
聖堂の屋上に登る螺旋(らせん)階段がある。329段。
息を整えながら、一気に登る。身体を壁に寄せながら、降りてくる人とすれ違う。息をはずませて屋上に出る。地上100m。遮るものもなく360度のパノラマ。
屋上に教会のおじさんらしい人がいる。声をかけてみた。
おじさんは、プイとそっぽを向いて作業小屋に隠れてしまった。英語嫌いなのだろうか、発音が悪かったのだろうか。
多分、その両方だったのだろう。仕方がない。自分で見つけよう。あれがヴォージュ山地だろう。ドイツの黒い森は見えるのだろうか。風が吹き抜けてゆく。
聖堂前の広場では…
ストラスブール随一の観光ポイントとあって、聖堂前の広場は昼も夜も大賑わいである。
ヨーロッパの日没は遅い。午後10時になってもまだ薄明かりが残っている。空の光が弱くなっていくこの頃から、聖堂では内外から大小の照明があてられ、ライトアップが始まる。
やがて、光に包まれた“ノートルダム大聖堂”が闇の中に浮かび上がる。ライトアップを見ようと、昼にもまして観光客が集まってくる。
聖堂前の広場には、沢山の椅子とテーブルが並べられ、レストランの屋外テラスになっている。人々はジョッキやワイングラスを傾けながら、陽気に光のページェントを楽しんでいる。
アルザスを初めてフランスの支配下においたのは、ルイ14世であった。1681年の秋のことである。
ルイ14世といえば、「太陽王」「朕は国家なり」「王権神授説」と冠には事欠かない豪腕のフランス王。ブルボン王朝の栄華を誇る“ヴェルサイユ宮殿”を建てた王としても知られる。
しかし、大聖堂は、フランスが支配するずっと前から存在していたのである。
最初の聖堂は、1015年ごろロマネスク様式の聖堂として着工されたが、木材を大量に使っていたため消失崩壊してしまった。その時の土台を利用して、現在のゴシック建築に着手したのが1276年。最終的に尖塔が完成したのは1439年であった。
ヨーロッパ文化は「石の文化」とも言われる。石造りの建物が完成するまでには、気の遠くなるような手間暇がかかっている。驚くばかりである。しかも数百年たってもビクともしない。石造建築の堅牢さには舌を巻く思いがする。
タイム・スリップ
ここで、時空を超えて歴史を過去に巻き戻してみたい。
“1770年5月某日”。その日、大聖堂の前でどんな出来事があったのだろうか。架空の実況中継風に描写してみることにする ・・・・・・・・・・・・・・
アナ「こちらはノートルダム大聖堂前の広場であります。市長も、司教も、貴族の方々も、直立して、午後3時のご到着をお待ちしております。群衆は昼前から続々と広場につめかけました。群衆の波は広場を埋め、市街地にどんどん広がっています。押し合う群衆を、馬に乗った兵士が怒鳴りつけて蹴散らしております。」
〜遠くで祝砲の音、教会の鐘の音〜
アナ「祝砲が聞こえました。間もなくご到着のもようです。ストラスブールのすべての教会の鐘の音が交錯して鳴り渡っています。大聖堂にとまった鳩の群れが、一斉に五月の空に舞い上がりました。」
〜遠くの群衆から歓呼の声があがっている〜
アナ「行列の先駆けが広場に入ってきました。銀色の兜に槍をかざした騎馬隊があらわれました。続いて軍楽隊。その後から馬車が次々に入ってきます。」
〜歓呼の叫びが怒濤のように押し寄せてくる……
「王女マリー・アントワネット、万歳!」〜
アナ「いよいよオーストリア王女のご到着です。ガラス張りで金色に縁どられた六頭立の馬車。スイス親衛隊の少年兵が馬車につき添っております。馬車が大聖堂の正面に止まりました。14歳の可憐なマリー・アントワネット王女。優雅な身のこなしで絨毯を踏まれました。微笑んでおられます。嵐のような歓声にも臆せず、無邪気に楽しんでおられるご様子です。」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アナ「王女は市長、司祭、貴族の方々から次々にご挨拶を受けられておられます。この後、王女は晩餐会、観劇会、舞踏会と深夜まで続く歓迎行事に臨まれます。ストラスブール市は、今夜、花を飾り蝋燭を灯した船をイル川の水面に流し、歓迎の意を表すことにしています。時刻は間もなく午後4時になります。大聖堂前広場から、マリー・アントワネット王女歓迎式典の模様をお伝えしました。」
政略結婚
フランスとオーストリアは、長い戦争に明け暮れていた。戦費はかさみ、民衆は重税にあえいだ。消耗するだけの愚かしさに、両国はやっと目覚めた。イギリスや新興国のプロイセンとも対抗しなければならない。両国が同盟する証として、フランス国王ルイ15世の“孫”と、オーストリアの女帝マリア・テレジアの“末娘”との婚儀が整えられたのである。女帝マリア・テレジアについては、一言説明がいる。
彼女は、度重なる戦争と多忙な政務の合間をぬって16人の子どもを設けた。男子5人。女子11人。マリー・アントワネットは、15番目の子どもで末娘である。彼女は、ウイーンからストラスブールをへてパリ郊外のヴェルサイユ宮殿に向かっていた。
ノートルダム大聖堂は、そんな歴史の目撃者でもある。
建築の豆知識
“ノートルダム大聖堂”というのは、パリにしかないものだと思い込んでいた。ナポレオンの戴冠式やヴィクトル・ユーゴの小説『ノートルダム・ド・パリ』でよく知られているからだ。ところが、ストラスブールに来て、ここにもノートルダム大聖堂があるのに驚いた。いま、己(おの)が不明を恥じている。 ノートルダム(Notre Dame)は「われらが貴婦人」という意味である。だから、貴婦人の中の貴婦人、つまり聖母マリアに捧げられたものが、ノートルダム大聖堂ということになる。どこにあっても不思議ではない。
天を突くような尖塔、巨大な内部空間、その空間を満たすステンドグラスからの神秘的な光。ゴシックと呼ばれる建築様式で建てられているのが特徴である。
“ゴシック様式(Style Gothique)”は、12世紀から15世紀にかけてフランス北部の都市に発達した建築様式である。
屋根の重量を“柱”に吸収させる新技術が開発されたために、“壁”にかかる重さが軽減され、天井を高くし、窓を広くとることが可能になった。これがステンドグラス(Vitrail)の発達を促した。
聖堂には、正面入口の上部に必ず円形の大きな窓が設けられている。この円形窓にはめられたステンドグラスを「バラ窓」と呼び、ここから差し込む光は神が照らす光として捉えられた。
パリ、ストラスブール以外にも、有名なノートルダム大聖堂がある。いずれもフランス北部にあって世界遺産。
“ランスの大聖堂”;フランス国王25人が戴冠式を行った格式随一の聖堂。20世紀の大修復の際、シャガールがステンドグラスを寄進した。
“アミアンの大聖堂”;フランス最大規模の聖堂。奥行き145m。天井の高さ42.5m。
ワイン街道を行く
アルザスは、ボルドー、ブルゴーニュなどと並ぶフランス有数のブドウの産地として知られる。イル川に沿った南北170kmにわたりってブドウ畑が続き、ワイン造りで有名な村が点在する。観光ルートになっていて“ワイン街道”と呼ばれている。
私たちは、ストラスブールから列車で30分のところにあるコルマール(Colmar)の町を訪ね、駅前の旅行業者の事務所で“ワイン街道ツアー”を申し込んだ。
日本語を話すフランス人のクロード・ジョンさんが、ガイド兼ドライバーとして案内してくれる。8人乗りのワンボックスかーに、私たちお客4人が乗り込んだ。
コルマールの町を出ると、ブドウ畑が延々と続く。フランス最北部、寒冷地の畑なので、ブドウの樹は、せいぜい人の背丈ほどの高さしかない。広大な畑の中に、ワイン造りの三つの村を訪ねた。どの村も10分も歩けば畑に出てしまう小さな集落である。家屋はアルザス伝統の木骨組みの家。窓辺、庭、歩道…そこかしこに飾られた色とりどりの花々。絵本から飛び出してきたような可愛らしい風景だ。
リクヴィルは(Riguewihr)、村の人口より多い観光客であふれている。「ブドウ畑の真珠」といわれ人気が高い。
カイゼルスベルク(Kaysersberg)は、アフリカで医療伝道に生涯を捧げたシュヴァイツァー博士(Albert Schweitzer)の故郷。記念館を訪ねたが、閉館していた。
テュルクハイム(Turkheim)には、観光客が殆どいなかった。
村役場にさしかかった時、案内役のジョンさんが屋根を指さす。大きな鳥の巣があって、動くものがいる。“コウノトリ”だ。白と黒の羽。赤い脚。二羽いる。親子らしい。広場では、ベンチに座ったお婆さんたちが談笑している。人と自然が共存する平和な村々だ。
テイスティング
カイゼルスベルクでは、街道沿いの“ワイン・ショップ”に入った。試飲したうえで好みのワインを買えるお店である。美人のソムリエがにこやかに迎えてくれた。白ワイン6種類と赤ワイン1種類をテイスティング(試飲)する。
アルザス・ワインは「白」が主流だ。ドイツの甘口の白ワインに比べ、辛口のすっきりした味わいが持ち味なのだそうだ。数ある「白」の中でも、“リースリング(Riesling)”というワインのキリッと引き締まった味わいは、素人の舌にも響いてきた。「アルザス・ワインの王様」と呼ばれる。アルザスの赤ワインは“ピノ・ノワール(Pinot Noir)”だけ。軽くて爽やかな赤。
私は、重くて強いフル・ボディーの赤が好みなのだが、爽やかな赤の喉ごしも悪くはない。根が融通のきく性格なのだ。
アルザスの味
ガイドのジョンさんが美人ソムリエと楽しそうに話している。“アルザス語”で話しているという。「アルザス語をまだ使っているのですね」と感心して尋ねた。
「小学生や中学生はもう喋れません。彼らはフランス語だけです」との返事が返ってきた。『最後の授業』のドーデ。天国でほくそ笑んでいるに違いない。美人ソムリエは、故郷自慢のワインを語るのが楽しそうだ。「アルザス・ワインに合うのは、やはりアルザス料理。“シュークルート(Choucroute”)が一番よ。」と念を押された。いい気分で店を出た。美女と美酒に酔ったらしい。
ワイン街道の日帰りツアーを終え、夕刻、列車でコルマールからストラスブール駅に帰る。日はまだ高い。これから夕食だ。イル川に面したアルザス料理のレストランに急行する。メニューはいらない。目指すは“シュークルート”。
二人で一皿を注文する。取り皿を持ってくるように頼んだ。発酵させた塩漬けキャベツ(ザウアークラウト)を豚肉の塊(かたまり)や腸詰とともに煮込んだアルザスの代表的料理。意外なほどあっさりした味で、しつこくない。舌音痴の私も、そうでない妻も、その一品に満足した。それに、一言つけ加えておきたい。白ワインの“リースリング”を注文するのも忘れなかった。アルザスの美人ソムリエに乾杯! [完]
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