バイエルンの旅

はじめに

2012年の6月から7月にかけて、久しぶりに海外を旅行した。エール・フランスのA380が向かう先はパリ。

フランスを手始めに、スイス、オーストリア、ドイツの観光地を転々として、一ヶ月の気ままな旅を楽しんだ。そのヨーロッパ旅行から、思いつくままに旅行記を綴ることにする。

この旅の最終地はドイツのミュンヘン。そこに九泊した。

ミュンヘン中央駅に五分で行ける駅前ホテルに宿をとり、宿を根城にドイツのバイエルン地方(南東部)を列車で行き来した。

ヨーロッパの旅、第一話は「ドイツのバイエルン編」である。

バイエルンとは    

バイエルン(Bayern)はドイツ南東部に位置する州で、オーストリアやチェコと国境を接する。その中心都市が州都ミュンヘンである。

ビールとソーセージを手に、陽気に歌うドイツ人のイメージが一番似合うのがバイエルン地方だと言われる。

ミュンヘンから南側、オーストリア国境に至る山岳地帯は、ヨーロッパアルプス山脈に連なっている。ドイツの高い山はこの地域に集中している。

白鳥のお城へ     

それでは、ミュンヘンからまず進路を南に向けてみよう。ドイツ鉄道(DB)の快速列車(RE)が、森と湖の豊かな山岳地帯に向かって軽快に高度を上げていく。二時間ほど走ってフュッセン(Fussen)の駅に着く。フュッセンはドイツ・ロマンティック街道のフィナーレを飾る小さな町である。

町のツーリスト・インフォーメーションで地図とバスの時刻表を確かめたあと、スーパー・マーケットでサンドウィチとジュースを買う。質素ながら私たちの昼食はこれだ。

目指すのは「白鳥の城ノイシュヴァンシュタイン城・Schloss Neuschwanstein」である。

バスを乗り継いで、お城の登り口までたどり着く。

残念なことにお城の外観の半分は、修復用の足場が組まれ、覆いがかけられていた。

このお城を眺めるには、少し歩いてペラート峡谷にかかるマリエン橋(Marienbrucke)の中央にいくのが一番だとされる。

マリエン橋には観光客がすずなりだ。窮屈な姿勢でカメラをお城に向けている。

修復用の覆いもここからは見えないように配慮されていた。

だれもが絵葉書そっくりの構図を写真に収めることが出来る。

おとぎ話に出てくるような「ノイシュヴァンシュタイン城」。

ディズニーランドにつくられた「眠れる森の美女のお城」のモデルとしても知られる。

城下には、遙かなる森や湖が箱庭のように広がって見える。

国王のお遊び     

 このお城は中世風の城郭ではあるが、バイエルン国王ルートヴィッヒU世Ludwig U)によって19世紀後半に建築された。

彼は王妃も迎えず、孤独で数奇な運命を辿ったといわれる。

奇人、変人というより狂人に近い。

中世騎士道への憧れを強く抱き、それを具現すべくロマンティックなお城の造営を決意する。

彼は、「歌劇王」の別名をもつリヒャルト・ワーグナーRichard Wagner)の狂信的な崇拝者であり、異常なまでにオペラに取り憑かれた王として伝えられている。

城内の壁画には歌劇「ローエングリン」や「タンホイザー」などの名場面が描かれているという。

お城の名前「白鳥城」も、歌劇「ローエングリン」の白鳥伝説に由来する。

1869年の秋に着工、17年の歳月と巨額の費用をつぎ込んだ。

1886年には居住できる程度にはできあがった。

実用価値などなにもなく、ただ自己の夢を実現するために精魂を傾けた白亜の美しいお城。ルートヴィッヒU世は、早速この城に移り住むのだが、やがて運命が暗転する。

湖に映るふたつのお城 

 私たちは、歌劇の名場面が描かれているという城内には入らず、

お城の麓に広がるアルプ湖(Alpsee)を一周することにした。

湖には泳いでいる人や甲羅干しをする人の姿も見られた。

湖畔を半周ほどすると、二つのお城が湖越しに姿を現してくる。小さく見えるのは、遠方にあるノイシュヴァンシュタイン城

近くに見えるもう一つのお城は、ホーエンシュヴァンガウという名前のお城(Schloss Hohenschwangau)である。

ルートヴィッヒU世は幼少時代から、このホーエンシュヴァンガウ城で何不自由なく過ごした。新たにノイシュヴァンシュタイン城が建設されている間も、このお城から作業の進み具合を見守っていたという。ここには、ワグナーが演奏したピアノが音楽室に置かれている。国王は、ワグナーを庇護する有力なパトロンであり、厖大な援助を惜しまなかったという。

世界一美しいお城の見物!!

そう高を括っていた私は、バイエルン国王ルートヴィッヒU世と作曲家ワグナーとの浅からぬ因縁を知り、強く興味を引かれた。

アルプ湖の水面を伝って涼風が渡ってくる。

湖畔のベンチは涼しくて心地が良い。湖面に映る古いお城に目を落としながら、ジュースで喉を潤す。旅行記を書くなら、「ワグナー」がキーワードの一つになると、ふと思った。

国王の死は藪の中   

ルートヴィッヒU世は、最後に謎の死をとげる。

彼の金銭感覚は、とにかく尋常ではなかった。

ノイシュヴァンシュタイン城の建設費用は、王室費でまかなわれ、バイエルン政府の国庫とは一応別会計になっていた。しかし、王室公債を無制限に乱発して、危機的に債務が累積されていった。

彼は、巨額の信用貸しを政府に求めたが、拒否される。

しかも、ノイシュヴァンシュタイン城より高い岩山に、さらに壮大な城を築く計画まで進めようとしていた。

バイエルン政府は、乱脈な王家の出費がやがて国家財政を脅かす懸念があると危ぶんだ。

やがて、ルートヴィッヒU世に退位を求める。

精神鑑定にかけ統治不能と断定して、鉄格子をはめた古い城に幽閉した。翌日、近くの湖の浅瀬で国王の遺体が見つかった。

真相不明のまま謎の死をとげたのである。

自己の夢を実現した「中世の城」。そこに留まったのは、わずか100日あまりであった。

国王の死とともに、ノイシュヴァンシュタイン城は未完成部分を多く残したまま、工事が中断された。

同時に、お城は一般に公開された。

かつてバイエルン国の財政を揺るがした美しい白亜の殿堂。

130年近くの歳月をへて、いまでは、ドイツ・バイエルン州随一の観光資源として、多くの観光客を集めている。

音楽界の巨魁   

 ここで、作曲家、リヒャルト・ワグナーRichard Wagner)について、ひとこと筆を入れておきたい。

随分前に歌劇「トリスタンとイゾルデ」を観たことがある。

いや、正確に言えば、メトロポリタン歌劇場の映像記録を映画館で見たのである。四時間近くの大作だった。

歌劇の解説書によれば、「全曲にあふれる官能の描写は空前絶後の見事さである」とあった。

しかし、その音楽になじめなかったばかりか、舞台の動きが単調にすぎて、すっかり退屈したのを覚えている。

私の鑑賞力はこの程度のものであって、とてもワグネリアンになれそうにもない。

 百科事典を頼りに、プロフィールを記してみよう。

ワーグナーは、18135月、ザクセン王国ライプティヒに生まれる。「歌劇王」の別名で知られる作曲家、指揮者である。

「ローエングリン」「タンホイザー」「さまよえるオランダ人」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ニーベルングの指輪」

「パルジファル」などの作品がある。

音楽のみならず、文学、哲学、社会思想まで、19世紀後半のヨーロッパに広く影響を及ぼした中心的文化人の一人である。

かんばしからぬ評判  

 この音楽界の巨人は、極端にあくの強い性格から、敵対者も多く、こと「人格」に関して、はかばかしい評判を残していない。

その評判記のいくつかを並べたててみよう。

ワーグナーは、作品でも私生活でも「女性による救済」を求め続けたせいか、数々の不倫を含む多彩な女性遍歴に彩られている。

最初の妻は女優のミンナ・プラーナ。次第に不仲になり別居。ミンナが病死したあと、作曲家リストの娘コジマ(Cosima)と再婚している。コジマは、既に結婚し二人の子どもをもうけていたが、離婚してワグナーの許に走った。

 哲学者のニーチェは「彼は人間ではない。病だ」と書き残している。自己中心でわがまま、嘘を平気でついたという。

ワーグナーは「自分は音楽史上まれにみる天才だ」と公言して憚らなかった。超のつく自信過剰家。

自作を絶賛した手紙を、偽名を使って新聞社に送りつけたことも知られている。

常軌を逸する浪費癖の持ち主で、支援者に借りた多額の借金を踏み倒し、夜逃げ同然の逃亡を繰り返したといわれる。

個人旅行に専用列車を仕立てるなど、スケールは超弩級。

ドイツの音楽雑誌に「音楽におけるユダヤ性」と題した反ユダヤ主義の論文を発表した。この中で、メンデルスゾーンらを対象に「金銭づくのユダヤ人に真の芸術創造は出来ない」と非難。音楽に対するユダヤ人の影響力を激しく弾劾した。

この反ユダヤ思想は、ヒトラーがワグネリアンだったこともあって、後にナチスのユダヤ人弾圧に利用されることになる。

現在でも、イスラエルではワグナーの作品を演奏するのは殆どタブーに近いという。

音楽祭の町バイロイト      

バイエルン州には、ワグナーゆかりの「音楽祭の町」がある。

普段は何の変哲もない静かなドイツの地方都市バイロイト(Bayreuth)は、毎年7月から8月にかけて、ワグナー音楽祭のシーズンになると、世界中から10万人といわれるオペラファンが訪れ、様相が一変するといわれる。

その中心舞台になるのが「バイロイト祝祭歌劇場(Wagner Festspielhaus)」。

ワグナーが、彼自身の作品を公演するために建設した専用歌劇場である。

ワーグナーは1872年、バイロイトに移住して劇場建設を始め、1876年に完成した。

26年をかけて作曲した「ニーベルングの指輪」が華々しく上演された。演出はワグナー自身が受け持った。

劇場建設と完成後の劇場運営には、ワグナー信者でバイエルン国王ルートヴィッヒU世が全面的に援助した。あのノイシュヴァンシュタイン城を作った国王である。

頑固なワグナーは、有力パトロンの国王から厖大な援助を施されながら、作品に口をはさむことを許さなかったという。

ワグナー最後の作品は「パルジファル」である。

この劇場の特殊な音響効果を配慮して作られ、バイロイト以外での上演を禁じたといわれる。

音楽祭はナチスの国家行事に 

ワグナーは、18832月、ヴェネチアを旅行中に客死。遺体はバイロイトにある自宅裏庭に埋葬された。

ワグナーの死後、「バイロイト音楽祭」(祝祭劇場の運営)は妻のコジマと息子のジークフリート(Siegfried)に引き継がれていく。

そこに一人の政治家が登場する。

熱心なワグネリアンだったアドルフ・ヒトラーだ。晩年のコジマを訪ねて面会した。ワグナー家とヒトラーとのかかわりが生じたのである。

コジマが亡くなり、息子のジークフリートも急逝すると、「音楽祭」の主宰者がまた代わることになった。

未亡人になったジークフリート夫人ヴィニフレート(Winifred)は、女手一つで劇場の切り盛りしなければならなくなった。

彼女は急速にアドルフ・ヒトラーに接近する。

ミュンヘンで投獄されていたヒトラーに差入れをして献身的に尽くした。「わが闘争」の執筆の手助けもした。

ワグナー家の邸宅は、ヒトラーお気に入りの休息所になった。

二人は結婚するだろうと噂が流れるほど親しくなったという。

こうして、彼女は強力な権力者のパトロンを見出した。

やがて「バイロイト音楽祭」は、ナチス・ドイツの国家的行事の頂点を飾るオペラ興行へと変貌していった。

荒天でバスが運行中止 

 オーストリアとの国境に近い山の頂に「ヒトラーの山荘」があるというので、出かけることにした。

山荘に向かう基点になるのは、雄大な山々に囲まれたベルヒテスガーデン(Berchtesgaden)という小さな町である。

地図には、この町にもドイツ鉄道の駅がはっきり記されている。しかし、ドイツ鉄道の本線とは接続していない盲腸線であることがわかった。仕方がないので、一旦オーストリアに入って山荘に向かうことにした。

ミュンヘンから東のザルツブルグまで列車で一時間半。駅前からバスに乗のり、南に45分走ってベルヒテスガーデンに着いた。

そこから、さらにバスを乗り継ぐのだが……。

さて、その山に向かうバス乗場がわからない。

立ち往生していると、年配のイギリス人夫婦が手伝ってくれた。

「ヒトラーの山荘に行きたい」と告げると、ご主人が情報を集めに小走りに駆けていった。

待っている間、奥様に「オリンピックが楽しみでしょう」と水を向けてみた。

「とんでもない。騒がしいばかりで落ち着かない。また、こちらに来たいわ」と笑って肩をすくめていた。

ご主人が気の毒そうな表情を浮かべながら帰ってきた。

「山頂付近の天候が悪いので、バスは運行が中止になっている」と告げてくれた。

私たちは、お礼を述べて、行き先を変更することにした。

霧の漂うケーニッヒス湖 

 ベルヒテスガーデン駅前からバスで10分ほどのところに、「ケーニッヒス湖(Koenigssee)」がある。

そこに行くことにした。山に囲まれた静かな湖。

その日は、湖面に薄く霧が漂っていて幽玄な趣がある。

細長い湖を遊覧船で一時間ほど行くと、赤い屋根の「聖バルトロメ僧院」の建つ陸地に到着する。その途中、ちょうど湖の真ん中あたりで遊覧船はエンジンを止める。

船上でトランペットが吹かれると、切り立った岸壁にこだまして、実際の音よりもっと澄み切った響きとなってはね返ってくる。

私たちは遊覧船を降りて、聖バルトロメ僧院周辺の水辺と緑の森の小径をゆっくり散策した。

 代表的な日本画家、東山魁夷もこの湖に魅せられた一人だ。

ベルリン留学時代、二度、湖を訪ねている。

「南バイエルンの山湖(やまうみ)

切り立った岩山に囲まれて

その水は、静かに澄み切っている」

ケーニッヒス湖の幻想的な風景をカンバスに切りとった。

還暦を過ぎて、魁夷は再びドイツ巡礼の旅に出て感動した。

30数年前の自然がそのまま残されていたのだ。

ケーニッヒス湖は、今でもドイツで一番綺麗な湖だと宣伝されている。徹底的な環境保全策がとられ、ガソリン・エンジンをつけたボートの使用は禁止されている。

ヒトラーの山荘へ   

 日を改めて、私たちは再び「ヒトラーの山荘」を目指した。

ミュンヘンから列車でオーストリアのザルツブルグへ。ザルツブルグ駅前からバスでベルヒテスガーデンまでは、前にたどった道順である。

さて、問題なのは、ここから「山荘」に向かうバスが運行されるかどうかである。

ヒトラーの山荘ケールシュタインハウス=Kehlsteinhaus)」は、海抜1881mのケールシュタイン山の山頂近くに立っている。山頂付近の天候が良くないとバスは運行されない。

幸い、下界の天気はほぼ快晴。視界は良好で周りの山々がくっきりと見渡せる。やはりバスは運行されていた。

路線バスに乗って、山麓のオーバーザルツベルク(Obersalzberg)で下車する。

これから先、標高1700mにある広場、ケールシュタイン・パークプラッツ(Kehlstein-Parkplatz)まではヘアピンカーブの続く山岳道路になる。一般車両の乗り入れは認められていない。赤い車体の専用シャトルバスに乗り換える。

観光客を満載した五台のバスが発車。途中、道路が拡幅されている場所があって、下ってくるバスの車列とすれ違う。

20分で広場に着く。

 岩山をくり抜いたトンネルに入って歩くこと五分。広いホールに出る。エレベーターに乗り込む。一気に124mを昇ると山荘ケールシュタインの内部に出た。観光客であふれている。

絶景!鷹の巣からの眺め 

ヒトラーの山荘ケールシュタインハウス=Kehlsteinhaus)は、ヒトラーの側近中の側近、マルティン・ボルマン(Martin Bormann)が、ヒトラー50歳の誕生日プレゼントとして建てさせたティー・ハウスである。ボルマンは、ヒトラーへの政治献金の取扱いを任されていて、忠誠心を示すための計画だったようだ。自腹を切って献上したわけではない。

 山荘の内部には、ムッソリーニから贈られた大理石の暖炉や

エバ・ブラウンの部屋と呼ばれる部屋もある。

124mを一気に昇る大型エレベーターの内装も豪華だが、縦坑を掘るのに作業員12人が犠牲になった難工事にも驚かされる。

この山荘、独裁者のお気に召したのだろうか。

側近が気をきかせて造った山荘に、ヒトラーが訪ねたのは10回ほど。多くの場合30分もたたずに引き上げていったという。

折角の高価な貢ぎ物も、期待したほどのくすぐり効果をあげなかったようだ。

一説には、ヒトラーは高所恐怖症だったという見方もある。

ナチス政権が崩壊したあと、占領したアメリカ軍によって山荘は「鷹の巣Eagle’s Nest)」と命名された。

山荘の内部はレストランに、外側は屋外ビアホールに改装された。

建物の一角に、建設当時の写真などが展示されている。しかし、ヒトラーの写真の掲示は避け、ナチス残党やネオ・ナチスの聖域にならないように慎重な配慮がなされている。

訪れる観光客には、アメリカ人、イギリス人、カナダ人が多いという。ここからの眺めは素晴らしい。

山の裾野から時折、雲が湧き上がり私たちを包んでは消えていく。

海抜1800mのテラスから、ベルヒテスガーデンの町並み、ケーニッヒス湖、遠くアルプスの山々を望める。まさに息を飲むほどの絶景である。

急変する山の天候   

 山頂付近からの眺めを満喫したあと、エレベーター乗場の長い列に並んだ。午後2時のバスに遅れないように、エレベーターを降り、トンネルをくぐって広場に出て驚いた。山がすっかり雲に覆われ、切り立った断崖のうえにある山荘も見えなくなってしまっている。

遠雷が聞こえた。すると広場にいた人々が一斉に屋根のある建物に走り始めた。私たちもそれに続く。近くで激しい雷鳴が響き渡ると、大粒の雨が地面を叩き、たちまち視界が閉ざされた。

そこに5台のシャトルバスが到着。新たな観光客がバスを飛び降りて軒下に駆けこむ。代わって、私たちが大慌てでバスに飛び乗った。バスは動くのだろうか。不安がかすめる。

雷雨の中をバスはゆっくり動き始めた。いくらも走らないうちに、視界がぱっと開けた。雲海を抜けたのだ。バスはスピードを上げる。

麓のオーバーザルツベルクには強い日射しがあった。山の天気は猫の目のように変わる。あっという間に変わる。

夢の跡!総統大本営

  山荘の麓、オーバーザルツベルクには、山荘より重要なヒトラーの拠点があった。別荘「ベルクホーフ(Berghof)」である。

ヒトラーは、ある日、避暑に訪れた別荘がすっかり気に入り、著書「わが闘争」の売上を元手に買い取ったという。

別荘には、多くの管理人、コック、庭師、家政婦をかかえ、小さなリゾートホテルの観を呈したという。

やがて別荘は「ベルクホーフ」と呼ばれるようになった。

ベルクは「山」、ホーフは「王宮」の意味である。

第二次世界大戦に入ると、周辺に滑走路や親衛隊の施設が増設され、巨大な複合施設に変わっていった。

ヒトラーは多くの時間をここで過ごし、別荘は「総統大本営」として、ベルリンに次ぐ第二の政府所在地とも言われた。

 終戦直前、山荘はイギリス空軍の爆撃で破壊された。連合軍進駐の直前、ヒトラー親衛隊によって火がかけられ廃墟になった。

その後、残骸の大半は撤去され、埋め立てられた。

ネオナチの聖地になるのを避けるための措置であった。

別荘の跡地は、ほとんどが木立におおわれ、総統大本営を偲ばせるものはない。狂人どもの夢の跡である。

ヒトラーの生い立ち

「国家社会主義ドイツ労働者党」

Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei

どんな社会主義の政党なのだろうか。

実は、ナチス(=ナチ党)の正式名称がこれである。

党名の冒頭「National…」の初め2音節を同音異字に綴りかえた呼び方で、当初は敵対勢力がつけた蔑称「Nazi(ナチ公)」の意味で使われていた。

それが、複数形となった「ナチス(Nazis)」は、やがて「ナチ党」の意味で使われるようになっていく。

党首は、言わずと知れたアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler

悪魔的なナチズムのイデオロギーを実践した男である。

 ヒトラーは、18894月、ドイツ国境に近いオーストリアのブラウナウで生まれた。

青年時代から父親と反りが合わなかった。父親が当時のオーストリア・ハンガリー帝国を支持したのに対し、ヒトラーは「大ドイツ主義」に傾いていった。「大ドイツ主義」とは、ドイツとオーストリアを統一した帝国の建設構想のことである。

 ヒトラーは、反抗と怠業から中等教育をまっとう出来ず、画家を目指して上京したウイーンでも、美術学校の入試に失敗して挫折している。

その貧困なウイーン時代、彼は食費を切りつめてでも、歌劇場に通ったという。リヒャルト・ワグナーの歌劇に心酔していた。反ユダヤ主義が心の片隅に芽生え始めていたのだろう。

ミイラ取りがミイラに 

 ヒトラーが、軍人から政治家への地歩を固めたのは、隣国ドイツのバイエルン地方であった。

19147月、第一次世界大戦が始まると、ドイツ・バイエルンの予備歩兵連隊に入隊を許された。オーストリア国籍なので義勇兵である。

その後、さまざまな曲折をへて、19197月、軍の諜報機関にスパイとして引き抜かれる。

そこで命じられたのが、台頭し始めた「ドイツ労働党」の調査であった。

ヒトラーは党の会議に潜入して調査を開始したとたん、密偵の役目を忘れてしまった。

「反ユダヤ主義、反資本主義」を説いた党首の演説に聞き入り、すっかり感銘を受けてしまったのである。

彼は、いつしか諜報機関を離れ、党の専従職員になっていた。

ミイラ取りがミイラになったのである

「ドイツ労働者党」は、まもなく党名を変更した。

「国家社会主義ドイツ労働者党(通称ナチス)の誕生である。

ヒトラーは党内で頭角を現していった。

最大の武器は、巧みで力強い「雄弁術」であった。

下層・中産階層を握る  

 192311月、ヒトラーは、「中央政府を倒そう。ベルリンに進駐して“国民革命”を起こそう」と扇動。バイエルン州政府に蜂起をうながすべく武装デモを組織した。しかし、軍の発砲によってデモ隊は総崩れになり、ヒトラーは投獄された。

この反乱は「ミュンヘン一揆」と呼ばれている。

投獄中、ヒトラーは「わが闘争」の執筆を始める。19257月に第一巻が発行された。ユダヤ人、スラブ人への敵意を示し、ロシア侵攻を示唆している。

出獄のあと、ヒトラーは党を再建し、合法路線によって党勢を拡大していく。第一次大戦で窮乏していた労働者階級や中産階級の支持をとりつけていった。ドイツの国籍も取得した。

1932年、国政選挙でナチスは第一党に躍り出る。

 翌19331月、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命した。43歳にして権力を掌握したのだ。

ヒトラーの国民的人気は絶大になっていく。再軍備によって失業問題を克服したからである。

政権を握ると、ヒトラーは敵対勢力を徹底的に弾圧・粛正して独裁体制を確立した。

総統の意思が法を超える

19348月、ヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは「大統領」と「首相」の権限を統合して、国家元首になった。

国民には自らのことを「指導者(Fuhrer)」と呼ぶように求めた。

日本の報道は、ヒトラーの地位を「総統」と名づけた。

この措置は国民投票により89.93%の高い支持率で承認された。

ヒトラーはナチス内部の抵抗分子も一掃した。

反乱の噂を逆手にとって、ミュンヘン郊外で反主流を徹底的に粛正した。この凄惨な粛正は「長いナイフの夜」と呼ばれる。

ヒトラー崇拝が国内に定着した。ヒトラーの意思がすべての法規に優先するようになっていった。

「あらゆる権威は神によりて立てらる。この故に権威にさからふ者は神の定めに悖(もと)るなり」(ロマ書131~2

聖句が黙従の理論を正当化するために利用された。

それから10年の長きにわたって、ヒトラー率いる「第三帝国」は、国内外に暴虐の限りをつくした。

歴史に刻まれた狂気の所行は、いまさら説明の必要もないだろう。

狂人ヒトラーが政治家としての地歩を固めたのは、ミュンヘンを中心とするバイエルン地方であった。

バイエルンの風土には、人を神がかりにさせる何かがあるのだろうか。

犬も乗ってくる普通列車 

 ミュンヘンは、九泊する長逗留だったので、毎日が列車を利用した日帰り旅行の連続になった。南部の山岳地帯への旅が続く。

私たちは、例によってホテルの朝食をとると、リュックを背負って5分でミュンヘン中央駅に着く。今度も南へ下るドイツ鉄道(DB)の普通列車(RB)に乗り込んだ。

ドイツの普通列車では、日本と違う鉄道風景に出会う。

その一つは、犬が自由に乗り込めることだ。

どの犬も鳴き声もたてず、背筋を伸ばして規律を守っている。

表紙の写真は、乗り合わせた犬と筆者の記念撮影である。

もう一つは、自転車が自由に持ち込めること。ホームまで自転車できて、列車を降りると、そのままホームから走り去っていく。    

南に向かう普通列車は山岳地帯を登っていくから、犬を連れて山歩きを楽しむ人やサイクリングをする人が乗り込んでくる。

そんな人たちを乗せて、列車は音もなく静かに動き出す。

私たちは、ドイツで一番高い山ツークシュピッツェ(Zugspitzeを目指すことにした。

3000mを切る最高峰

 “ツークシュピッツェ”に登るのは簡単である。

「登る」という表現は適切ではない。

足で登るところは一歩もないからである。

ミュンヘンから列車で一時間半走ると、登山口の駅(ガルミッシュ・パルテンキルヒェン駅)に到着する。ここで地元の登山鉄道に乗り換える。

車窓に迫ってくる岩だらけの山塊は、強い印象を与えてくれるほどのものではない。スイス・アルプスの美しい山容を見慣れた目には、どこにもありそうな平凡な山に映る。

アプト式の山岳電車が標高2650mの地点まで登る。そこから山頂までは、ロープウエイが一気に引き上げてくれる。

山頂には雲がかかっていた。視界がない。

この山は、山頂に国境線が走っている。北側はドイツ・バイエルン州、南側がオーストリア・チロル州である。

天候の変化を待ってみたが、雲が切れない。

楽しみにしていた山頂からの眺めは封鎖されたままだった。

満員のロープウエイに乗って下山しながら、ふと考えた。

「ドイツには高い山がない!」。意外な発見である。

ドイツ最高峰ツークシュピッツェ(Zugspitze標高29623000mに届かないのだ。富士山は3776m。

日本アルプスには3000m級の山が20峰はある。

「それがどうした」と言われれば、どうというわけでもない。

それなのに、私は、「うふっ」と意味不明の笑いを漏らした。

ささやかに優越感を覚える自分がいた。

お国自慢とはこんなものだ。人間は競い合うのが好きなのだ。

高峰並ぶアルプスの中で 

 ヨーロッパ・アルプスには、名峰と呼ばれる白い山々がまぶしく輝いている。イタリア、フランス、スイス、ドイツ、オーストリアの各国境に連なっている。

フランスには、アルプスの最高峰、白い山モンブラン(Mont Blancがある。標高4807mである。

イタリアには、バラ色の山モンテ・ローザ(Monte Rosa)がある。標高は4634m。

スイスには、マッターホルン(Matterhorn)4477mユングフラウ(Yungfrau4158m。アイガー(Eiger3970m。高峰が目白押しである。

オーストリアのグロースグロックナー(Grossglocknerは、標高が3798m。富士山より高い。

これらの名だたる山にくらべ、ドイツの山々は見劣りがする。3000mをこえる高い山もない。

ドイツ・バイエルン州は、アルプスに連なり、森と湖の豊かな自然に恵まれている。バイエルンの人たちの誇りでもあろう。

そこに、ただ一つないものがある。

「おらが山は世界一」と胸を張れるような山である。

これは、バイエルン人の心に、口惜しく、心穏やかならざる気分を潜在させてはいないだろうか。

“陽気でおおらか”“政治は保守”“宗教はカトリック”。

これが一般的なバイエルン人気質であるが、もう一つ、地政学上の要素が隠されてはいないだろうか。

「もっと高く」「もっと強く」。

バイエルンには、反骨・反抗の気風があるのではないか。

 ルートヴィッヒU世は、もっと高い山に城を造ろうと、見果てぬ夢を見続けた。

 ワーグナーは、高く、壮大な音楽を目指し、「歌劇王」と呼ばれるようになった。

 ヒトラーは、権力の高みをめざし、神をも恐れぬ頂点に立った。

特異な性格の3人は、バイエルン地方と関わりの強い人物である。

ミュンヘンから北に向かう 

ここまでは、ミュンヘンから南の山岳地帯を訪ねてきた。

ここからは、ミュンヘンの北に向かってみることにする。

ニュルンベルク(Nurnberg)は、バイエルン州第二の都市。

ICE特急ならミュンヘンから1時間の距離である。

絵の好きな人は、ドイツ・ルネッサンスを代表する宗教画家デューラー(Albrecht Durer)生誕の地としてご存じのことだろう。音楽に興味のある人なら、ワグナーの歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を思い浮かべるに違いない。

旧市街地は中世の城壁で囲まれている

ドイツ鉄道発祥の地、ニュルンベルク中央駅を出ると、すぐ目の前に城壁が現れる。

丸い大きな見張塔のあるケーニッヒ門から旧市街地に入る。

神聖ローマ帝国以来の伝統を誇る古都は、さすがに中世の雰囲気をよく保っている。落ち着いた古い建物が多い。

 ケーニッヒ門から続く歩行者天国のケーニッヒ通りは、町のメインストリート。市内を東西に流れるペグニッツ川を渡ると中央市場(Hauptmarkt)に着く。ここでは青空広場が開かれていて、野菜や果物、花などの屋台が並ぶ。のどかである。

インフォーメーション・センターで貰った地図を眺めていると、「手伝おうか」と地元の人たちが近寄ってくる。同じ運命をたどったせいか、ドイツ人は日本人に親近感を示す。

なにしろ予備知識なしの観光なので、ぶらぶら歩きを続ける。

ぶらり入った教会の中に 

中央広場の一番奥に、旧市庁舎(Altes Rathaus)の大きな建物があり、広場を挟んで聖セバルドゥス教会(St.Sebaldus Kirche)があった。この教会に入ってみることにした。

巨大な会堂の内部は照明を落としてあって薄暗い。入口には「会堂維持のため1ユーロご寄付ください」と書かれている。

貧乏教会なんだなと同情しながら、小銭を集めて献金箱に入れた。

きらびやかなステンドグラスもなく、見るべき装飾品も見当たらない。見る価値もないな、と思って踵(きびす)を返そうとした。

妻が「折角だから会堂を一周して出ましょう」と言う。仕方なく会堂の外周をついて歩いた。

途中まで行くと一枚の写真が目に入った。太い円柱の袂(たもと)に、モノクロの大きな写真パネルが置かれていた。

この教会前の広場を俯瞰した戦前の写真である。

そこには勢揃いしたナチスの軍人たちがびっしりと広場を埋めていた。ハーケンクロイツ(卍)のナチ党旗もみえる。

ドイツ語と英語で写真の説明が記されていた。

教会と市庁舎の間には、危うい秩序と平穏があった。

 多くの人々の脳裏をかすめたのは、

すでに暴虐の種が芽生え始めていることだった

次の円柱には別の写真が架けられていた。劇的転回である。

ニュルンベルクが空爆によって瓦礫と化した光景であった。

説明には次のように書かれている。

1945420

 砲声はやんだ。ニュルンベルクは崩壊した。

 戦争の恐怖の中に見捨てられた。

 切り裂かれ、折られ、ただ、虚空だけ。

 誰がこのような光景を想っただろうか。

ナチスを象徴した都市の運命 

 ナチスが政権を奪取して、最初の党大会はニュルンベルクで開かれた。19339月である。

専用会場「国民党大会広場」が郊外に建設された。「勝利の大会」と名づけられ、30万人から40万人が参加したといわれる。

これ以降、ナチスの党大会は一貫してニュルンベルクで開催され、「ニュルンベルク党大会」と呼ばれるようになった。

ドイツ民族とナチスの結合を象徴させるプロパガンダである。

1935年の党大会では、悪名高い「ニュルンベルク法」を定めた。ユダヤ人から市民権を奪うための法規。ナチスは反ユダヤ主義を実践する法的根拠をここで固めた。

1936年の党大会では、ユーゲント女子隊員800人が妊娠したとも伝えられ、大会の舞台裏での熱気もうかがわれる。

こうして、ニュルンベルクはナチス政権下のドイツを象徴する都市となっていった。

 第二次世界大戦が始まると、ニュルンベルクは連合国による空爆の最優先目標にされた。激しい空爆とそれに続く地上戦によって、都市の90%が崩壊した。

戦後、街を放棄することが真剣に検討されたほどの徹底的な破壊であった。

 この崩壊した街で、ナチスの主要戦犯を裁いた「ニュルンベルク軍事裁判」が行われ、24名のナチス幹部が裁かれた。

戦後ドイツの歴史は、ニュルンベルクから始まった。

悪夢を「希望」へ昇華 

  破壊された聖セバルドゥス教会(St.Sebaldus Kirche)はどうなっていったのだろうか。

会堂の円柱には、合わせて8枚の写真が展示されている。

その説明を順次紹介していこう。写真を想像ながら読んでいただきたい。

□梵鐘(ぼんしょう)ははじけて溶け落ちていた。

 聖セバルドゥスには、もはや声がなかった。

 1945年の夏、身震いするような戦争の犯罪が明るみに出るにつれ、人々は語るべき言葉を失っていた。

□教会の再建には、途方もないエネルギーがいる。

 だが、一つの足場が組まれ、わずかずつ上に伸びていった。

□瓦礫の廃墟は、なお果てしなく広がっている。

 しかし、屋根が一つ張られた

 ほかの屋根も一つ一つ上げられていくだろう。

□主よ、憐れんでください。

 平穏を日常に取り戻させてください。お祈りします。

 それは、あなただけにしか成しえません。

 尽きせぬ御恵みを感謝します

19921217

 10万人の市民が、灯したローソクを手に

 市の中心部をとり巻いて幾重もの円陣を作った。

 市民は誓った。

 暴虐の種を、再びこの国に芽生えさせてはならない、と

・・・・・・・・・・・

教会は蘇った。

同時に、中世の面影を残す街並みも復元されていった。

気の遠くなるような修復の作業に、ニュルンベルクの市民は執念をみせた。

苦悩は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。

おぞましい過去の悪夢を「希望」へと昇華させたのである。

そんな苦悩の歴史を秘めたこの街を、私たちは何も知らずに歩いていた。

ドナウ河畔の古都へ 

 私たちの旅行は、極めつけの貧乏旅行なのだが、一つだけ例外があった。それは、一等車の「ユーレール・パス(Eurail Pass)」を購入したことだ。

11日分の乗車券がついている。1日分は0時から24時までの間、ヨーロッパの鉄道乗り放題である。このパスを上手に利用しながら各地を移動した。

その最後の一日分を余して、どこに行くかを思案した。

ホテル(ミュンヘン)のフロントに相談すると、レーゲンスブルク(Regensburg)を勧めてくれた。

ミュンヘンの北140キロの所にあるドナウ河畔の古都である。

ローマ時代から水上交通の要衝として栄えてきた。

戦禍を免れた旧市街地は世界遺産になっている。狭く曲がりくねった石畳の道。レンガ色の家並み。天を突くような二つの尖塔をもつレーゲンスブルク大聖堂(Dom)は最大の見所だ。

1275年に着工され、バイエルン地方で最も見事なゴシックの聖堂は、内部装飾も見応えがあり、ステンドグラスが輝いている。

日曜日のミサには、レーゲンスブルク少年合唱団が登場し、美しい歌声が響くそうだ。

ドナウ河をまたぐ石橋(Steineme Brucke)も美しい。

12世紀に架けられた頑丈な橋だ。その石橋を渡る。ドナウ河を挟んで眺める街の風景は、ツイン・ピークスの大聖堂がアクセントになって実に素晴らしい。

親切で陽気なバイエルン人 

 石橋の袂(たもと)に、有名なソーセージ屋ヒストリッシェ・ヴルストキュッヘ(Historische Wurstkuche)が営業している。

その昔、石橋を建設する際に、飯場として作られたドイツ最古のソーセージ店なのだそうだ。

ドナウを眺める屋外にテラスがしつらえてある。

そこで昼食をとることにした。観光客で大賑わいだ。

メニューと睨めっこしながら、注文をためらっていると、相席のドイツ人夫妻が手伝ってくれた。

「炭焼きソーセージ6本とザウワークラウトにしたら」とあれこれ世話をやいてくれる。

小ぶりのソーセージはしつこさがなく、日本人好みの味だ。

バイエルンはビールの産地。ビールとの相性がとても良い。

親切なドイツ人夫妻が席を立つ。

かわりに大柄な男性がテーブルについた。

「さよなら」「今晩は」。変な日本語を乱発しながら、私たちに愛嬌を振りまく。陽気な人だ。大きなジョッキをあおっている。

大ジョッキを豪快に飲み干せない男は、バイエルンの男とは言えないそうだ。

かつて教会の中野光兄もバイエルン地方の旅をされた。

レストランで出会ったドイツ人が「今度やるときは、イタリア抜きでやろうぜ」と話しかけてきたという。

そんな逸話を思い出していた。

バイエルンは「男」の産地らしい。

河の流れのように   

 その昔、バイエルン地方と言えば、ドナウ河から南の地域を指したといわれる。ドナウ河は、ドイツ南西部の黒い森(Schwarzwald)に端を発し、オーストリア、ハンガリー、バルカン諸国をへて黒海に注ぐ大河である。

 炭焼きソーセージ屋の対岸に船着き場があって、大型の遊覧船が係留されている。今度は、船に乗ってドナウ下りだ。

200人は乗れそうな新造船に、わずか10人ほどが乗り込む。

甲板に出ると日射しがまぶしい。

レーゲンスブルクの街が静かに離れていく。

ビール片手に、河の流れに身をまかせる。

広がる山野や田園の風景は、のどかで美しい。豊かな緑が続く。

靜淑、平安、平和。これを「至福」というのだろうか。

♪ 遙かに涯(はて)なく

  ドナウの水は注ぐ

  美(うる)わしい藍色の

ドナウの水は常に流れる。

  野を越えて吹く風とたのしく手を組み

  水禽(みずどり)の啼く声に微笑を投げながら…♪

豊かに水をたたえてゆったり流れる“美しき青きドナウ”。

すべての過去を流しながら,

新たな希望を運びながら、ドナウは悠久の流れを変えない。[完]

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