2007年4月25日 紫垣 喜紀 

T、マンハッタン全景  U、 アナクロニズムの青春   V 、 オ ペラ座の怪人」 W、金沢とLPと結婚と  X、ミュージカルとは? Y、メトロポリタン歌劇場 Z、辛口のニューヨーク小史 [、「なぜ攻撃されるのか」 \、私の好きなミュージカル

T、マンハッタン全景
□初めてニューヨーク(NY)を訪れたのは2006年の2月だった。着いた翌日、エンパイア・ステート・ビルに昇(のぼ)った。展望台から俯瞰(ふかん)して土地勘(かん)を養おうと考えたのである。JFK(ジョン・F・ケネディー)空港から都心に入る場合も、ニュージャージー州のニュー・アーク空港からマンハッタンに向かう時にも、この高層建築はしっかりと視野に入ってくる。やはりNY随一(ずいいち)のランドマークだ。逆もまた真であるはずだ。このビルから眺めればマンハッタンの地理は一目瞭然(いちもくりょうぜん)だろう。地理を呑(の)みこまないと動きがとれない。

□チケット売り場は二階にある。空港のように金属探知機が置いてあって厳重に持ち物のチェックを受ける。このあとグループごとに写真を撮られる。帰りに記念写真として売ってくれるのだが、撮影目的が入場者を記録することにあるのは明白だ。真冬のせいか、たいした行列もなく入場券を求めることができた。シニア料金は14ドル。日本語のオーディオガイドもあるというので6ドルで借りた。ガイドブック「地球の歩き方」によれば、このビルを訪れる人は年間350万人にも上るという。オン・シーズンにはビルの周りに長蛇(ちょうだ)の列ができて、入館まで一時間以上も待たされるそうだ。

□エレベーターで約一分。まず80階に直行する。別のエレベーターに乗り換えて86階で降りる。展望台がある。売店やスナックバーもあって混雑している。オープンデッキに出ると真冬の寒気がぴりっと肌を刺す。晴天だ。はるか遠くまで見通しがきく。リバティー島の“自由の女神”も見える。ウオール街の高層ビル群も見える。西側を流れるハドソン川と東側のイースト川に挟(はさ)まれたマンハッタン島。地図とそっくりの形をしている。めぼしい建造物はだいたい見当がつきそうだ。胸が躍った。
イースト川沿いに“国連本部”がある。鱗状(うろこじょう)の尖塔(せんとう)で目を引くのはクライスラー・ビルだろう。島の中央部にある広い公園は“セントラルパーク”に違いない。その手前には巨大なコンプレックスビル“ロックフェラー・センター”が見える。公園の西側にはクラシック音楽の殿堂“リンカーン・センター”があるはずだ。“コロンビア大学”はあっちだ、“ハーレム”はどっちだと、妻を相手にガイド気取りになっている。日本語のオーディオガイドも威力を発揮した。9/11のテロで崩壊した“世界貿易センター”の位置を説明してくれる。“タイタニック号”が接岸する予定だった桟橋(さんばし)もわかった。6ドル分の値打ちは十分にある。

ロック・センター・ビル

□マンハッタンの道路は碁盤(ごばん)の目のように整然としている。250mの間隔で南北に貫通しているのがアベニュー(Avenue)。日本語では「番街(ばんがい)」と訳されている。80m間隔で東西を横切るストリート(Street)は「丁目」と呼ぶ。“5th Avenue at 57th Street”の表示ならば「5番街57丁目」となる。「五番街」といえば世界に冠たる高級ショッピング街。上記の番地には高級宝石店「ティファニー(Tiffany)」がある。近寄ったことはない。貧乏人が野暮な服装で入ると冷たくあしらわれるという噂だ。この格子状(こうしじょう)の街路(Grid(グリッド))は200年前に考案された。人口が10万人に満たなかった時代に巨大都市を視野に入れて計画が進められた。世界最大の経済都市に飛躍する重要な要素になった。NYはマンハッタン島の自然を抑圧して人工的に築き上げられた都会である。世界一広い公園“セントラルパーク”ですら手つかずの自然を保存してきたのではない。人工的に造った自然なのである。

□この杓子定規(しゃくしじょうぎ)の図形に幾分(いくぶん)反抗するように、一本の幹線道路がマンハッタン島を串刺しにしている。北北西に伸びる“ブロードウエイ”だ。このブロードウエイと七番街の大通りが交差する辺(あた)りを“タイムズ・スクエア”という。その昔、ニューヨーク・タイムズ本社が角(かど)にあったのに由来してこの名がついたという。劇場、映画館、クラブ、レストラン、キャバレー、バー、スーベニアー・ショップ、ホテルが密集するNY随一の繁華街である。

  タイムズ・スクエア 

“タイムズ・スクエア”はビルの谷間にあって、日中はエンパイア・ステート・ビルの展望台から見通すことはできない。この街が輝きを増すのは日が落ちてからである。二つの大通りの交差する角に巨大なネオン塔がある。色とりどりのネオンサインが光の競演を始める頃、周りの道という道は観光客であふれる。毎晩、お祭り騒ぎのような賑(にぎ)やかさだ。
“ブロードウエイ”は狭義には41丁目から53丁目にかけての劇場街を指す。ミュージカルの代名詞にもなっている。人々はお目当ての劇場に吸い込まれていく。私たちもその仲間入りをするはずだ。

U、アナクロニズムの青春
□いま思えば、わが母校”済々黌(せいせいこう)“はなんと異色の高校だったことだろう。佐々友房という人が創設した。彼は明治10年の”西南の役“に参戦している。西郷隆盛に加勢して官軍と戦った熊本の士族だ。賊軍に加担した罪で投獄されている。佐々は当時の滔々(とうとう)たる自由民権思想の潮流を危ぶみ、忠君愛国の精神を練磨するための教育をめざした。「済(せいせい)」は中国の古典・詩経から引用された。「済々多士」の「済々」だ。

一、倫理(りんり)を正(ただ)し大義(たいぎ)を明(あき)らかにす
一、廉恥(れんち)を重(おも)んじ元気をふるう
一 、知識を磨き文明を進む

□この「三綱領」を分析すると結構面白い。第一項の“大義”とは“君臣の道”を言う。国家主義の道に沿った精神主義的な生き方と、武道、体育が真っ先に奨励された。教育勅語が制定される8年前のことだ。“知育(ちいく)”つまり“勉学”のことは最後に書かれている。これは伝統の形成に絶対的な影響を与えた。
剣道部は戦前数え切れないほどの全国制覇をしている。生徒はすべて硬派、武闘派。かりそめにも異性に心を寄せようものなら鉄拳(てっけん)制裁(せいさい)は免れなかった。こんな黌風だから、ガリ勉も軽蔑(けいべつ)されたという。
済々黌らしい記念日がある。11月16日の“行幸(ぎょうこう)記念日”だ。1931年(昭和6年)、昭和天皇が済々黌を訪れた。“現人神(あらひとがみ)”の前で漢文と西洋史の天覧授業があった。黌庭では伝統の集合撃(げき)剣(けん)(剣術)を披露した。そのとき天皇に従って来黌した人が安達(あだち)謙蔵(けんぞう)・内務大臣や坂口鎮(しず)雄(お)・皇宮警視。いずれも卒業生で固められていた。

やがて太平洋の波高く風雲急を告げると、多くの生徒が陸軍士官学校、海軍兵学校を志願した。
□「質実剛健」とか「蛮(ばん)カラ」という校風に誘われて、僕は入学した。朝礼では「三綱領」を唱和したように覚えているが、意味もわからず呪文(じゅもん)を唱えているようなものだった。学校側も「三綱領」にはあまり触れたがらなかった。敗戦を境にして主権在民に変わった。建学の精神“忠君愛国”を頑(かたく)なに守ってきた済々黌。その羅針盤がひっくり返ったのだ。挫折感、苦悩、混迷ははかり知れなかったに違いない。黌長はレッドパージで公職追放。占領軍総司令部(GHQ)の軍政官が来黌して「三綱領の大義とは何か」と問い質したそうだ。通訳が機転を利かせて「グレート・ソシアル・サービス(社会奉仕)」と超訳して、相手も納得したという。
済々黌がかかえていた苦悩は、この“大義”の解釈にあった。済々黌は敗戦で背骨を抜かれていたのだ。

□わが青春も羅針盤がぶれて右往左往した。済々黌にはガリ勉を嫌う風潮があった。だから、友達は勉強しないふりをしていた。僕は本当に勉強をしなかった。伝統にはあくまで忠実な生徒だった。蛮カラを気取った。悪童たちと一升びんを持っては深夜立田山(たっだやま)に登った。天下国家を語るといっては下らない大言壮語にふけった。「女子(おなご)は相手にせん」などと強がりを言いながら高歌(こうか)放吟(ほうぎん)した。だが、若さ故の無軌道によって喧嘩や事件を巻き起こすことはなかった。自制心が強かったのではない。

小心で度胸がなかっただけだ。カラ元気の裏には空(むな)しさがつきまとう。ニキビ面(づら)の高校生が異性を意識しないはずがない。この虚空(こくう)を埋めてくれたのが当時どっと入ってきたハリウッド映画だった。といって、映画館に入り浸(びた)っていたわけではない。小遣いが乏しいうえ校則も厳しかった。高校から浪人時代にかけて年に1〜2本の映画を隠れるように観たにすぎない。それでもハリウッド映画は黒船の大砲より強い衝撃をもたらした。

□僕の心をとらえたのはミュージカル映画だった。初めて観た「回転木馬(Carousel)」は忘れられない。作曲リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)、作詞オスカー・ハマスタインU世(Oscar HammersteinU)のコンビが放った傑作である。「回転木馬」は、“過ちを犯して死んだ若い父親が、天国から一人娘の成長を見守る”という筋(すじ)立(だて)になっている。ロジャーズの名曲が全編を貫く。愛のテーマ「もしもあなたを愛したら(If I loved you)」の美しさ。「六月は一斉に花開く(June is bustin’ out all over )」の躍動感(やくどうかん)。フィナーレを飾る「人生一人ではない (You’ll never walk alone)」の崇高さ。永久不滅の素晴らしい音楽には文句なしにしびれた。娘の役を演じたのは“シャーリー・ジョーンズ(Shirley Jones)”という女優である。僕は、妖精(ようせい)のような美しさにすっかり魅せられてしまった。「熊本にゃ、あぎゃんよか女(おなご)はおらんばい」と独(ひと)り言(ごと)をつぶやきながら、シャーリー・ジョーンズの名前は僕の脳裏に永久保存された。

□「南太平洋(South Pacific)」も忘れられない映画だ。やはり、ロジャーズとハマースタインU世のコンビによる作品である。「魅惑の宵(よい)(Some enchanted evening)」は聞き覚えのある曲だろう。神秘の島として描かれた「バリ・ハイ(Bali Ha’i )」も有名だ。碧(あお)い空。真っ白な砂浜。燦々(さんさん)とふりそそぐ明るい太陽。そんな風景の中で、従軍看護婦役の“ミッチー・ゲイナー(Mitzi Gaynor)”が、恋に出会った喜びを満身の力を込めて表現する場面がある。「素敵な人に恋をしてるの (I’m in love with a wonderful guy)」の曲にのって、パンツ姿で砂浜にステップを刻む。僕は、その伸びやかな、弾(はず)むような肢体(したい)に悩殺(のうさつ)された。ニキビ面(づら)の高校生が、アメリカ娘(むすめ)の無邪気な魅力、健康な色気の虜(とりこ)になってしまったのだ。またしても「アメリカにゃ、あぎゃんよか女(おなご)のいっぱいおるとだろか!」と感嘆した。
こうして、たった二本のミュージカル映画を観ただけで、僕はブロードウエイのミュージカルにすっかり洗脳されてしまった。

□15,16,17の思春期は“昼行灯(ひるあんどん)”の状態だった。クラブ活動もしない。勉強にも身が入らない。原因不明の気力不全、集中力欠乏症候群だ。授業でもそうだった。ぼんやり見ていた黒板から目を離し、教室の窓ガラス越(ご)しに空を眺めるのが常だった。白い雲の間からシャーリー・ジョーンズが現れては消える。ミッチー・ゲイナーが雲の舞台でステップを踏んでいる。秘密の恋人たちとの逢瀬(おうせ)は楽しい。ロジャーズの名曲も響いてくる。うっとりする。「ブロードウエイのミュージカルは武者(むしゃ)のよかとだろうか」「第一、ブロードウエイはどこにあっとだろか。いつか、いかるっどか」。頭の中は夢現(ゆめうつつ)だ。教室の世界地図に目を移したとたん、教壇から白墨(はくぼく)が飛んできた。そんな調子だから、大学受験がうまくいくはずはない。為(な)す術(すべ)もなく浪人生活を甘受せねばならなかった。学業不振は目を覆うばかりだったのである。

□浪人生活に入った春、思いがけない旋風(せんぷう)が吹いた。甲子園・春の選抜に出場した母校野球部が快進撃を続けたのだ。準々決勝では、前年の優勝校・早稲田実業の王貞治投手を打ち砕き7-5で競り勝つ。決勝は名門・中京商業を7-1で破り優勝してしまった。紫紺(しこん)の優勝旗が肥後地に入ってくる。言葉では尽くせない強い感動と興奮に包まれた。僕の弛緩(しかん)した精神にも活が入ったようだ。感動には人を奮(ふる)いたたせる力がある。
一年後の春、僕は熊本駅から上京した。当時、大阪まではまだ蒸気機関車が引く汽車の時代である。小川三四郎流に言えば、熊本停車場(ステイション)を発車したのだ。“三四郎”の時代には名古屋で一泊して、翌日、別の汽車に乗り継いだようである。幸い僕の時代には急行「阿蘇」が25時間をかけて東京に直行した。東京に着くと、三四郎は不忍池の方向に向かった。僕は都の西北をめざした。ブロードウエイは夢のまた夢。遙か彼方にあった。

V、「オペラ座の怪人」
□タイムズスクエア周辺には40もの劇場が集まっていて“シアター・ディストリクト(劇場街)”と呼ばれている。ほとんどの劇場は午後8時に開演するので、30分ほど前から周りの道路はあふれんばかりの人々で賑わう。信号が赤になっても劇場に急ぐ人々の流れが止まらないので、いらだったドライバーが警笛を鳴らして騒々しい。44丁目にある“マジェスティック”劇場の前にも長い列ができている。入り口が小さいのでなかなか捌(さば)けない。歌劇場(オペラ・ハウス)のように広いロビーもなく、気の利いた芸術的な装飾品もない。入り口を入るとすぐ観客席だ。通りの救急車のサイレンの音も聞こえてくる。案内人(Usher)にチケットを示すと、席に案内してプログラム(Play Bill)を渡してくれる。席は狭く、真冬なのに暖房がよく効いていないので肌寒い。夏は夏で、なぜか冷房が効きすぎて寒いそうだ。
NYの劇場は寒さ対策を怠るとひどい目に遭う。観客はカジュアルな格好で気楽に楽しもうという姿勢だ。開演前はお喋(しゃべ)りに熱中している。時折、携帯電話の呼び出し音が鳴り響いたりする。気取りのない庶民的な雰囲気がある。劇場というより「芝居小屋」と呼ぶ方がぴったりだ。

□場内の照明が消えて幕が上がる。薄暗くてすぐには目がついていかない。舞台は、うらぶれたパリのオペラ座。この劇場に伝わる由緒(ゆいしょ)ある品々がオークションにかけられている。「競売(けいばい)666号!」。“666”はヨハネ黙示録に示された不吉な数字だ。競(せ)り人(にん)の口上(こうじょう)が上擦(うわず)ってくる。かつて大惨事を起こしたという巨大なシャンデリアが競(せ)りにかけられた。すると、シャンデリアは妖(あや)しく光り始めた。光は次第に輝きを増し、不気味に揺れながら客席の頭上(ずじょう)高く昇っていく。「オペラ座の怪人」序曲が高らかに鳴り響いた。いきなりフォルティッシモ(ff)で始まるオーケストラの強震(きょうしん)にどきっとする。
オペラ座の地下に棲(す)みついた“怪人”を彷彿(ほうふつ)させる。それでいて、どこかに切なく甘美な響きもある。照明が煌々(こうこう)と舞台を照らす。舞台は華やかな昔のオペラ座に変わった。歌劇「ハンニバル」の舞台稽古(ぶたいげいこ)が続いている。
こうして2時間35分のミュージカル「オペラ座の怪人(The Phantom of The Opera)」は始まるのだ。1609のすべての席を埋め尽くした観客の目が舞台に釘づけになる。

 

□「オペラ座の怪人」は、“一人の女が二人の男の愛情に揉(も)まれながら、少女から大人に脱皮していく通過儀礼の物語”である。“怪人(ファントム)”と”ラウル青年“が美貌の歌姫クリスティンを張り合う。恋のトライアングルが基本構図になっている。怪人はクリスティンに秘かに音楽を教えている。父性愛以上の感情を抱くようになった。彼女にとっても、怪人への親愛感は父への思慕と二重写しになっている。

 ところが、少女が若い男に心を移したとき、怪人は乱心する。怪人の仮面が変貌してゆく。ついには若い女を追い求める哀しいストーカーに変身した。オペラ座を意のままに支配した怪人も、若さへの羨望と激しい嫉妬を覚える。弱気をかき消すように荒ぶる心。才能を誇示したい芸術家の夢と狂気。若い女に対する見栄と執着。男が背負っている強さも弱さもすべてさらけ出しながら、暴れまわった。

このオペラ座の怪人として造出された人物は一体何者なのだろうか。それは見ている“自分自身”と映った。人間には、加齢とともに叡智や諦観や分別が備わっていくという。しかし、それは肉体の衰老と引き換えにもたらされるのだ。諦観や分別というのは、極端に言えば、“死の擬態”のようなものだと言えなくもない。

 若い男の特性を”力“と”美“とすれば、その対極にあるものだ。だから、「倫理がなんだ」「分別がなんだ」と心の底では悪あがきする。天の摂理に逆らう。悪魔と結託する。怪人の「仮面の下の傷」という形で示されたメタファー(隠喩)とは、信仰で言う”原罪(Sin)“ではなかろうか。仮面の下には、エゴイズムをはじめとする諸々の”罪“が隠されているのだ。

□“怪人はクリスティンをさらって地底湖の隠(かく)れ家(が)に逃げ込む。二人を追う“ラウル青年”は罠(わな)にかかって捕まる。怪人はクリスティンに迫る。「俺を嫌(きら)えば、こいつを殺す」。・・・(絶体絶命)……”
歌劇「トスカ」にもそっくりの緊迫した場面があった。ローマの警視総監が権力をかさに歌姫トスカを追いつめる。彼女の恋人は政治犯として捕まっている。総監は恋人の助命と引き替えにトスカの身体を求めた。その次の場面が有名
だ。トスカは鋭く叫ぶ。「これがトスカの接吻(せっぷん)よ!」。
抱きしめようとした警視総監がどっと倒れる。トスカは隠し持っていた短剣で刺したのだ。主な登場人物が死に絶えるプッティーニの名作である。「オペラ座の怪人」はそういう筋書きにはならない。こう展開する。

“クリスティンは死中(しちゅう)に活(かつ)を求めた。彼女は短く祈る。「暗闇の中にいる哀(あわ)れな人。あなたは、この世にただ一人だけじゃないことをわかってほしいの。神様、私に勇気をください」。
クリスティンは静かに近づくと、怪人の唇に接吻する。猛(たけ)り狂(くる)っていた怪人は虚(きょ)を突かれた。電気に打たれたように全身を硬直。怪人は鎮(しず)まった。もはや若い二人が引き返すのを止めようともしない。クリスティンは怪人に指輪を返してラウル青年とボートで立ち去る。怪人は「愛している」と絶叫しながら泣き崩れる。……(続く)”
さて、この場面は要注意なのだ。怪人は短刀で刺されたわけでもない。クリスティンの接吻を受けただけなのである。それだけで、怪人なぜおとなしくなったのだろうか。したたかな演出家の問いかけは解くのが難しい。

□怪人の隠れ家はオペラ座の地下に広がる地底湖にある。玉座(ぎょくざ)も設(しつ)らえてある。怪人は孤高の帝王。ここに招かれるのはクリスティンだけ。歌を指導し父性愛を注ぐ。そればかりか“エロス(Eros)”の愛も芽生えた。彼女はただ一筋の光明、希望なのだ。そこへ強力な恋敵(こいがたき)が現れた。エロスの愛というのは無条件の愛ではない。見返りを求める性質がある。愛するかわりに自分も愛の快楽を味わいたいという願望が潜んでいる。爆発的だが永続性がない。だから、情況の変化によっては愛憎が逆転する。可愛さ余って憎さ百倍。怪人は、ラウル青年を殺してでもクリスティンを自分のものにしようとする。
怪人の魂は100%悪魔に支配されてしまった。こうなると人間は凶暴で手がつけられなくなる。とりなしたり、懐柔したりするのが難しい。ましてや、クリスティンはか弱い乙女の身である。何が出来るというのだろうか。ところがどうだろう。弱さが強さを発揮したのである。クリスティンは接吻して怪人に“愛”を伝えた。“怪人が孤独でない”ことを悟らせた。

その愛はエロスの愛(性愛)ではない。ストルゲーの愛(親子の愛)でも、フィリアの愛(兄弟愛)でもない。これは“アガペー(Agape)”の愛というものではなかろうか。自分に危害を加えようとする者に愛を与える。そんなことが自然の情から生まれるものではない。クリスティンは敵を愛したのだ。無意識のうちに神の愛が働いていた。アガペーの愛は、怪人の魂に巣くっていた悪魔を撃(う)った。

□“やがて追手(おって)や暴徒が怪人の隠れ家を突きとめた。怪人を捜す。が、そこに人影はない。怪人が座っていた玉座(ぎょくざ)には「仮面(マスク)」が残され、白く明るく光を放っていた。……(End)。”
「オペラ座の怪人」の物語はここで終わる。怪人がどうなったのか、どこへ行方を眩(くら)ませたのか。それは見る人への宿題になっている。が、怪人はもともと出自(しゅつじ)来歴(らいれき)不詳の人物だから、その後を詮索(せんさく)してもはじまるまい。ただ、一つだけつけ加えておきたい。怪人はクリスティンの愛を呼吸した。その時だけ、泣き崩れて乱れた。
しかし、醜態を見せないのが怪人本来の美学である。仮面をかぶりマントを翻(ひるがえ)し格好(かっこ)いいのだ。ダンディーなのだ。仮面を外した“元怪人”もその気概だけは忘れなかった。怪人は死なず、ただ消え去るのみ。引き際(ぎわ)はさすがに怪人らしく颯爽(さっそう)としていた。

□「オペラ座の怪人」は20年以上も前の1986年10月、ロンドンの“ハー・マジェスティー劇場(Her Majesty’s Theatre)”で全容を現した。延々とロングランを続けている。NYブロードウエイ公演は1988年1月、“マジェスティック劇場(Majestic Theatre)”で始まった。NY最長のロングランになっている。
日本の「劇団四季」はNYに遅れること3ヶ月、日生劇場で開幕したあと全国各地で公演を続けている。ロンドンでもNYでも、ホッテスト・ティケット(最も入手しにくい入場券)は「オペラ座の怪人」である。“マジェスティック劇場”は1600席余りの客席を持つが、100%以上の動員率を誇るという。100%以上というのは補助席や立ち見を若干許しているらしい。それにしても、マティネー(昼間の興業)も入れて週8回の公演が毎回超満員になるのはなぜだろう。20年ものロングランを可能にしているマジックはなんだろう。それは言うまでもない。一(いつ)にして“アンドリュー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd Webber)”の音楽の力に負っている。

そもそも、「オペラ座の怪人」はガストン・ルルーの原作からして、荒唐無稽の物語である。話だけ聞けば、嘘だらけのメロドラマである。その非現実をいかにも真実のドラマに見せているのが、舞台の進行にぴったり沿って流れるロイド・ウエーバーの音楽である。“甘美”で“哀調”のある微妙な音の響きが心に沁み込んでくる。名曲の連続だ。「オペラ座の怪人(The(ザ) Phantom(ファンタム) of(オブ) The(ジ) Opera(オペラ))」以外は日本語の名訳がない。「Think(シンク) of(オブ) me(ミ)」「Angel(エンジェル) of(オブ) music(ミュージック)」「The(ザ) music(ミュージック) of(オブ) the(ザ) night(ナイト)」「All(オール) I(アイ) ask(アスク) of(オブ) you(ユー)」「仮面舞踏会(Masquerade(マスカレード))」「The(ザ) point(ポイント) of(オブ) no(ノー) return(リターン)」。この上ない美しいナンバーが次々に歌われる。

□英国の作曲家、アンドリュー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd Webber)の登場は、20世紀終盤の停滞していたミュージカルの世界に新風を送り込んだ。1971年、ブロードウエイで公演した「ジーザス・クライスト・スーパースター(Jesus Christ Superstar)」が大成功を収め、世界的に有名になる。ロック・オペラと銘打たれた。その後も「キャッツ(Cats)」「エヴィータ(Evita)」「サンセット大通り(Sunset Boulevard)」「アスペクト・オブ・ラブ(Aspect of Love)」「スターライト・エクスプレス(Starlight Express)」と次々に話題作を発表する。
人生の飛躍台になったのが、ある美しい女(ひと)との出会いだった。水晶のように美しい声の持ち主といわれたソプラノ歌手、サラ・ブライトマン(Sarah Brightman)である。サラに鼓舞されたウエーバーは、創作への意欲を激しく燃えたぎらせた。
「オペラ座の怪人」のクリスティンは、サラに演じさせるために用意されたヒロイン役である。ロンドンとNYの初舞台で、サラはオリジナル・キャストとしてクリスティンを演じた。同時に、ロイド・ウエーバー夫人でもあった。サラは1960年の生まれ。クリスティン役は若手の歌い手に引き継がれて今日にいたっている。

W、金沢とLPと結婚と
□卯(う)辰山(たつやま)に登ると、金沢城址を中心にした城下町を一望できる。雨上がりには黒い瓦(かわら)葺(ぶ)きの屋根が光を反射してきらきら光る。戦災を免れた金沢は古都の面影(おもかげ)をしっかり残していた。加賀藩は江戸幕府に恭順(きょうじゅん)の意を尽くして大藩を保全してきた。大戦中はアメリカ軍の目こぼしにも与(あずか)っている。戦争を知らない街なのだ。
1963年(昭和38年)の夏、私は金沢放送局に赴任(ふにん)する。この年の1月と2月、北陸地方は未曾有の大雪に見舞われた。北陸線が1ヶ月以上も運休して“陸の孤島”になった。「三八(さんぱち)豪雪(ごうせつ)」と名付けられ、今でも語(かた)り種(ぐさ)になっている。豪雪のあと放送局の取材要員が一人増員されて、そこに私が記者としてはまり込んだ。
もっとも、私の方でも初任地として金沢を希望していた。大学のゼミの同級生が「金沢は最高」と吹聴(ふいちょう)するものだから心を動かされたのだ。石川出身の人は郷土(ふるさと)自慢が好きだ。彼は河北郡(かほくぐん)宇ノ気町(うのけまち)の出身なのだが、「祖父か親の代に、西田幾多郎(きたろう)に家を貸していた」というのが自慢だった。「善の研究」で有名な哲学者だ。

金沢といえば兼六(けんろく)園(えん)。天下の名園・兼六園には随分お世話になった。金沢は事件・事故が少ない。ネタ不足になると兼六園をニュースに仕立てた。やれ、雪(ゆき)吊(づ)りの作業が始まっただの、雁行(かりがね)橋(ばし)の飛び石が婦人観光客のハイヒールで削られているだのと、軽い話題を原稿にした。何はなくとも兼六園である。そればかりではない。片町(かたまち)や香(こう)林坊(りんぼう)で飲んだあと、酔(よ)い覚(ざ)ましに園内を散策した。蒸し暑い夏の夜には、公園のベンチで一人野宿したこともあった。誰に咎(とが)められることもなく、のどかでおおらかな時代だった。

□北陸の冬はうっとうしい。鉛色の空に覆われる。雷が鳴って冬の終わりを告げた頃、下宿の主人が写真を持ってやってきた。見合い写真だ。
「お見合いの時はだぶだぶのズボンを履(は)いていて可笑(おか)しかった」と妻は振り返る。自分では記憶にないが、きっと流行の最先端を装っていたのだろう。そのだぶだぶのズボンを履いて二人で映画館に入った。「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」を観た。ロジャーズとオスカーハマスタインU世のコンビによる最後の作品である。
“ナチの魔手が伸びるオーストリアを舞台に、退役したトラップ大佐一家の物語。家庭教師のマリアが七人の子どもたちに歌うことの楽しさを教える。マリアと大佐は恋に落ちて結婚。一家はスイスに亡命する”。映画ではマリア役をジュリー・アンドリュース(Julie Andrews)が演じて有名になった。マリアは子どもたちに歌を教えたが、観客もすぐ覚えた。「ドレミの歌(Do-Re-Mi)」は、ペギー葉山が日本語の歌詞を創作して大流行した。この映画のオープニングは印象的だ。アルプスの遠景から、丘の上で「サウンド・オブ・ミュージック(The sound of music)」を歌うマリアへとカメラがズームしていく。ザルツブルクで撮影された。ロジャーズの才能は渾々(こんこん)と尽きない。「エーデルワイス(Edelweiss)」「すべての山に登れ(Climb ev’ry mountain)」「もうすぐ17歳(Sixteen going on seventeen)」「私のお気に入り(My favorite things)」「さようなら、ごきげんよう(So long,Farewell)」。どれも歌いやすい歌ばかりだ。
私たちの10代、20代の時期は、ブロードウエイ・ミュージカルの絶頂期と重なったように思う。単純明快な楽しさ、生きる喜びを力強く謳(うた)いあげるのが神髄だった。アメリカがまだ健康な時代の産物である。

□交際中、笠(かさ)舞(まい)にある妻のアパートを訪ねた。四階の窓からは遥(はる)か富山県境の霊山・医(い)王山(おうぜん)を望める。立派なクラシック音楽のコレクションがあった。
「父もクラシックが好きだったそうです」と妻は話した。彼女の父はフィリピンのルソン島で戦死。
遺骨も戻(もど)らなかったという。私は“金沢は戦争を知らない街”とばかり思っていた。その認識が正しくなかったのを悟って誤りを修正した。クラシックを聴きながら、レコードのコレクションの中に意外なものを発見した。なんと「ブロードウエイ・ショーケース(Broadway Showcase)」と題したLPレコード10枚が出てきたのだ。
キャピトル・レコード(Capitol Records)の出版で、ミュージカルのスタンダード・ナンバーが満載されていた。「回転木馬(Carousel)」「南太平洋(South Pacific)」「オクラホマ!(Oklahoma!)」「王様と私(The King and I)」。ここまでは、ロジャーズとオスカーハマスタインU世のコンビ。ほかの作曲家のものも沢山ある。「カン・カン(Can-Can)」「学生王子(The Student Prince)」「パジャマゲーム(The Pajama Game)」「くたばれヤンキース(Damn Yankees)」「ショー・ボート(Show Boat)」「アニーよ銃をとれ(Annie Get Your Gun)」。
このブロードウエイのミュージカル集は、米国ワシントン州に住む彼女の親戚からの贈り物だったという。当時、日本で簡単に入手できるLPレコードではなかった。私は“宝物”を掘り当てたように熱くなった。こうして金沢は、私にとっての第二の故郷(ふるさと)になる。結婚したあとは転勤の連続だ。金沢・東京・博多・東京・札幌・東京と転勤を重ねた。
その都度(つど)、このLPレコードだけは後生大事に持ち歩いた。金沢を離れたあとレコードを聴いたことはない。持っているだけで安心なのである。妻はその存在すら忘れているかもしれない。

□“ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの……ひとり都のゆふぐれに、ふるさとおもひ涙ぐむ、そのこころもて、遠きみやこへかへらばや、遠きみやこへかへらばや”
室生(むろう)犀(さい)星(せい)は親の愛情も知らず過酷な幼年時代をおくった。それでも金沢を懐かしがった。故郷を離れて上京した男の切々たる望郷の詩(うた)である。金沢は確かに雰囲気のある素晴らしい街だった。私は温かく迎えられ、愉快な青春時代を送らせてもらえた。懐かしく思い出す。しかし、余程やむを得ない用件でもない限り、金沢を訪ねたいとは思わない。街が変わっていくのを見たくないのだ。現代は、犀(さい)星(せい)が生きた大正時代とは比べものにならないほど変化が激しい。その変化が面白くないのだ。変化を見るのが怖いのである。結婚した当時、住んでいた“鷹匠(たかじょう)町(まち)”は石引2丁目に町名を変更された。下宿していた“鱗(うろこ)町(まち)”は幸町になった。それだけで歴史の香りが少し消えた感じがした。石川県庁前の広坂通りにも、小立野(こたつの)の台地にも、犀川(さいがわ)大橋の上にも、チンチン電車が走っていた。交通の邪魔になるといって撤去してしまった。電車道をアスファルトで舗装したら、間の抜けた締(し)まりのない風景ができあがった。
兼六園は入場料を取るようになり、出入り自由ではなくなった。大型観光バスばかりが目立つ。
近代化はこの街の敵だ。城下町を台無しにする。わかっちゃいるけど時代の波は容赦なく押し寄せてくる。

1964年(昭和39年)の東海道新幹線の開通に刺激されて“北陸新幹線の誘致運動”が始まった。金沢駅の周辺には早々と近代的な駅舎や高層ホテル群が建ち並んだ。いまや新幹線のレールが延びてくるのを待っている。40年以上たって、金沢の情緒は随分蒸発した。痛々しい。やはり、「ふるさとは遠きにありて思ふもの」だと思う。

□2006年、私たちは“結婚40周年”を迎えた。辞書で調べると、「エメラルド婚式」というのだそうだ。
やはり大層な節目なのである。私たち夫婦はこの記念にNYに旅することにした。「海外旅行」は私たちの数少ない共通の趣味なのである。
拙(つたな)い自分の体験から言えば、夫婦共通の趣味を持つのは意外に難しい。かつて「夫婦の社交ダンス」というタウン誌の企画があったので参加してみた。
5〜6組の夫婦が集まった。最初は和気藹々(わきあいあい)でやっていたが、その内に「お前が悪い」「あなたが間違った」と罵(ののし)りあいになった。親の敵(かたき)に出会ったように陰険な顔つきで組み合ったりした。これではストレスの上積みだ。このダンスの会は「飲み会」へと発展的に解消された。その点「旅」は我々の性(しょう)に合っている。エコノミーの座席でも長時間大丈夫だ。外国の不味(まず)い食事も厭(いと)わない。片言の英語を使うときには、夫婦相互間に協力関係すら生まれる。同じような体験をしながら “呉越同舟(ごえつどうしゅう)”“同床異夢(どうしょういむ)”でいられるのもいい。
「このシュニッツエルはさすがね!」と感嘆する妻に「そう、そう」と相槌(あいづち)を打ちながら、ウエイトレスの腰のくびれを鑑賞していてもいいのだ。この「旅」に「芝居見物」を加味すると一層充実するのを体験上知った。ガラコンサート、オペラ、バレー、ミュージカル。何でもいいから劇場に足を運ぶことだ。二人で同じものを見て、同じ感動に浸(ひた)った気分になれる。「よかったね」といいながら、妻はテナーやバリトンに痺(しび)れている。こちらはソプラノ歌手を思い出している。人間の「相互理解」とは「相互誤解」と異音同義である場合が多い。

私たちは「音楽」が好きである。だから、結婚40周年記念にNYに行くとなれば、目的は一つしかない。「観劇」。二人で微笑(ほほえ)み合った。一心同体だ。私はブロードウエイの“ミュージカル”を頭に描いた。妻はメトロポリタン歌劇場の“オペラ”を夢見ていた。

 メトロポリタン歌劇場

X、ミュージカルとは?
□19世紀のNYで、“オペラ(歌劇)”は一握りの富裕層のための芸術でしかなかった。大多数の市民は、様々な国から来た貧しい移民で占められていた。高尚な芸術に馴染まない階層である。娯楽には“単純明快な楽しさと力強さ”を求めた。もちろん“セクシーな刺激”も必要だ。大衆の求めに応えて、寸劇や歌、踊り、マジックを織(お)り込んだ“ボードビル・ショー(Vaudeville Show=軽喜劇)”なる大衆演劇が盛んになっていった。
オープニングの定番は脚線美のラインダンス。華やかに歌い踊って、まずはお色気を振りまいた。これがアメリカ・ミュージカルの原点だといわれる。もちろんヨーロッパの“オペレッタ(喜歌劇)”の影響を強く受けた。ジャック・オッフェンバックの「天国と地獄」、ヨハン・シュトラウスU世の「こうもり」、フランツ・レハールの「メリー・ウイドー」等々である。なかでも「メリー・ウイドー」は、欧州各地のみならずNYでも公演され“ボードビル・ショー”にも大きな影響を与えたといわれる。

□新興国アメリカは、20世紀に入って先進的な工業国に生まれ変わる。第一次世界大戦では特需景気に沸き、かつてない繁栄を謳歌した。そんな時代のNYに、先駆的な芸術家が現れた。ジェローム・カーン(Jerome Kern)やジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)らである。彼らはアメリカ・ミュージカルの父とも呼ばれている。ナチスの台頭で輝きを失い始めた欧州に変わって、NYのブロードウエイが“オペレッタ”を原型とした“ミュージカル”のメッカとなっていった。“ミュージカル”とは何か?
広辞苑にはこう説明されている。
“アメリカで発達した大衆舞台芸術の分野。オペレッタの流れを汲み、アメリカ独自のショー形式やポピュラー・ソングの要素を加えた総合音楽舞踊劇”。ジャズやハリウッド映画と並んでアメリカを代表する大衆芸術だ。1927年12月、革新的な作品が登場した。「ショー・ボート」である。ミュージカルを舞台芸術と呼ぶに相応(ふさわ)しい地位に押し上げた。

□「ショー・ボート(Show Boat)」はジェローム・カーン(Jerome Kern)作曲、オスカー・ハマースタインU世(Oscar HammersteinU)の作詞である。風変わりな序曲の後、黒人の人足が「白人が遊んでいる間、ニガーはみなミシシッピ川で働いている」と怒りの熱弁をふるう。黒人問題を正面から取り上げた。それまでのミュージカルとは明らかに違っていた。ミシシッピ川を往来したショー・ボート(演芸船)を舞台に、人種差別、アル中、ギャンブルといったアメリカが抱える問題に迫った。深刻な物語、メロドラマ、コメディーとジャズ、黒人霊歌が融合したショー・ビジネスのパノラマを創り出している。
「オール・マン・リバー(Ol’ Man River=ミシシッピ川の愛称)」をはじめ、数々のスタンダード・ナンバーを生み出した。その後のミュージカルに絶大な影響を与えた古典的名作である。この作品を契機にミュージカルは新時代を迎える。

□1929年の“大恐慌”のあと、NYはさすがに冴えない時期が続いた。しかし、1930年代後半から
1950年代にかけて、NYのブロードウエイは黄金期を迎える。才能豊かな芸術家がそれこそ綺羅(きら)星(ぼし)の如く現れた。ブロードウエイ史に燦然(さんぜん)と輝く名作が目白押しである。
ジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)作曲の「ポーギーとベス(Porgy and Bess)」。 リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)作曲の「オクラホマ(Oklahoma)!」「回転木馬(Carousel)」「南太平洋(South Pacific)」「王様と私(The King and I)」「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」。 アービング・バーリン(Irving Berlin)作曲の「アニーよ銃をとれ(Annie Get Your Gun)」。
フレデリック・ロウ(Frederic Loewe)作曲の「マイ・フェアー・レディー(My Fair Lady)」。 レオナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)作曲の「ウエストサイド物語(West Side Story)」。
リチャード・アドラー(Richard Adler)作曲の「くたばれヤンキース(Damn Yankees)」。数え上げれば切(き)りがない。


□ミュージカルの進化に合わせたように「映画技術」も急速な進歩を遂げた。1920年後半にはトーキー技術が実用化された。1930年代中期には色彩が加えられて表現力は倍加する。
劇場のミュージカルを映画化することによって、全米のどこにいても“ミュージカル映画”が楽しめるようになる。1940年代から1960年代にかけての30年間は、ミュージカル映画(Musical Cinema)の全盛期であった。巨大な撮影スタジオ、莫大な費用をかけて製作されるセット、クレーン車による撮影、数百人のダンサーによる群舞。“機械技術”を駆使するという点からも、映画は20世紀のアメリカが生み出した新しい芸術形式である。MGM、20世紀フォックス、ユニバーサル映画、パラマウント画。巨大映画産業がひしめくハリウッドは不況知らずだった。“ミュージカル映画”はブロードウエイとハリウッドのコラボレイション(合作)である。第二次大戦のあと、ミュージカル映画は全世界に配信された。戦争に疲れた人々に夢と元気と希望を届けた。

□ブロードウエイの劇場街の賑わいは今も昔も変わらない。大きく変わったのは“ブロードウエイのステイタス(地位)”であろう。1970年代から、ミュージカルの中心はブロードウエイを離れ、“ロンドンのウエスト・エンド(West End)”に移ってしまった。最後のブロードウエイらしい作品といえば、「サウンド・オブ・ミュージック」であろう。そのあとの半世紀、ブロードウエイは有能な作曲家や演出家に恵まれず、沈滞した状況が続いている。もちろん、話題作が全くなかったわけではない。「キャバレー
(Cabaret)」「コーラスライン(A Chorus Line)」「シカゴ(Chicago)」などは傑作だと評価されている。
しかし、多くは昔の作品とどこかが違っている。輝きがない。爽(さわ)やかさがない。見る人の魂を揺すぶらない。退嬰的(たいえいてき)でシニカルな雰囲気が強く、後味の悪い作品が多いのだ。ブロードウエイの退潮は、ヴェトナム戦争の推移に同調すると指摘する向きもある。
ヴェトナム戦争の後遺症やトラウマはなおアメリカ社会に尾をひいているのだろうか。

□停滞していたミュージカルの世界に活を入れたのがロンドン版のミュージカルだ。英国の作曲家、アンドルー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd Webber)の登場である。
「ジーザス・クライスト・スーパースター(Jesus Christ Superstar)」「エヴィータ(Evita)」
「キャッツ(Cats)」「スターライト・エキスプレス(Starlight Express)」「オペラ座の怪人(The Phantom of The Opera)」。ロイド・ウエーバーの作品はたちまち世界を席巻した。なかでも「キャッツ」と「オペラ座の怪人」は超ロングランを記録した怪物的ミュージカルだ。「オペラ座の怪人」は既に8000万人の観客を動員。なお公演を続けている。そこに、満を持して強力なライバルがフランスに登場する。クロード・ミッシェル・ショーンベルク(Claud Michel Schomgerg)である。
代表作は、これもロンドンで幕を開けた「レ・ミゼラブル(Les Miserable)」。この作品は世界的な興行体制をとり、日本を含む世界の28カ国、16カ国語で上演された。2000年の時点で5500万人の観客を動員したとされる。ロンドン・ミュージカルは絶好調。世界の頂点に立っている。

□“ウインブルドン現象”という言葉がある。テニス競技場を提供しながら、自国のイギリス人選手が一向に活躍しない現象をいう。ミュージカルの世界では、“ブロードウエイ現象”とでもいうべき状況が続いている。劇場はたくさんあるのだが、極(きわ)め付(つ)きの演目はロンドン版のお下がりに頼っている。ブロードウエイは新作を生み出す力を喪失しているのだ。20世紀末から21世紀初頭まで、「オペラ座の怪人」と「レ・ミゼラブル」に象徴される“ロンドン・ミュージカル”が世界を引っ張ってきた。このあとミュージカルの世界はどのように変化するのだろうか。いまは星雲状隊の中にある。ブロードウエイもまだ霧に包まれている。懸念材料がいくつかある。とにかくアメリカ人が明るくない。大義が不鮮明な“イラク戦争”が泥沼にはまり込んでしまった。撤兵の契機(きっかけ)すら掴(つか)めそうにない。戦争が再びアメリカ社会に暗い影を落とすのだろうか。アメリカ社会が病むとき、ブロードウエイも輝きを失う。

Y、メトロポリタン歌劇場
□“恋人のアルフレッドに抱きかかえられて、ヴィオレッタが穏やかに息を引き取る。”〜幕〜歌劇「椿姫(つばきひめ)(La Traviata)」のフィナーレである。観客が一斉に立ち上がり、長いスタンディング・オベーションが続く。
世界で最も贅沢(ぜいたく)な劇場といわれる“メトロポリタン歌劇場(Metropolitan Opera House)”のいつもの風景である。オペラのシーズンは9月から5月まで。日曜日を除き週7回の公演がある。演目は日毎(ひごと)に変わる。私たちは、2006年2月と翌2007年1月、二年続けてNYを訪れオペラを楽しんだ。初めの年はヴェルディーの「椿姫」と「運命の力(La Forza del Destino)」。次の年は「椿姫」とモーツアルトの「魔笛(Die Zauberflote)」を見に行った。奇(く)しくも二年連続して「椿姫」を鑑賞するはめになった。二年目の「椿姫」では、韓国人のテナーとソプラノ歌手が主役に抜擢(ばってき)されていた。臆(おく)することなく力強い喉(のど)を披露(ひろう)してくれた。ヴィオレッタ;Hei-Kyung Hong。アルフレッド;Wookyung Kim。韓国名の読み方はわからない。

□それにしても、韓国人の声帯はアジアではずば抜けて発達しているように思える。2001年の秋、カナダ・ヴィクトリアの教会を訪れたときのことだ。もの凄いバリトンの声が響いていた。81歳の韓国系カナダ人の辛(シン)さんだった。日本語も達者である。辛さんによれば「土壁の家に住んだ韓国人は大声を出すくせがついた。木と紙の家に住んだ日本人は小声になった」と持論をぶっていた。当たらずといえども遠からずだ。韓国のオペラ歌手が世界の檜舞台“メト”で堂々と通用するのを見た。“メト”の収容人員は約4000人。マイクを通さずに6階の家族席や立見席の隅々にまで肉声を響かせなくてはならない。マイクを使い音声をミキシングするミュージカルとは大違いだ。喚(わめ)くのではない。“ベルカント唱法”とかいう独特の発声で、美しく、滑らかに歌う。そこにオペラ歌手の誇りがあるのだろう。聴衆を唸(うな)らせる技と力があった。

□「運命の力」では、地獄の底から響いてくるような野太い僧侶たちの大合唱に震えた。「魔笛」では、夜の女王が超絶技巧のアリアを歌う。「復讐の心は地獄のように」。ソプラノのサーカス芸だ。解説書には「コロラトゥーラの技法を駆使して歌う」とある。誰も真似のできない技だから、魔法にかかったように魅了される。そのかわり、オペラ歌手は踊らない。ステップを踏まない。歌唱(かしょう)一筋である。必要なら専門のバレー・ダンサーが登場する。ここもミュージカルと決定的に違う。ミュージカルの役者はオールラウンド・プレーヤー。誰もが歌って踊る。歌唱力を最優先するオペラだから、そこには不可避的な弱点がつきまとう。いつも適材適所とはいかないのだ。美貌のヒロイン役が、“それなり”のルックスだったり、太めだったりする。容姿ばかりは代役で補うわけにはいかない。
韓国ペアーの「椿姫」の場合もそうだった。テノール歌手の背丈(せたけ)の低さが気になった。共演する欧米の役者が大柄なのでなおさら目立ってしまう。観客はしばしば本質以外の部分に関心を向けるものだ。

□オペラ劇場では、左右両脇にあるボックス席が好きだ。一階のオーケストラ席や二階正面のメザニン席に比べて格段にチケットが安い。しかもコートや持ち物が自由に置けて身体も自由に動かせる。

“メトロポリタン歌劇場”は、U字型の観客席に沿って三階レベルまで、10個ほどのシャンデリアが降(お)りている。三階のボックス席に座ったことがあった。目の前のシャンデリアがするすると天井に昇り始めるのが開演の合図になる。暗くなると座席前にある“字幕装置”の液晶画面が目に入ってくる。オペラは主にイタリア語やドイツ語で演じられる。簡単な構文の英訳が字幕で流されるのでとても重宝(ちょうほう)する。同時に“オペラ”がヨーロッパ大陸の芸術、非英語圏の文化であることを再確認した。幕間(まくあい)にはボックス席から人々を観察するのも面白い。一階席や二階席には、正装した紳士・淑女が多い。五階、六階の人たちは服装がぐっとカジュアルになる。吹き抜けのロビーに出てワイングラスを傾けるには、それなりの格好をしないと浮いてしまいそうだ。

□その昔、NYの上流階級は14丁目にあった「ニューヨーク音楽院」に集まった。そこは特権階級の人々だけの排他的な社交場であった。上流社会は厳しい掟(おきて)としきたりを設けて“新興成金”を締めだしていた。オペラを観ながら、誰が来ているかをオペラグラスで観察し合う。お互いの富と特権を守るために、ファミリー同士の婚姻が模索された。しかし、資産だけで贅沢(ぜいたく)な生活を続けていた上流階級は、台頭してくる新興勢力の財力に押されていく。間もなく力関係は逆転した。1883年に、新興の富裕層の手によって新しいオペラハウスが39丁目に建てられた。
“メトロポリタン歌劇場”である。新劇場は特殊法人組織によって運営され、世界第一級の歌手、指揮者、演出家を招(しょう)聘(へい)するようになる。全世界のオペラ歌手が目指す檜(ひのき)舞台になり、20世紀初頭からは世界一のオペラハウスの名を恣(ほしいまま)にしている。

□ミュージカル映画「ウエストサイド物語」をご覧になっただろうか。イタリア系とプエルトリコ系の不良グループが抗争を繰り返した。あの物語の舞台になった“ウエストサイド”は最下層の移民が蠢(うごめ)くスラム街であった。1950年代から、この地域の大規模な再開発が進められることになる。その目玉として舞台芸術センターが建設された。“リンカーン・センター(Lincoln Center for the Performing Arts)”と呼ばれる。セントラルパークの西側の広大な敷地に、劇場・図書館・音楽学校などが建っている。その主なものには、ニューヨク・フィルの本拠地“エヴァリー・フィシャー・ホール(Avery Fisher Hall)”、市立バレー団の本拠地“ニューヨーク州立劇場(New York State Theater)”スパルタ教育の“ジュリアード音楽学校(Juilliard School of Music)”がある。1966年、“メトロポリタン歌劇場”もリンカーン・センター内に移転した。

□昼間、人気(ひとけ)のない“メトロポリタン歌劇場”を眺めると、平板な長方形の箱にしか見えない。これがオペラの殿堂かと訝(いぶか)るほどである。手前の噴水を入れて撮影しても絵にならない。ただ、全景を収めようとすれば、相当離れる必要があるので大きさだけは実感できる。入り口に、中国人作曲家タン・ドゥン(Tan Dun)の新作オペラ「始皇帝(The First Emperor)」の看板が目に入った(2007年1月)。三大テナーの一人プラシド・ドミンゴ(Placido Domingo)が演じるという。妻の目つきが変わった。が、残念。残念。チケットは完売だった。

 歌劇「始皇帝」ドミンゴ主演

三大テナーは随分活躍した。ルチアーノ・パヴァロッティー(Luciano Pavarotti)は“メト”の公演をすっぽかして出入り禁止になっている。70歳を越えた。テナーの世界も世代交代の時期に入ったようだ。
歌劇場のファサード(正面)は五つのアーチでアクセントがつけられている。扉を開けると、最上階ま
で吹き抜ける宏(こう)大(だい)な空間が広がる。正面の左右の壁に巨大なシャガールの壁画が描かれている。照明が入ると壁画が浮かび上がる。劇場に急ぐ人々はその柔らかな光を目にしてまず芸術の香りを呼吸する。開演は午後8時。

Z、辛口のニューヨーク小史
□ニューヨーク(NY)は言わずと知れた世界一の経済都市である。1609年、先住民が静かに暮らしてきた土地に波風が立った。ヘンリー・ハドソンという探検家がマンハッタン島に到着したのだ。ハドソンはオランダの“西インド会社”に雇われていた。アジアへの航路を発見しようとして、この地に踏み込んだ。黄金の島「ジパング」は見あたらなかったが、そこは天然の良港だった。瓢箪(ひょうたん)から駒が出たわけだ。西インド会社は新大陸の植民地経営に乗り出す。入植者たちは誰もが金儲(かねもう)けにやってきた。NYは夢想家によって築かれた都会ではない。清教徒たちが新天地を求めて上陸したマサチューセッツとはまるで違っていた。

□オランダ人たちは植民地「ニュー・アムステルダム」を築く。島の南端のハドソン川とイースト川に挟(はさ)まれた700m余りに、丸太で組んだ防壁(ぼうへき)を設けた。イギリス軍と先住民族の襲撃を防ぐためだった。周りの海と壁に囲まれた地区が“砦(とりで)”であり“交易所”でもあった。のちに壁は取り払われ、高層ビルの建ち並ぶ現在の“ウオール街”に発展していく。オランダ人たちは、先住民と交渉してマンハッタン島全土を買い取る。山手線の内側に匹敵する土地の購入代金が60ギルダー(24ドル)。先住民を騙(だま)してただ同然に奪い取った。オランダ人たちは先住民と毛皮の売買を始めた。交易、物流には荷物を運ぶための道路が必要になってくる。狩猟に使われていた北に伸びる細い小径が拡張されていった。これがマンハッタン島の南端から北に伸びる幹線道路「ブロードウエイ」になる。

□この島はやがて「ニューヨーク」と改名された。1664年、イギリス軍の占領下に置かれたのだ。
この頃には、ヨーロッパ各国の民族やユダヤ人が入り乱れて入植。黒人も奴隷として送り込まれていた。すでに人種の雑多さが特徴として現れている。入植者たちは英国の重税に反抗して次第に独立への機運を高めていく。ヨーロッパの入植者たちは、武力で先住民の撲滅(ぼくめつ)も進めた。邪魔になったのだ。部族同士の戦争を煽(あお)り相互の淘汰(とうた)を進めた。意図的に疫病(えきびょう)を広げることまでしたという。少数民族たる有色人種を抑圧しながら、自分たちの自由、とりわけ“利潤追求の自由”を追求した。1776年7月4日、アメリカは独立を宣言。1789年、ジョージ・ワシントンが初代大統領に就任した。NYは、一年間だけではあるが、アメリカ最初の首都になった。

□南北戦争にもNYは少なからぬ関わりを持っている。大統領候補を目指すアブラハム・リンカーンが奴隷反対の演説をした。NY市民は深い感動を覚え奴隷解放支持へ大きく傾いていく。ところが、貧しいアイルランド人たちが反乱を起こした。“徴兵事務所”を襲撃。同時に2000人の黒人をリンチで殺害してしまった。なぜ、そういう事件になったのか。真相はこうだ。1845年、アイルランドでは稀に見る凶作に見舞われ、多くの人が海外に脱出した。そのうち100万人がNYに到着。多くは悲惨な最下層階級を形成した。彼らは奴隷の黒人たちと最低の仕事を奪い合っていた。そんな黒人のためになぜ自分たちが闘わねばならないのか。受け入れられるはずがなかった。金持ちなら金を払って徴兵を免れるのに、自分たちにはその手だてもない。憤懣(ふんまん)が一挙に爆発したのだ。

□南北戦争(1861~1865)自体はさらに悲惨だった。双方合わせて62万人の戦死者を出して決着した。この戦争はアメリカの進むべき道を「産業主義」に求めるか「農本主義」を守るかの経済戦争でもあった。北部アメリカの商工業の中心であったNYは、北軍の勝利によって経済の首都として君臨することになる。北軍の勝利はNYの勝利だったといってもいい。この時代までに、NYは世界に君臨するのにふさわしい“インフラ”を整備していた。発明家・フルトンが蒸気船を実用化した。船は風の支配から解放された。NYからハドソン川を240km遡(さかのぼ)ってオルバニーまで航行できるようになる。さらにオルバニーからエリー湖畔のバファローまでの540kmが運河で結ばれた。この“エリー運河”の完成(1825年)によってNYと五大湖が水路で結ばれた。鉄道敷設前の“物流の大動脈”である。

□マンハッタン島とブルックリン地区を結ぶ“ブルックリン橋”の建設も、新産業技術を生み出した。イースト川の両岸に巨大な塔を建て、二つの塔に鋼索(鋼鉄のワイヤーロープ)を渡して橋を架けた。架橋には14年を費やし1883年に完成した。橋には70のアーク灯が取りつけられ闇の中に青白く輝いた。この橋の建設に伴い、製鉄、製鋼、鋼索の技術が進み、発電と給電の技術が開発された。“ブルックリン橋”で使われた技術を活用する形で、NYは摩天楼の都市へと変貌していくのである。建物の高層化を可能にしたのが“スティール”と“電気”。当時の最新テクノロジーである。スティールが建物の鉄骨とエレベーターのケーブルを作り、電気の力でエレベーターを昇降させた。

□1890年に、アメリカ合衆国政府は“フロンティア消滅”を宣言した。大資本が西部の未開拓地をすべて買収しつくしたのだ。この時期からマンハッタン島の建物は上へ上へと伸び始めた。企業はビジネスの中心地マンハッタンにオフィスを持つことがどうしても必要になってくる。鉄道網が広がり、やがて電化されて蒸気機関車が姿を消す。交通の便は地下鉄によっても促された。20世紀初頭のT型フォードの発表は第二の産業革命に火をつけた。輸送の主役は自動車に移っていく。19世紀末から20世紀初頭には、ロックフェラーの創設した“スタンダード石油”が全米の石油精製と販売を一手に取り仕切った。やがてパークウエイと呼ばれる高速道路が張り巡らされた。NYの外観は一変する。自動車と石油の時代へ入っていった。

□19世紀末期からどっと移住したのがロシア人、ポーランド人、ハンガリー人、イタリア人、ギリシャ人、そして東欧系のユダヤ人など、東欧や南欧からの“新移民”である。こうした移民たちはエリス島をへてマンハッタン島の南端にほとんど無一文で上陸した。移民たちの大量流入は工業労働者の需要の高まりを意味した。
1886年、ニューヨーク湾内のリバティー島に“自由の女神”が建てられた。フランス人外交官の有志らが、独立100周年を記念して贈った記念碑である。移民たちは老いも若きも自由の女神を見ながら入管のあるエリス島に上陸した。のちにマフィアのボスになる少年たちも同じだった。シシリー島を逃れ新世界への期待に胸を膨らませていたのだ。自由の女神が建立された後だけでも、エリス島に上陸した移民は1700万人にのぼるという。

□NYは宗教者や道徳家の集う都会ではない。本国で食い潰(つぶ)した者や一攫千金(いっかくせんきん)を狙う者で溢(あふ)れていた。資本主義社会は、巧みに時流に乗れる者を大金持ちにするが、波に乗れない者は犠牲にされる。とんでもない大金持ちとどん底の人々を抱えながら、NYは経済発展の道を邁進(まいしん)する。スラム街が高層ビル街を取り囲んでいく。そうすると、上流階級の金持ちたちは貧民を避けて北に北にと住居を移していく。ブロードウエイの遡上現象だ。当時のニューヨーカーには謙虚さなどという美徳はなかった。
上流階級の人間にとって、ブロードウエイのそぞろ歩きは、富をひけらかす手段でもあった。男も女も最新流行の服装にめかし込んでこれ見よがしに歩いたという。貧困な階級の人間はそれを見て欲望を刺激された。勤勉と倹約だけで大金持ちになれるという幻想は誰も抱かなかった。NYでは人間の貪欲さだけがエネルギーを生みだしたのである。

□アメリカが空前の好景気に沸いた時期が過去に二回あった。いずれも世界大戦のお陰だ。アメリカは戦時中には兵器や弾薬を一手に供給し、戦後は復興や生活に必要な消費財を賄(まかな)った。世界の工場の役割を果たした。1920年代、疲弊しきったヨーロッパと対照的に、無傷のアメリカは未曾有の繁栄を謳歌する。スコット・フィッツジェラルドは「ジャズエイジ」と名付けた。アメリカは30億ドルの赤字国から一転して30億ドルの黒字国に変身する。摩天楼はますます高くなっていった。“J・P・モルガン社”などウオール街の金融機関がヨーロッパに融資。世界経済を牛耳るようになった。自動車や家電製品といった一般大衆向けの商品が富を生むようになる。NYは広告、ラジオ放送、映画などイメージ創出の中心地でもあった。“大量消費文化”が花開く。1929年の大恐慌まで、株価はただひたすら上昇するものと誰もが信じて疑わなかった。

□NYウオール街の株価暴落以来4年間、世界の資本主義はその歴史上最も過酷な恐慌に見舞われた。1929年10月24日、木曜日。1920年代の金融ブームが砕け散った。株券は無価値な紙切れに変わった。政財界の大物から貧乏な労働者まで、無数のアメリカ人が蓄えを失った。その日のうちに金融業界の大物11人が命を絶った。“暗黒の木曜日”は世界恐慌に発展した。この経済破綻は楽天主義がもたらしたものだ。1925年以来、アメリカ経済は右肩上がりだった。熱狂的な取引の中で株価は連日史上最高を記録した。誰もが警戒心を喪失していた。気軽な分割払いと無謀な株式投資。バブルが膨れるだけ膨れて破裂した。世界恐慌は悪魔を生み出した。ヨーロッパではナチズムが牙を研いだ。不況に喘(あえ)ぐ日本は海外侵略に活路を見出そうとする。真珠湾を攻撃した。日本は破滅。アメリカは恐慌から解放されるきっかけをつかんだ。

□20世紀は“戦争の世紀”といわれる。20世紀は“アメリカの世紀”だったともいわれる。アメリカの一人勝ちだった。第二次世界大戦を制した道具は“航空機”だ。1903年、ライト兄弟が有人動力飛行に成功。1927年、リンドバーグがNY〜パリ間の単独無着陸飛行に成功。1930年代には、ジュラルミンの大量生産が可能になり、油圧機構を使った車輪の引き込み装置が採用された。第二次世界大戦でアメリカの軍用機が世界の空を制したことは言うまでもない。航空機産業の他にも、軍需産業が幅をきかせるようになった。世界最大の化学工業会社“デュポン”は第一次世界大戦に火薬製造で巨利を得た。第二次大戦では原爆製造にも当たった。デュポン財閥として知られる。巨大化した軍部と軍需産業との相互依存体制は“産軍複合体”と呼ばれる。アメリカ社会に根を張っていった。しばしば戦争挑発の一翼をになう。“死の商人”と呼ばれるゆえんだ。

[、「なぜ攻撃されるのか」
□第二次世界大戦以降は現代史に入る。物事は裏と表からみるのでは様子が違う。私は斜めから見る癖がついてきた。
ある新聞記事の数字が記憶から消えない。「2%の上流階級がアメリカの富の半分を受け取る。残り98%の国民は残された半分の富を分かち合う」とあった。数字の当否は差し置いても、アメリカが「超」のつく格差社会であるのは論を俟(ま)たない。ただ、それ自体はアメリカの内政問題だろう。困るのは、世界の中のアメリカが同じ構図の中にあることだ。現代のアメリカは“唯一の超大国”と呼ばれる。これは“唯一の特権国家”と言い換えても差し支えあるまい。
資源の獲得にしても、市場の形成にしても、金融の操作にしても、自国の利益になるように制度やルールを強要する。強大な軍事力を背景に強引な外交を進める。かつてのアメリカは、ナチや軍国主義と闘う「解放軍」であった。現代のアメリカをそのように見る人は少ないだろう。貧しい国の人々には、富を収奪する「怪獣」と映っているのではないか。

□2001年9月11日。“世界貿易センター”のツインタワーが崩壊。テロの犠牲者は2600人を越えた。
ABC放送のアンカーマン、ピーター・ジェニングス(Peter Jennings)は、事件発生から60時間、“新戦争”と呼ばれる事件を伝え続けた。冷静で客観的な報道姿勢を崩すことはなかった。「アメリカはなぜ攻撃されたのか」との問いを投げかけた。この冷静さを保った報道に非難の嵐が巻き起こった。「国家への忠誠心がない」「愛国的でない」「カナダ出身だから冷淡なんだ」。猛烈な抗議の電話が放送局に殺到したという。彼は20年間やめていたタバコを再び吸い始めた。強いストレスに耐えられなかったのだろう。偏狭なナショナリズムが渦巻く中で、彼は、その後の“イラク戦争”に対しても強い疑問を投げかけた。このためABCのニュース番組は視聴率が大きく落ち込んだという。2005年4月、ピーター・ジェニングスは肺ガンを患ったことを公表して番組を降板。その年の夏、67歳の命を閉じた。

□大統領はアフガン侵攻に踏み切った。首謀者オサマビン・ラディンを追討(ついとう)するためだ。アルカイダの温床タリバンも叩く。復讐の炎はそれだけでは収まらなかった。目の上の瘤(こぶ)、サダム・フセインの征伐(せいばつ)に乗り出す。アルカイダへ資金援助。大量破壊兵器の隠匿。開戦の理由を未確認情報の中に求めた。同盟国も恫喝(どうかつ)して戦争協力を強いた。フランスとドイツは拒否。国連安保理の決議が得らないまま、アメリカ単独の先制攻撃になった。空爆とミサイル攻撃で厖(ぼう)大(だい)な砲弾を撃ち込む。地上軍が入って戦争はお仕舞(しま)いかと思われた。それが、そうならなかった。アフガニスタンではタリバンが息を吹き返している。イラクは内戦状態になった。傀儡(かいらい)政権は機能しない。サダムは処刑されたが、どこかピント外れの感がある。アメリカ兵の消耗も増えている。アメリカ国民には戦費のツケが回される。アメリカは泥沼に足をとられたのだろうか。闇の迷路に入ったのだろうか。例外的に利益を享受しているものもいる。それは軍需産業だ。

□「アメリカはなぜ攻撃されるのか」。アメリカ人は依然として答えようとしない。論外とばかり“テロ支援国家の先制攻撃論”まで飛び出した。ネオコンはホワイトハウスを牛耳っているといわれる。メディアに対しては攻撃的である。ピーター・ジェニングスの問いは圧殺されたのか。彼の死は無駄だったのだろうか。アメリカ人は“自由”の理念に最高の価値を置くといわれる。“自由の女神”はアメリカの象徴だ。自由競争、自由貿易、自由恋愛。何でも“自由”の冠(かんむり)をつけてお題目を並べる。本当に“自由”が好きだ。しかし、“自由の行使”には「えっ」と驚くことがある。強者、勝者のための“自由”である場合が多いからだ。アメリカのメディアは、社会の不公正や矛盾を暴き“真の自由”を守るために一定の役割を果たしてきた。そのメディアがいま揺れている。
ネオコンの攻撃を受ける。危うい愛国主義・ナショナリズムの風圧にさらされている。アメリカの良き伝統“言論の自由”“報道の自由”は千の暴風に乗って吹き飛ばされるのだろうか。

□世界貿易センターの跡地は“グランド・ゼロ(爆心地)”と呼ばれた。惨状が広島の原爆ドームに似ていたので一時この名が定着した。これに批判が起こった。核攻撃でもないのに無神経だと指摘された。当時は、それほど衝撃が大きかったのだろう。いまは単に「ワールド・トレード・センター・サイト」と呼んでいる。跡地には当時の惨状を物語るような残骸は残っていない。臭気も消えて落ち着いている。ブルドーザーやダンプカーが行き交い、新しいビルを建てる基礎工事が続いている。
新しい高層ビルは2010年代の完成を目指している。高さは「アメリカ独立の年」にちなんで“1776フィート(541m)”と決定された。残念ながら、ニューヨーカーが好きな「世界一の高さ」にはならない。アラブ首長国連邦のドバイに建設中の「ブルジュ・ドバイ(Burj Dubai=ドバイの塔)」が800mから1000mの超高層ビルになるといわれているからだ。
新しいビルは「フリーダム・タワー(Freedom Tower=自由の塔)」と名付けられる。テロの脅威に屈しない“自由”を象徴する形にするという。

国連本部

\、私の好きなミュージカル
▽1927年初演
「ショー・ボート(Show Boat)」ジェローム・カーン(Jerome Kern)作曲。ミュージカルの元祖。主題歌は「オールド・マン・リバー(Ol’ Man River)」。
▽1935年初演
「ポーギーとベス(Porgy and Bess)」。ジョージ・ガーシュイン(George Gershwin)作曲。最大のヒット曲は「サマータイム(Summer time)」。
▽1943年初演
「オクラホマ(Oklahoma)!」。リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)作曲。軽快な主題曲「オクラホマ(Oklahoma)」はオクラホマ州の州歌になった。「美しい朝(Oh, What a beautiful mornin’)」「飾りのついた四輪馬車(The surrey with the fringe on top)」。
▽1945年初演
「回転木馬(Carousel)」。リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)作曲。
「もしもあなたを愛したら(If I loved you)」「六月は一斉に花開く(June is bustin’ out all over)」「人生一人ではない(You’ll never walk alone)」。
▽1946年初演
「アニーよ銃をとれ(Annie,Get Your Gun)」。アービング・バーリン(Irving Berlin)作曲。血湧き肉躍る名曲「ショーほど素敵な商売はない(There’s no business like show business)」。
▽1949年初演
「南太平洋(South Pacific)」。リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)作曲。
「魅惑の宵(Some enchanted evening)」
「バリ・ハイ(Bali Ha’i)」「素敵な人に恋をしてるの(I’m in love with a wonderful guy)」。
▽1951年初演
「王様と私(The King and I)」。
リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)作曲。
シャム王と英国人の家庭教師アンナが踊る「シャル・ウイ・ダンス(Shall we dance ?)」は有名。
▽1956年初演
「マイ・フェアー・レディー(My Fair Lady)」。フレデリック・ロウ(Frederic Loewe)作曲。名曲揃い。「踊り明かそう(I could have danced All night)」「スペインの雨(The rain in Spain)」
「君住む街(On the street where you live)」「運がよけりゃ(With a little bit of luck)」。
▽1957年初演
「ウエストサイド物語(West Side Story)」。レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)作曲。
「ロミオとジュリエット」のアレンジ。激しい踊りと歌。「マリア(Maria)」「アメリカ(America)」「サムウエアー(Somewhere)」「トゥナイト(Tonight)」。
▽1959年初演
「サウンド・オブ・ミュージック(The Sound of Music)」。リチャード・ロジャーズ(Richard Rodgers)作曲。主題歌「サウンド・オブ・ミュージック(Sound of music)」「ドレミの歌(Do-Re-Mi)」「エーデルワイス(Edelweiss)」「すべての山に登れ(Climb ev’ry mountain )」「さようなら、ごきげんよう(So long Farewell)」。
▽1964年初演
「屋根の上のバイオリン弾き(Fiddler on The Roof)」。ジェリー・ボック(Jerry Bock)作曲。
「サンライズ、サンセット(Sunrise,sunset)」。
▽1966年初演
「キャバレー(Cabaret)」。
フレッド・エッブ(Fred Ebb)作曲。迫るナチ。退廃ムード。タイトル・ナンバー「キャバレー(Cabaret)」オープニング「ウエルカム
(Welcome)」。
▽1971年初演
「ジーザス・クライスト・スーパースター(Jesus Christ Superstar)」。アンドリュー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd Webber)作曲。ロック・オペラ。「私はイエスがわからない(I don’t know how to love him)」「スーパース(Superstar)」。
▽1975年初演
「コーラスライン(A Chorus Line)」マーヴィン・ハムリッシュ(Marvin Hamlich)作曲。失意のアメリカに希望を。「愛した日々に悔いはない(What I did for love)」「ミュージック・アンド・ミラー(The music and the mirror)」「ワン(One)」。
▽1975年初演
「シカゴ(Chicago)」。ジョン・カンダー(John Kander)作曲。犯罪女が無罪放免。スターに這(は)い上がる。「オール・ザット・ジャズ(All that jazz)」。
▽1978年初演
「エヴィータ(Evita)」。アンドルー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd Webber)作曲。
エヴィータが群衆に語りかける「アルゼンチンよ泣かないで(Don’t cry for me,Argentina!)」。
▽1981年初演
「キャッツ(Cats)」。アンドルー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd Webber)作曲。
ブロードウエイで前代未聞の7485ステージを記録。娼婦猫グリザベラが歌う「メモリー(Memory)」。
▽1985年初演
「レ・ミゼラブル(Les Miserables)」。クロード・ミッシェル・ショーンベルグ(Claud Michel Schomberg)作曲。歴史的大ヒット作。エポニーヌが切なく歌う「オン・マイ・オウン(On my own)」革命へと鼓舞する「民衆の歌(Do you hear the people sing)」「夢やぶれて(I dreamed a dream)」「ワン・デイ・モア(One day more)」。
▽1986年初演
「オペラ座の怪人(The Phantom of The Opera)」。アンドリュー・ロイド・ウエーバー(Andrew Lloyd
Webber)作曲。主題歌「オペラ座の怪人(The phantom of the opera)」「Think of me」「歌の天使Angel of music」「夜の歌The music of the night」「マスカレードMasquerade」「The point of no return」。
▽1989年初演
「ミス・サイゴン(Miss Saigon)」。クロード・ミッシェル・ショーンベルグ(Claud Michel Schomberg)作曲。「蝶々夫人」のヴェトナム版。「アメリカン・ドリーム(American dream)」。

TOPへ