エジプトを旅する人は
誰もがラムセスに遭う

 

    紫垣 喜紀
     2009
222日記

私たちは、200810月、エジプトを訪れた。正味1週間、駆け足の観光である。砂漠に聳えるピラミッドには目を丸くした。ツタンカーメン王の黄金の仮面にも目を奪われた。朝早い強行軍にへきえきしながらも、物珍しい風物を楽しむことができた。

旅を続けるうちに、おやと思い当たることがあった。どこの遺跡を訪ねても、きまって同じ人物の像が目の前に現れるのだ。このキャラ立ちのする人物は誰なのだろう。そんな疑問から、エジプトの古代史を多少かじってみた。そこから浮かび上がった人物像をまとめたのが、このレポートである。

ピラミッドが築かれた古王国時代からは1000年後、黄金の仮面をまとったツタンカーメンの時代からは50年後、美貌のクレオパトラの時代より1200年前のエジプトが舞台となる。今から凡そ3300年も昔のドラマである。

主役の名は “ラムセス二世(RamsesU)”。古代エジプトを最盛期に導き、最も偉大なファラオと呼ばれる人物である。

1 ヒエログリフは解読された

フランスの皇帝、ナポレオンはエジプトにも遠征している。1798年に軍を進めた。翌年、フランス軍がナイル河口に近いロゼッタ島に要塞を建設していた時、奇妙な文字の刻まれた黒色玄武岩の石碑が見つかった。高さ1m14cm、幅72cm、厚さ28cmの大きな石の塊である。これこそ“ロゼッタ・ストーン”の発見であった。

碑には三種類の文字が刻まれていた。古代エジプトの象形文字“ヒエログリフ”、その崩し字である“デモティック”、それに“ギリシャ文字”の三つである。ナポレオンはその重要性を認め、銘文を複写してヨーロッパの学会や学者に配るよう命じた。

1822年、フランスのジャン・フランソワ・シャンポリオンが石碑の正確な解読に成功する。書籍商の息子だった彼は、古代世界や古代言語の研究に天性の才能を持っていた。

彼は、持てる知識を駆使して文字の解読に没頭。独力でエジプト学の基礎をも築いたのである。シャンポリオンによって、象形文字“ヒエログリフ”と、“デモティック”に「音」と「意味」が与えられた。忘れ去られていたエジプト古代文字の解読が可能になったのである。

“ロゼッタ・ストーン”には何が書かれていたのだろうか。紀元前196年、プトレマイオス朝の時代、神官会議が開かれ「王の像を建立して各神殿に祭ること」を申し合わせた。石碑にはその会議の内容が、三種類の文字を使って併記されていた。ヨーロッパの言語学者の手によって、古代エジプト世界の扉が再び開かれたのである。

ナポレオンのフランスは、エジプト遠征のあと中近東政策に失敗。英仏の勢力地図が塗り替えられることになった。1801年、アレキサンドリアがイギリス軍の手に落ちると、エジプトの文化財はことごとくイギリス軍に接収された。貴重な古代エジプトの遺産が次々にイギリス本国に送られた。“ロゼッタ・ストーン”の至宝は今もロンドンの“大英博物館”に所蔵されている。

2 古代文字はなぜ忘れ去られたか

5000年も前に生み出されたといわれる象形文字“ヒエログリフ”。この古代エジプトの言語は何時しかエジプトの人々にすら忘れ去られていた。さすが悠久の歴史を誇るエジプトならではの出来事であろう。

ナイルの河口に興ったエジプト文明。天変地異に脅かされながら栄枯盛衰を繰り返した。異民族にも脅かされた。紀元前1670年からの一時期、アジアから攻めてきたヒクソスの支配を許した。その後、再び王国は復活する。

しかし、紀元前1000年頃からは、国の勢いが衰え、頻繁に異民族の侵入を許すようになる。エジプトの土着王国に陰りが出ると、リビア人、エチオピア人、アッシリア人、ペルシャ人が次々に肥沃なナイル・デルタを支配した。

紀元前332年には、アレキサンダーの率いるマケドニアの支配下に入った。部下のプトレマイオスが興した王朝は凡そ300年続く。最後の女王クレオパトラが毒を仰いで王朝は滅亡した。歴史的には、この出来事をもって3000年に及んだ“古代エジプト王国”が終わったと見なされている。

こうして、紀元前30年から、エジプトはローマ帝国の皇帝直轄領に組み込まれる。この時代以降、久しくエジプトに王国が再興されることはなかった。

7世紀に入ると、イスラムの諸勢力がエジプトを支配するようになる。16世紀から近世まではオスマン・トルコの属領となっていた。この長いイスラム時代に、エジプト社会にはアラビア語とイスラム教が定着した。このアラビア文化は現代まで存続している。今もエジプトの公用語はアラビア語。宗教は国民の90%がイスラム教・スンニ派である。

近世に入ると、ヨーロッパ列強の干渉を受ける。エジプトが真に独立を果たしたのは、ムハマンド・アリが、1805年、王朝を再び樹立するまで待たなければならなかった。エジプトは近世に至るまで2000年以上にわたって、実質的に異民族の支配を受け続けていたのである。異民族支配は、同時に異民族の言語支配を意味する。ギリシャ・ローマ時代にはギリシャ語とラテン語。イスラム時代にはアラビア語。帝国主義時代には英語に支配された。

外国語を強制されているうちに、エジプト人は ヒエログリフを忘れ去ったのである。

ヒエログリフの象形文字が忘れ去られたのには、もう一つの理由があった。エジプトの気候風土にも災いされたのだ。神殿や宮殿といった古代エジプト王朝の建造物は、多くが砂丘に埋没していった。石柱や壁に刻まれていたヒエログリフは、近代の考古学者が発掘するまで闇の中に眠らされていた。

3 ヌビアは地の果てにあった

 エジプトの国土は95%が砂漠に覆われている。人々は古代から肥沃なナイル河の流域に住み着いた。エジプトはナイルの賜物といわれる由縁である。ナイル河は全長6695km。世界最長の大河である。エジプトを貫流するのは、このうちの凡そ1100km。今でも、エジプトの大きな都会や古い遺跡はすべてナイルの河畔に広がっているといえる。

地図を眺めながら、ナイル河を地中海から上流へたどってみる。

地中海の沿岸にはエジプト第二の都市“アレキサンドリア”がある。クレオパトラ時代の首都である。

アレキサンドリアから220km南に遡ると、ナイル・デルタの扇の要の部分に首都“カイロ”が存在する。周辺に巨大ピラミッド群が並ぶ。

カイロから凡そ500km、空路で南に一時間飛ぶと、ナイルの中流に“ルクソール”の町が現れる。古代名では“テーベ”と呼ばれた。巨大な神殿群やファラオたちが眠る王家の谷で有名だ。そこから更に200kmほど遡ると“アスワン”の町に到達する。そこにはナイルを堰き止めている現代の巨大構造物、世界最大の人造湖をたたえるアスワン・ハイダムが横たわっている。

古代エジプトの時代には、エジプトの南の国境はこのアスワン周辺だった。ここより南は“ヌビア地方”と呼ばれ、忘却の淵に落ちたような未開の土地だった。死に神と幽霊のでる地とも言われた。今でも荒涼たる砂漠の広がる過疎地帯であることに変わりはない。しかし驚くべき事に、このヌビア地方にエジプト観光に欠かせない最大のポイントの一つがあるのだ。

アスワンから更に南に280km。蜃気楼の浮かぶ砂漠の中の舗装路をバスで走ること4時間。北回帰線を越えて紛れもない熱帯地方に入る。

スーダン国境が間近に迫ったところで“アブ・シンベル”という地名の町に到着する。この小さな町は、最高の世界遺産があることで、世界的に知られるようになった。

4 岩窟神殿が流砂から現れた

1813年3月、一人の探検家がヌビア地方を旅していた。スイス人のブルクハルトである。「地の果てに不思議な神殿があるらしい」。嘘とも本当ともつかない噂だけを頼りに、カイロからナイル沿いにやってきたのだ。無人の地の単独旅行である。ボロをまとったブルクハルトは疲労困憊していた。ナイル河西岸の崖に沿った坂を下りながら砂に呑まれそうになった。砂から這いだした彼は思わず目を疑った。岩陰から大きな彫像が視野に飛び込んできたのだ。近づいてみると、彫像は他にも五基あった。男性と女性の像が交互に立っていた。

彼はさらに周辺を探索する。そこから南に200歩ほど砂丘を登ったところに、新たに四基の巨大な男性の彫像が砂の上に飛び出しているのを見つけた。顔は端正で豊かな表情をたたえている。が、何よりもその大きさに圧倒された。耳や鼻や唇の大きさだけでも、それぞれの長さが1m以上はある。しかし、岸壁を刻んで造られた像は風に運ばれてきた流砂にすっぽり埋もれていた。

ブルクハルトは何を発見したのか丸で見当もつかなかった。それでも、生涯で最も大きな成功の喜びにひたった一日だった。彼は勇躍、カイロに帰る。しかし、そこには不運が待ち受けていた。彼は食べた魚にあたって落命した。

砂を取り除いたのはイタリアの探検家ベルツォーニだ。身長2m、体重100kgの巨漢は、一攫千金を夢見てエジプトにやって来た。

1817年、周りの砂が除去されると、彫像は全貌を現した。彫像の後ろには、岩盤をくり抜いた巨大な岩窟神殿が隠されていたのだ。宝物は発見できなかったものの、神の聖域に入るという意識に、ベルツォーニは不安と畏怖の念を覚えたという。神殿内部には、神々の立像が置かれ、壁面には様々なレリーフ(浮彫)が描かれている。同じ壁面に古代エジプトの象形文字ヒエログリフが刻まれていた。

「辺境の地に巨大神殿を造営したのは誰か」。この時も、この疑問に誰も答えられなかった。碑文が読めなかったのである。その時点で、ヒエログリフを読める人間は、世界中に誰一人として存在していなかった。

それから凡そ10年後、神殿の謎が解き明かされることになった。真打ちの登場である。

あの古代言語学の異才シャンポリオンが、1826年、神殿を訪れた。ヒエログリフの解読に成功したばかりの彼は2週間にわたって神殿に留まり調査を進めた。碑文はすべて解読された。 「余、ラムセス二世はエジプトを新たに創った」「余の威光は、まさに朝昇る太陽のごとく、敵の手足を焼いた」

この傲慢とも思える碑文を記させた人物は、古代エジプトを最盛期に導いたと讃えられるフ

ァラオ“ラムセス二世”である。神殿は、ラムセスを祭った“アブ・シンベル神殿”であることが判明した。

5 ラムセスは神になっていた

アブ・シンベル大神殿の正面にあるラムセス二世の座像 中央に神殿入り口が見える

ラムセス二世が造営させた“アブ・シンベル神殿”は大小二つの岩窟神殿から成っている。神殿全体が大きな岩の塊から刻み出されている。石を組み合わせて造ったものではない

“大神殿”は幅38m、高さ32mの建造物である。正面入口の崖にはラムセス二世の座像が四基並んでいる。座像の高さは20m。左から二番目の像は上半身が崩れ落ち、いまも足許に頭部が転がっている。神殿が完成してから7年目に、大地震によって崩落したと伝えられる。

ラムセス二世の像は、王を守護するコブラの頭を額につけ、王権を表す頭巾と王冠を戴いて、両手を膝にのせている。巨大な石像は豊かな表情と見事なプロポーションを保っている。

岩山をくり抜いた神殿内部は、大列柱室、第二列柱室、控えの間、至聖所が縦一列に並ぶ。入口から最深部までの距離は54mに及ぶ。それぞれの壁面には、多彩なレリーフとヒエログリフがところ狭しと刻み込まれている。

大列柱室には、ラムセス二世の8体の立像が2体ずつ向かい合って並んでいる。ラムセスは再生復活の神オシリスの姿をしている。部屋の壁面に彫られたレリーフには、海外遠征したエジプト軍の戦闘場面が描かれている。強弓を引くラムセス二世の勇姿は躍動的だ。

一番奥にある“至聖所”は神殿の心臓部である。八畳ほどの小さな部屋には、この神殿に祭られている四人の神々の座像が置かれている。

冥界を支配するプタハ神、この時代の国家神であったアメン・ラー神、神格化されたラムセス二世、太陽神のラー・ホルアクティ神。

神々の列の中にラムセスが座っている。在位24年にして、「人神」「現人神」となっていたのだ。

これらの神像は年に二回、神殿内部に射し込む朝日に数分間照らし出される。222日と1022日である。太陽の奇跡と呼ばれた。ラムセス二世の誕生日と即位の日に、この現象が起こるという言い伝えもある。

この日、神々は太陽から新たなエネルギーを充電するのだ。ただ、闇を支配するプタハ神に光が当たることはない。他の神々が光に照らされる時にも、この神だけは薄闇に包まれているという。この光のショーを可能にしたのは、測量術と占星術を駆使した古代建築の名人芸であった。

“小神殿”はラムセス二世が最愛の王妃ネフェルタリに捧げた神殿である。大神殿の北100mの岩盤に、大神殿に先立って造られた。小神殿の正面には、高さ10mのラムセス二世とネフェルタリ王妃の立像六体が並び、奉納碑文で飾られている。アブ・シンベル神殿の発見者、ブルクハルトが最初に見つけた彫像である。碑文にはこう記されている。

「ラムセス二世がネフェルタリ王妃のために、この岩窟神殿を造った。永遠に、朝日は王妃のために昇る」。

6 アブ・シンベル神殿が湖に沈む

“アブ・シンベル神殿”は紀元前1286年に建設を始め、前1267年に完成したと推定されている。今から3300年の昔である。規模からいっても、完成度からいっても、保存状態の良さから見ても、最も優れた世界遺産の一つだといわれる。旅のガイドブック「地球の歩き方」の編集部は、エジプト各地にある巨大建造物の「ベスト10」を紹介している。その第一位に挙げているのがアブ・シンベル神殿である。

古代エジプトの歴史を刻んだ貴重な巨大神殿には、現代に入ってからも新たなエピソードがつけ加えられた。

ナセル大統領は、1960年、世界最大級のロックフィールダム“アスワン・ハイダム”の着工に踏み切った。このプロジェクトが完成すると、上流500kmにわたって広大な人造湖“ナセル湖”が出現することになる。アブ・シンベル神殿は水没の危険にさらされた。この緊急事態を回避するために、国連のユネスコ(国連教育科学文化機関)が動いた。

ユネスコの指導により、「ヌビア遺跡救済運動」が世界規模で進められた。岩窟神殿の移転という危険でデリケートな作業が1964年から始まる。この史上最大の作戦には、フランス、ドイツ、イタリア、スエーデン、エジプトの学者や技術者4000人が参加した。ドイツの土木建設会社を中心に企業連合が結成された。砂漠の真ん中に一大バラック都市が出現。飛行場まで作られた。費やした移転費は4000USドルに上ったという。

移転方法はスエーデンの研究者の案が採用された。大神殿は807個のブロックに、小神殿も235個のブロックに分けて切り取られていく。それぞれのブロックは崩壊を防ぐための化学処理が施された。総重量は40万トン。切断されたブロックは、大きなものでは30トンもあった。刻々と上がるナセル湖の水位に追われながら切断作業が続いた。

1000個以上の岩石の塊は、大型のクレーンやトラックを使って、元の位置より北西に約208m離れた高台に運ばれた。特殊な接着剤を使って寸分違わず復元されていく。人間が作りだした史上最大のパズルの組み立てだった。

アブ・シンベル神殿が元の姿を見せたのは4年後の1968年のことである。移転された神殿は、巨大な鉄筋コンクリートのドームに収められ、周りを砂や岩でカムフラージュされている。古代と現代の建築技術の粋を結集した壮大なコラボレーション。多くの話題を秘めたアブ・シンベル神殿は、今ナセル湖の畔に静かなたたずまいを見せている。

この大事業を契機に、危機に瀕した世界の文化財や自然の遺産を守ろうという機運が高まった。1972年のユネスコ総会は「世界遺産条約」を採択する。加盟国の拠出する基金で遺産の修復や保護にあたることになった。神殿の移転は世界遺産制度の創設にもつながったのである。アブ・シンベル神殿こそ、“世界文化遺産”の第一号である。

7 ラムセス像がまかり通る

「ラムセス、偉大なる勝者、真理を守る太陽の王」

ヒエログリフを解読してエジプト学の扉を開いたシャンポリオン。彼は誰よりもラムセス二世の崇拝者となり、最大級の讃辞を残している。

ラムセス二世は、紀元前1290年頃から前1224年頃まで凡そ67年間の長きにわたってエジプトに君臨したファラオである。厳密に言えば、“古代エジプト新王国時代、第19王朝の王”という物々しい肩書がついている。

エジプトを最盛期に導き、エジプトの文化を輝かせたファラオ。エジプトを旅する人は、あらゆる場所でラムセスに出遭う。ラムセスが建設し、修復した数え切れない建造物に、その足跡を残している。 

ラムセスとネフェルタリが君臨する二つの神殿は既に述べた通りである。

ルクソールにある世界最大の神殿建築複合体“カルナック神殿”の大列柱室。これもラムセスが造らせた。勿論ラムセスの巨像が立っている。

その近くにある“ルクソール神殿”も大半がラムセスの寄進によるものだ。当然ながらラムセスの巨大な立像と愛妻ネフェルタリの座像がある。

ルクソール郊外には広大な“ラムセス二世葬祭殿”がある。シャンポリオンによって“ラムセウム”と名付けられた。これは死後の神殿である。

長く首都として栄えたメンフィスは、戦争やナイルの氾濫で町の形跡はなくなっている。そんな廃墟にすら、体長15mのラムセスの巨大な彫像だけは横たわっているのである。

廃墟になったメンフィスにも 馬鹿でかいラムセス二世の像だけは残っている

そのラムセスも日本では意外に知名度が低い。日本人の平均的なエジプト観とはどんなものだろうか。巨大ピラミッドとスフィンクス、ファラオが眠る王家の谷、ファラオや王妃たちのミイラ、ツタンカーメン王の黄金のマスク、美貌の女王クレオパトラ、月の砂漠を歩むラクダ。ナイルに沈む夕日。私の想像力もせいぜいそんなところだった。

ところが、最大のピラミッドを造らせた古王国時代のクフ王ですら、残されている像は高さ7.5cmの小さな座像一つにすぎないのだ。

ラムセスが残した彫像は他のファラオたちに比べて、群を抜いて多いのである。

他のファラオを束にしてもかなわないほど沢山の建造物を一人で残している。しかも、一つ一つが驚くほど壮大なのである。やはり旅はするもの。エジプト観光を終えて、ラムセスが、エジプト史上最強の権力者であったことを教えられたのである。

8 宿敵ムワタリの罠にはまる

紀元前1286年の春、ナイル・デルタ東部にある首都ペル・ラムセスから、エジプト軍が土埃をあげて出陣していった。ラムセス二世は、二頭の駿馬が引く戦車に乗り、四隊からなる軍の先頭を切って前進していた。各隊は5000の兵からなり、それぞれアメン、ラー、プタハ、セトを守護神としていた。四軍団、戦車2500台、兵2万。エジプトから進撃した最大の軍団である。

25歳の若いファラオは鋭く前を見据え、進路を北にとった。

時を同じくして、北からは、ラムセスの軍に倍する勢力のヒッタイト軍が南下していた。

戦車3500台、兵4万である。現トルコの山岳地帯に興ったヒッタイトは、世界で初めて鉄を生み出した国としても知られる。蛮勇を誇るヒッタイト軍は、戦略や謀略に長けた皇帝ムワタリに率いられていた。

それから一か月後の4月の下旬、両雄はシリアの領有権を賭けて戦闘を交えることになるのだ。両軍が目指しているのはオロンテス川の畔にある“カデシュ砦”であった。

ラムセスは、パレスティナ南端のガザに到着した時、各軍団から外国人傭兵3000を選抜して別働隊を編成した。本隊はパレスティナの内陸を進軍、別働隊には地中海の海岸沿いにカデシュ砦に向かうよう命じた。この別働隊が後にラムセス絶体絶命の窮地を救うことになるのである。

内陸を進んでいたラムセスに朗報がもたらされた。エジプト軍の動静を探っていた敵のスパイが2人捕まったのだ。尋問したところ、ヒッタイト軍はカデシュの後方100kmの地点にあり、カデシュ砦には少数の守備隊しかいないことを、あっさり白状した。

ラムセスは我が意を得たりとばかり、すぐさま軍議を開いた。「即刻カデシュ砦を攻め落とし、遠征に決着をつける」。

ラムセスは強行軍を命じた。しかし、これによって各軍団の間隔がそれぞれ10km以上も離れてしまった。これは戦術的にとても危険なことらしい。しかし、血気盛んなラムセスは、それを丸で意に介さなかった。

紀元前1286424日、ラムセスと第一軍団はカデシュの北西の地点に到着した。

遙かカデシュ砦を望める平原だ。第二軍団はまだ10kmの後方を進んでいる。ラムセスが本陣を作り、王座に座った時、ヒッタイト兵2人が引き立てられてきた。敵の斥候だった。

2人は拷問によって思いがけない事実を白状した。ヒッタイト軍は既にカデシュに集結しているというのだ。

ラムセスは顔色を失った。偽の情報に踊らされていたのだ。皇帝ムワタリの罠にはまったとは! 4万の兵はとっくに息を殺して隠れている。史上最大の“隠れん坊”作戦に巻きこまれてしまった。

9 ラムセスは強弓を引き絞った

時は既に遅かった。ラムセスの本陣に近づいていた第二軍団に悲劇が起こっていたのである。満を持していたヒッタイトの戦車隊が砦の裏から出陣。御者、楯持ち、槍兵の3人が乗った二頭立ての戦車2500がオロンテス川の浅瀬を渡った。攻撃目標は先鋒の第一軍団ではなかった。後ろから行軍していた第二軍団の側面を急襲した。重装備で先を急ぐ第二軍団は戦闘態勢をとれないまま、あっという間に壊滅してしまった。

ラムセスが状況を把握できないうちに、敗残兵が第一軍団の集結地にもなだれ込んできた。後ろからヒッタイトの戦車が砂塵をあげて追走してくる。味方の敗走に触発されて、第一軍団までが浮き足だった。恐怖にかられ、兵はわれ先に逃げ始める。敵戦車がそのエジプト兵たちを蹂躙していった。

ラムセスに自軍を立て直す余裕はなかった。鎧をつけ、戦車に馬を着けさせ、それに乗るだけで精一杯だった。「アメン神よ、われを助けたまえ!」。大声を発すると、御者メナを叱咤しながら、敵戦車群の真只中に飛び込んでいった。少数の親衛隊がそれに続く。巨漢ラムセスは強弓を引いて敵兵を射抜いた。敵の戦車が次々に転覆した。神がかりの状態で戦うラムセス。彼を駆り立てたのは、敵の謀略に対する怒りとエジプト兵の不甲斐なさへの憤怒だったのだろう。3人乗りのヒッタイトの戦車はラムセスを捕捉できなかった。彼は返り血を浴びながらも無傷で闘った。エジプトの戦車は2人乗りで機動性に優れていたからだ。ラムセスは孤軍奮闘、突破口を開くべく死中に活を求めた。しかし、敵は次々に新手を繰り出してくる。武運つたなく万事休したかに思えた。そこに、思いがけない奇跡が起こった。

海岸沿いに北上してきた別働隊が、ラムセスの許に駆けつけたのである。外国人傭兵3000で構成した別働隊である。ラムセスは危機一髪、窮地を脱した。一息ついて戦場を見渡すと、意外な光景が目に入った。勝利を確信した多くのヒッタイト兵が、戦車を降り、戦勝品の略奪に夢中になっている。攻守は逆転した。エジプト軍は、烏合の衆と化したヒッタイト兵を襲った。

皇帝ムワタリは、この戦況の変化を把握できずにいた。遠くの高台に本陣を構えたムワタリは、舞い上がる砂塵に視界を遮られたのだ。ムワタリは、温存していた新手の戦車1000に出撃を命じた。

ラムセスにとどめを刺すべきこの命令も、わずかに時を逸していた。遅れていたエジプトの第三軍団が戦場に到着したのである。ヒッタイトの戦車隊は押し返され、総崩れになっていった。ヒッタイト兵は、先を争ってオロンテス川を渡り、カデシュ砦に逃げ帰った。こうして、長かった戦場の一日が暮れていった。

10 カデシュ砦は落ちなかった

これが古代戦史に名高い“カデシュの戦い”である。古代オリエント世界に並び立ったエジプト王国とヒッタイト王国。その両雄がシリアの利権と覇権を争った決戦である。世界で初めて軍事記録が残された戦闘でもある。

結果は、強いて言えば、痛み分けに終わった。だが、ラムセス二世にとっては、戦略目標の “カデシュ砦”を落とせなかった。それどころか、一時は、エジプト軍全滅の危機に曝されてしまったのである。その窮地を別働隊に救われた。  

別働隊を構成した外国人傭兵とは何人だったのだろうか。学者の中には、ヘブライ人だったとする説を主張する人がいる。そうだとすれば、後に不倶戴天の間柄になるユダヤ人に、エジプト軍が救われたことになる。

いずれにせよ、カデシュの戦いはこれで終わった。多くの犠牲を出したエジプト軍に、砦を攻める余力は残されていなかった。ヒッタイトにしても、大軍を賄う兵糧が不足し始めたのだ。双方は停戦に合意して兵を返し、戦場を後にした。帰途に就いたラムセスもムワタリも、やがて遠からず相まみえて決着をつけると、心に誓ったことだろう。しかし、歴史が二人を再び対決させることはなかった。カデシュの戦いから5年後、皇帝ムワタリがこの世を去ったからである。

ラムセスは、自己顕示欲の権化だったともいわれる。掃いて捨てるほど残された立像や座像を見ただけで、明らかである。カデシュの戦いを終えたラムセスは、首都ペル・ラムセスに凱旋する。出迎えた民衆には、ヒッタイトを打ち負かしたかのように振る舞った。辛うじて引き分けに持ち込んだ戦いを、勝利したかのように喧伝したらしい。それから間もなく、アブ・シンベル神殿の建築を命じたのである。

神殿の壁には、カデシュの戦闘場面を描かせた。強弓を引くラムセスの勇姿が、ひときわ大きく浮き彫りにされている。神殿の壁には、ラムセスを讃える詩が、ヒエログリフで彫られている。

「余はまさに朝昇る太陽神ラーのごとく、余の威光は敵の手足を焼いた」。

ラムセスの好敵手、ヒッタイト王ムワタリの言葉も彫らせている。

「汝(ラムセス)を恐れる気持ちが炎のようにヒッタイトの国を襲う」。

ラムセスの臣下の叫びも書かせた。

「王に触れるな。さもなくば、王の炎の熱さに焼かれん」。

“敵からはかくも恐れられ、臣下からはかくも崇められたファラオ”。そんな力強く偉大な王の姿が表現されている。自らは傲慢を超えて、神と自分とを同じ高さに置いた。「人神」「現人神」になったのである。

11 平和条約が神殿に刻まれた

ヒッタイトが新しい皇帝ハットウシリ三世の時代に入っても、両国の小競り合いは続いた。しかし、決定的な会戦はなかった。そのうちに中東情勢に変化が現れる。チグリス川の上流ニネベを中心に、アッシリア王国が大きく勢力を拡張してきた。エジプトとヒッタイトは重大な脅威を受け、戦争どころではなくなったのである。両国は和平を模索して、長い外交交渉を続けた。こうして出来上がったのが“カデシュの平和条約”である。

カデシュの戦いから17年後の紀元前1269年、ラムセス二世とハットウシリ三世の敵対関係は、この条約をもって終結した。戦後処理にあたり、成文化された平和条約が取り交わされたのは、世界で初めての出来事であった。  

18条の条文のうち、第一条は平和を謳い、「互いの神々もそれを望んでいる」と宣言している。次に、国境の確定、相互不可侵が記されている。面白いのは、いわゆる“集団的自衛権”が盛り込まれている点だ。「第三国から攻撃を受けた場合、両国が共同で防衛に当たる」という内容が書き込まれている。近代の講和条約も顔負け。堂々たる内容を盛り込んだ平和条約である。

この条約は、エジプトのヒエログリフとヒッタイトの楔形文字(アッカド語)を銀板に刻み、互いに取り交わしたらしい。ルクソールにあるカルナック神殿の壁面には、条文がヒエログリフで刻まれている。ヒッタイト側が記録した粘土板文書は、はるかに劇的な形で発見された。

1906年、ドイツの言語学者ヴィンクラーは、トルコの寒村ボアズキョイの遺跡を発掘していた。一枚の粘土板に記された楔形文字を読み始めて、我を忘れた。それは、カルナック神殿に記された条文とほぼ同じ内容だったからだ。

両国が残した条約の文面には、自国に都合の良いことも書かれている。

エジプト側の記録には、「ヒッタイトに請われて、講和に至った」と書かれている。ヒッタイト側の文書には、「エジプトに請われて」と逆のことが記されている。ささやかに、意地を張り合っていた。

12 王妃ネフェルタリの虜になる

 ラムセスは、あちこちの神殿に子どもの彫像もたくさん残している。子ども自慢の子煩悩だったらしい。ただ、子どもの実数には諸説がある。

シャンポリオンは、王子100人以上、王女60人以上としている。200人以上とする説もある。162人と断定する学者もいる。ラムセスは王家以外の子弟も養子に迎えているので、実子は100人未満とする主張もある。今も学者の議論の的である。いずれにせよ、子どもの数が三桁で語られるところが凄い。破られることのない世界記録であろう。

子どもの彫像を数多く残したのも、彼の自己顕示欲の成させた業だとする見方がある。男の力は、作った子どもの数で決まるとでも考えたのだろうか。

ラムセスは67年間も王座にいた。90歳の長命だった。だから、子どもたちの方が先に死んでいった。ラムセスを継いだのは、ようやく13番目の王子“メルエンプタハ”であった。第二王妃イシス・ネフェルトを母とする。彼の在位は短かった。

子どもの数を誇ったラムセスは、女性に関しても世間の常識を超越していた。第一王妃はネフェルタリ、第二王妃イシス・ネフェルト。以下、公に娶った妃たちがずらりと並ぶ。バビロン、シリア、ヒッタイトから輿入れしてきた妃もいる。四人の正妻、六人の側室などと言われるが、そんな数字は無意味なのである。大奥たるハレムには数百人の美女が侍っていたからである。「英雄色を好む」を地でいったらしい。その道の武勇伝もまことしやかに残されている。

しかし、そのラムセスに頭の上がらない女性がいた。第一王妃の“ネフェルタリ”である。地方貴族の娘だった彼女は、香しく、華麗で軽快、聡明な女性だったと言われている。ネフェルタリの名は王妃になってから命名されたようだ。「あらゆる者の中で、最も美しい女性」を意味する。

ラムセスはネフェルタリを心から慕い、尊敬していたらしい。ファラオを守るハトホル女神とオーバーラップさせて、王妃を女神のように敬ったという。心の支えだった。姉さん女房である。彼女はハレムの支配者であり、宮中ではラムセスにひれ伏す臣下を優しく執りなした。ラムセスの治世にも少なからぬ影響を与えている。

ネフェルタリは敵国ヒッタイトの王妃との間で書簡を取り交わしていた。和平を願う強い気持ちが伝えられている。平和条約を実現させる陰の力になっていたのは間違いないようだ。

ルクソールにある王妃の谷には、ネフェルタリの墓がある。80ほどある王妃の墓の中で、最も貴重で美しい墓だといわれる。威厳に満ちた貴婦人の姿が、美しい色彩で壁画に残されている。だが、ラムセスのネフェルタリへの愛はこれに止まらなかった。

ラムセスは最愛の王妃に、永遠の愛の証、アブ・シンベル小神殿を捧げる。ネフェルタリはその完成を待たずにこの世を去った。美人薄命。50歳に届かなかった。

小神殿の壁画には、薄物のドレスを身にまとった王妃の肢体が描かれている。乳房や身体のラインが透けて見える。ラムセスを虜にしたのは、彼女の聡明さだけではなかったようだ。王妃ネフェルタリは美の女神になった。

13 ヘブライ人は苦役に泣いた

 ラムセスは民政にも力を尽くした。当時のエジプト人は常に大飢饉の恐怖に怯えていた。ナイル河の氾濫がない年は、農作物を栽培できなかった。ラムセスは、万一に備えて食糧備蓄基地を作らせた。その町の名は“ピトム”である。穀物だけではなく、塩漬けの肉類も蓄えたという。

建築王と呼ばれたラムセスの豪腕は、更に大規模な都市建設に向けられた。

自分の名前を冠にした新しい首都を建設しようというのだ。“ペル・ラムセス”。「ラムセスの都市」「ラムセス市」という意味である。

ペル・ラムセスは、ナイル・デルタの一番東の端に建設された。パレスティナやアジアに最も近い位置に遷都したのである。理由は明らかである。当時、ラムセスはシリアへの進出を企てていた。情報の入手がたやすく、迅速に軍事行動をとりたかったのだ。戦略的な遷都である。現に、カデシュの戦いに臨んだエジプト軍は、この都から出陣していったのである。

 ラムセスがペル・ラムセスとピトムの建設構想を固めた時、エジプトに住むヘブライ人の運命が暗転した。

旧約聖書の「創世記」に“ヨセフ物語”が語られている。エジプトに売られたヤコブの息子ヨセフは、やがてファラオの顧問になって国を治める。そのヨセフの執り成しによって、父ヤコブの一族70人がナイル・デルタの東、ゴシェンの地に移住してきた。カナンの大飢饉から逃れたのだ。

彼らは、時のファラオに手厚い保護を受けた。納税や兵役の義務も免除された。彼らの信仰が妨げられることもなかった。

古代のエジプトには無数の神々がいた。砂漠の虫「糞ころがし」まで神様扱いなのである。当時のエジプト人は、他民族の宗教にも寛大だった。カナン人のバアル神やアシュトレト神も罷り通っていた。

ヘブライ人がヤハウェの神を崇拝したところで、誰に咎められることもなかったのである。ヤコブやヨセフの死後も、ヘブライ人たちは牧畜を生業としながら、ゴシェンの地に栄え、人口も増えていった。

ラムセスは、建設予定地の近くに遊牧するこれら多くのヘブライ人に目をつけたのである。建設労働者として動員。大事業実現にはもってこいの低廉な労働力として活用しようと考えたのである。ラムセスは、遊牧民族のヘブライ人に不慣れな土木工事の苦役を強制した。奴隷化の始まりである。

旧約聖書「出エジプト記」は、この出来事を違った観点から記述している。聖書・新共同訳、第一章の6節から14節までを抜粋してみた。

「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、強力になりすぎた。これ以上の増加を食い止めよう。この国を取るかも知れない。』 エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した。

イスラエルの人々は、ファラオの物資貯蔵の町、ピトムとラメセス(=ラムセス)を建設した。彼らが従事した労働は過酷を極めた。」

ヘブライ人たちは他民族との交流には消極的だった。地元のエジプト人との接触もほとんどなかったようだ。閉鎖的なのは、いつの時代もユダヤ民族の特徴のようである。だから、何か下心があるのではないか、と嫌疑をかけられたとしても不思議ではなかった。聖書の記者は、このファラオの実名を記述していない。しかし、“ヨセフのことを知らない新しい王”とは、ラムセス二世を指すとする見方が有力である。ラムセスは、政治的、経済的な思惑の両面から、ヘブライ人に労働を強制したのではないだろうか。 

14 モーセは彼方の砂漠に逃れた

ヘブライ人たちは、新都の宮殿建設に必要なレンガを、ナイル河の泥を材料に作った。河から泥を運ぶ者、水を運ぶ者、短く切った藁を混ぜる者、形を整える者、太陽に当てて干す者。こうして出来上がった“日干しレンガ”を使って、都の建物は作られていった。石を切り出して数百キロを運搬するのに比べれば、はるかに安い建材だった。日干しレンガの製造には、ノルマが課せられ、ノルマを果たせないヘブライ人は棒や鞭で打たれた。

こんな現場で、ある日、“モーセ”は事件に巻き込まれる。「出エジプト記」によれば、モーセは同胞が打たれているのを見て怒りを覚え、エジプト人監督を殺してしまう。ペル・ラムセスでの出来事であろう。モーセは追手が及ばない遠方に逃れた。

シナイ半島を越えてアカバ湾の対岸にあるミディアンの地に逃げた。モーセは地元の娘と結婚し、そこに住み着いた。それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。モーセは神の山ホレブでヤハウェの顕現に接し、同胞救済の使命を与えられる。

神はホレブでモーセに言われた。

「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

主はミディアンで再びモーセに言われた。

「エジプトに帰るがよい。あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった。」

モーセは、この後エジプトに戻った。その時、モーセは80歳位だったと推定されている。ラムセスはもうこの世にいない。後を継いだ新しいファラオ、メルエンプタハに接見を求めたはずだ。

“モーセを追ったファラオはラムセス二世だった”。

これは途方もない作り話ではない。だが、考古学的に裏付けられた歴史的事実かと言えばそうでもない。最も可能性が高いと思われる仮説なのである。

モーセに関する記録は、エジプトの資料には何一つ残されていない。とにかく、聖書以外にモーセの存在を裏付ける証拠は見出せないのである。神のみぞ知るところである。

それでも考古学者や神学者は、聖書の片言隻句を詮索しながら歴史を探ろうと努めてきた。ああでもない、こうでもないと思案した結果がこうだ。「モーセはラムセス二世の時代にエジプトを去り、メルエンプタハの時代に帰ってきた」。多くの異論反論はあるにせよ、そう推測する考古学者は多いのである。

さて、気になるのは、モーセとラムセスの繋がりであろう。勿論、何もわかってはいない。だが、わからないが故に、想像を逞しくする人は多い。

「モーセはラムセスの養子に迎えられ、王子として処遇された。しかし、宮廷内の陰謀に巻き込まれ、反逆の濡れ衣を着せられて命を狙われた」。

「ラムセスが人神になった時、モーセは反抗した」。

これらは面白い話ではあるが、所詮は作り話。小説の範疇にすぎない。

私は、三種類の世界史年表を開いてみた。出エジプトの年代は、どの年表にも “BC1230c”と記されている。紀元前1230年頃という意味である。これも、考古学者や神学者がひねり出した仮説なのであろう。モーセはヘブライ人を率いて、エジプトの“ペル・ラムセス”を発ってカナンへ向かった。

ラムセスが建設したペル・ラムセスは、350年間も首都であり続けた。出エジプトの舞台になったペル・ラムセス。エジプト軍がシリアへ出陣していったペル・ラムセス。この都は今どこにあるのだろうか。

驚いたことに、世界に冠たる世界帝国の首都はその後、跡形もなく消え去ったである。エジプトがマケドニアやローマ帝国に支配される頃には、ペル・ラムセに人影はほとんどなくなっていた。

廃墟になったペル・ラムセスはもろかった。ナイル・デルタには時折、雨が降る。泥と藁で作った日干しレンガは焼き物ではない。絶えず保守管理をしない限り、湿気を吸って土に戻っていくのだ。まして、ナイルの大洪水に襲われれば、ひとたまりもない。これが、今日どこを捜しても、まるで土の中に消えたように、ペル・ラムセスが残っていない理由である。

15 ラムセスには二つの顔がある

敵を震え上がらせ、異民族の侵略を許さなかったファラオ。巨大な首都や食糧貯蔵基地を作り、民政安定にも尽くしたファラオ。数々の神殿を残し、文化の華を開かせたファラオ。自らを神々と同列に置き、人神になったファラオ。

多くの女性を恍惚に導き、100人を超える子どもを残したファラオ。

臣下には神のように畏怖され、愛妻ネフェルタリには頭の上がらなかったファラオ。エジプトの古文書は、ラムセス二世を賛美し、偉大さを強調する。

旧約聖書が伝えるファラオは、エジプト側の伝承が与える印象とは全く違っている。傲慢で、残酷で、搾取に汲々としている。神経質で復讐心が旺盛、卑劣で頑固な支配者、無慈悲な奴隷制度の擁護者。「ヘブライ人を奴隷にし、モーセを砂漠に追いやったファラオ」なのである。

さまざまな言葉で修飾されるラムセス二世。毀誉褒貶の交錯する強大な帝王ラムセス二世。在位の67年間、その権力の座が揺らぐことはなかった。エジプト史上、最大の権力者として世界の歴史に永くその名を留めるのは間違いない。

もちろん、聖書は永遠である。圧制者の悪業が消えることはない。ただし、ファラオの実名は具体的に記されていない。「ラムセス二世」と名指しをしていないのである。聖書記者にも幾らかの惻隠の情があったのだろうか。

ラムセスのミイラは現存する。18817月、ルクソール郊外の岩穴から重なり合った49体のミイラが発見された。胸には名前を記した札が下がっていた。盗掘を恐れた大昔の僧侶たちが、墓を掘り起こし、ファラオたちのミイラを隠していたのだ。

この世紀の大発見をしたのは、フランスの考古学者ガストン・マスペロである。彼は、市場で売られていた副葬品が盗掘品ではないかと疑いを持った。推理はあたっていた。墓泥棒を捜しだして問いつめた。遂には、ミイラが隠された岩穴の所在を突き止めたのである。考古学的な探求というより、犯罪捜査の成果というべき発見であった。カイロの“エジプト考古学博物館”のミイラ室には、多数のミイラが安置されている。多くは黒ずんだ無機質な姿を見せている。これに対しラムセスのミイラは赤みを帯びて生々しい感じすら受ける。頭から足迄の長さは1m73cm。生前は相当の巨人だったことを彷彿させる。

ドイツのフィリップ・ファンデンベルクという考古学者の著書「ラムセス二世」を読んだ。エジプト学の先駆者シャンポリオンの功績を無視しているのが奇異に感じられた。その上、ラムセスに厳しい目を向けているのが面白い。

彼は、ラムセスのミイラに初めて接した時の感想をこう綴っている。

「目の前にミイラがあった。黄色っぽい禿鷹のような頭、色あせた藁のような金髪、まるで人を馬鹿にしているかのように薄目を開けた両眼、落ちくぼんだ胸、飛び出たほお骨、操り人形のような細い足が二本並んでいる」。なんとなく底意地の悪さを感じさせるような描写をしている。

 フランスのエジプト学者で作家のクリスチャン・ジャックの感想は対照的である。彼は、小説「太陽の王ラムセス」を発表した。ネフェルタリとの熱愛をちりばめた絢爛豪華の大河歴史ロマン5巻。欧米で大ベストセラーになった。

さて、彼の感想はどうなのだろうか。

「ミイラとなったラムセスの表情には、いまもなお力強さがただよっている。展示室に置かれた彼のミイラは、いまにも起きあがるのではないかと思えるほど力に満ちあふれているのだ。ラムセスはエジプトそのものだ」。

こちらは、好意に満ち満ちている。手放しのラムセス礼賛なのである。

 フランス人は、概してエジプトに愛着を感じ、ラムセスにも温かな眼差しを注いでいるように感じられる。エジプト学の開拓者シャンポリオンがヒエログリフを解き、彼自身、熱心なラムセス崇拝者になった。その実績と伝統が、彼に続く研究者たちに影響を与えているのだろう。

 ラムセスのミイラは、1970年代に一度フランスに渡ったことがある。皮膚組織についた微生物を殺すためにコバルト照射を受けるためだ。“ラムセス”の入国は、遺体としてではなく、現役の国王としての扱いを受けた。パスポートが発行され、職業欄には「ファラオ」と記入された。儀仗兵が捧げ銃の礼をもってファラオを鄭重に迎えたという。フランス政府は、エジプト人の心情に配慮して最大の敬意を示した。

ラムセスが残した多くの文化遺産は、世界中から多くの観光客を呼び寄せている。エジプト人にとって、ラムセスは過去の英雄というばかりではない。今も国家に貢献するかけがえのない偉人なのである。

目次

1 ヒエログリフは解読された   2 古代文字はなぜ忘れ去られたか

3 ヌビアは地の果てにあった   4 岩窟神殿が流砂から現れた

5 ラムセスは神になっていた   6 アブ・シンベル神殿が湖に沈む

7 ラムセス像がまかり通る    8 宿敵ムワタリの罠にはまる

9 ラムセスは強弓を引き絞った  10 カデシュ砦は落ちなかった

11 平和条約が神殿に刻まれた   12 王妃ネフェルタリの虜になる

13 ヘブライ人は苦役に泣いた   14 モーセは彼方の砂漠に逃れた

15         ラムセスには二つの顔がある

追記;ラムセスに関する本を読んでいて、困惑することがあった。著者(研究者)によって、年代表記がバラバラに書かれていることだった。在位期間を例にとれば、主に“紀元前1290年〜1224年”と“紀元前1279年〜1212年”の二つの説があるようである。私としては、より多く使われていると思われる前者の年代を借用した。年代が、研究者によっては、十数年の開きのあることを付記しておきたい。 []               

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