2007年9月25日 紫垣 喜紀
1.飛んでイスタンブール 2.カッパドキアの奇観 2p
3.エフェソスノ古代遺跡 5p 4.オリエントの絨毯売り 8
5.エルトゥールル号の遭難 11 6.寅さん、トルコに渡る 13
7.ケマル・アタチュルク 15 8.コンスタンティノープル 18
9.巨大大砲と艦隊の山越え 20 10.伝説と歴史のはざま 24
11.オスマン帝国 崩壊のあと 26p
Ⅰ、飛んでイスタンブール
□トルコの旅を終えて帰国した。「シシ・カバブ(ケバブ)はどうでしたか」と聞かれて
階段のベンチで待機する(モスクワ空港)
□乗り換え便の搭乗時間が迫ってきたので待合室に入ることにした。靴を脱いで金属探知機をくぐる。
列が出来ている。私は
NHKの“地球ラジオ、世界井戸端会議”。土曜と日曜の夕刻に放送している。ロシア在住の日本青年が失敗談を話していたのを思い出した。下宿で口笛を吹いていたら、家中のロシア人がすっ飛んできて大目玉を食らったというのだ。“口笛を吹けば貧乏神に憑かれて家が没落する”。そんな迷信をロシア人は頑なに信じていると、青年は話していた。その時は馬耳東風と聞き流していた。それを図らずも実験してしまったのだ。誰だって貧乏になったのではたまらない。仕事ぶりにも似ず、空港職員が示した素早く真剣な対応は、ロシアの“口笛迷信”の成せる業だったのである。
□モスクワからイスタンブールまでは3時間の飛行行程である。深夜の軽食を食べながら、昔を回想した。
そういえば、俺は餓鬼の頃から口笛を吹いていた。下駄をからんころんと鳴らせながら、ピーピーと巧みに吹いたものだ。元はと言えば貧乏だから口笛を覚えた。楽器も楽譜もいらない。耳から聞いた音を口笛に変換するだけですむ。万能楽器といってもいい。若い頃、「俺は世界一のホイッスラーだ」と確信していた。プレスリーもビートルズもクラシックも自由自在に吹きまくった。酔っ払っても音を外すことはなかった。「世界一」を放棄したのは20代後半だっただろうか。上顎の前歯を傷めて差し歯に替えた。これが致命的だった。門歯と門歯の間の隙間がなくなったために、息(プネウマ)が通らなくなった。息を吸い込むときに微妙な音が出せなくなったのである。こうして俺の隠れた才能は、闇に葬られたのだ。世界一はともかく、口笛はその後も生活の小道具になった。体験上、口笛が嫌いな人が沢山いるのを知っている。それにしても空港にいたロシア人の反応は際だって異様だった。「口笛が貧乏神を呼び込むだと!」。まさか。そんな。疑心暗鬼が生じた。
社会人になり世帯を持ってこのかた、碌に蓄えのできたためしがない。とすれば、やはりわが家も貧乏神にとり憑かれていたのだろうか。人生の悩みがまた一つ増えた。口笛は吹くべきか、吹かざるべきか。
□イスタンブール空港からバスでホテルに着いたのは現地時間で午前2時すぎ。草木も眠る丑三つ時である。添乗員が「起床は午前6時です」と告げる。シャワーを浴びると睡眠時間は3時間しかとれない。ツアー客の大半は60~70代。80歳を超えている人もいる。嘆き節が聞こえてくる。「直行便なら半分の時間で着いたのに!」。今さら格安ツアーを呪ってみてもはじまらない。悔やんでも事態は改善されまい。早死にするだけだ。とはいえ、成田からモスクワ経由でイスタンブールへ飛んだ一日がかりの長時間移動。ベッドに入ってからも妙に頭が冴えて眠れない。妻は寝息を立てている。こんな時には悪あがきしては駄目だ。難しい本を読むとか、兎に角、頭をほぐさなくてはいけない。そこで、真新しい旅行案内書を開いた。「トルコの歴史」に目を通す。そうか。成る程。面白いのは近代に入ってからだ。日本、トルコ、ロシアの三国が世界史の舞台で複雑に絡み合っている。アジアの西の端では“クリミア戦争”や“露土戦争”、極東では“日露戦争”が勃発した。ロシアは、日本とトルコの敵役を演じた。「敵」の「敵」は「味方」。この方程式の解答として、日本とトルコは友好的な心情で固く結ばれた。そうなんだ。終始ロシア上空を飛んだルート沿いに、図らずも“地政学”上の深い意味が隠されているように思える。旅はいつも目に見えない何かに導かれる。トルコ旅行の第一章は難行苦行の「出ロシア記」で始まった。
Ⅱ、カッパドキアの奇観
□トルコの国土は、ヨーロッパ大陸側の“トラキア(Thrake)”とアジア大陸側の“アナトリア(Anatolia)”に分かれている。“アナトリア”は“小アジア”とも呼ばれる。トラキアとアナトリアを分けているのは海。
地中海沿岸の地図を頭に描いていただきたい。“黒海”から“ボスフォラス海峡”“マルマラ海”“ダーダネルス海峡”を通って“エーゲ海”に至る海の境界があるはずだ。トラキアは面積で3%、人口の10%を占めるに過ぎないが、歴史的な大都市イスタンブールを
西と東を分けるダーダネルス海峡
東洋と西洋の十字路に立つトルコの歴史は古い。5000年の歴史を通じて、幾多の支配者や侵略者が四方八方から来ては去っていった。その
□中央アナトリアの高地に広がる世界遺産“カッパドキア”はトルコ観光の白眉だ。この世に二つと無い不思議な形の岩の群れ。天下の奇観である。ノミを振るったのは自然という名の彫刻家だった。
カッパドキアの景観
6000万年も前、地中海沿岸に“タウロス山脈”が隆起した。3000m級の山並みが続いている。古代帝国ヒッタイトの王たちも、マケドニアのアレキサンダー大王も、使徒パウロも、この山脈を越えて西へ東へと遠征、伝道に
二つの山は百数十キロ離れている。その中間にあるカッパドキア周辺に火山灰が50mほど降り積もった。広い範囲にわたって固い
「キノコ岩」「妖精の煙突」 「ラクダ」
□この荒野に祈りの場所を求めた人々がいた。初期キリスト教時代の紀元1世紀半ばから4世紀初めにかけて、ローマ帝国はキリスト教徒を弾圧した。多くのキリスト教徒が迫害を逃れカッパドキアに入ってきた。そこは天然の隠れ家になった。
通路を遮断する大石
□紀元4世紀の初めに風向きが変わった。ローマ帝国は一転してキリスト教を公認した。キリスト教徒にしばしの平安が訪れる。カッパドキアはその峻険な地形の故に純粋に修行の地に変身する。“東方正教会”の一大拠点として数多くの著名な修道士を輩出したという。しかし、アナトリアの地に戦乱が絶えることはなかった。紀元6世紀以降、この地はペルシャ、アラブ、トルコと非キリスト教系民族の侵攻にさらされる。ローマ・カトリックの“十字軍”の脅威も出てくる。カッパドキアは再び迫害者から身を守る隠れ家になった。人々は耐えに耐えたが、修行の場を放棄する時がくる。15世紀半ば、正教会の総本山の置かれた“ビザンツ帝国(東ローマ帝国)”が滅亡。オスマン帝国が全アナトリアを支配したとき、修道士たちの祈りの世界は
Ⅲ、エフェソスの古代遺跡
□エーゲ海沿いにアナトリアの地図を南に
アルテミス像
神殿を中心にエフェソスは大いに繁栄した。この地の支配者は時とともに変わっていく。リディア王国、アケメネス朝ペルシャ帝国、マケドニア王国。その次はローマ帝国である。だが、支配者は変わっても人々のアルテミス信仰が揺らぐことはなかった。神殿は破壊と略奪を受けながらも、その都度、再興され続けてきた。紀元前6世紀に建てられた“アルテミス神殿”は、“古代世界の七不思議の一つ”に数えられたそうだ。パルティノン神殿(ギリシャ)の3倍以上の規模だったという。この神殿は紀元前4世紀、気が触れた男に放火されて瓦解してしまった。この時も神殿は再建されている。ペルシャ帝国を撃破したマケドニアのアレキサンダー大王が、多額の寄進を申し出て支援したという。この時代が過ぎたあと、この地は史上最強のローマ帝国に支配された。
□エフェソス遺跡の大半は、紀元前2世紀から紀元2世紀の頃までの建物の残骸である。ローマ軍が地中海世界を颯爽と駆けめぐった時代だ。志半ばに倒れたカエサルを引き継ぎ、アウグストゥスが初代皇帝としてローマ帝国を始動。「ローマによる平和(パクス・ロマーナ)」を実現した。アナトリアはもちろん帝国領。エフェソスはアジア属州の首都だった。だから、エフェソスには皇帝の名を冠にした遺跡が多い。“トライアヌスの泉”“ハドリアヌス神殿”。五賢帝のなかでも傑出した二人の時代に帝国の版図は最大になった。
“ドミティアヌス神殿”というのもある。専制的な皇帝で最後は妻に殺された。キリスト教弾圧でも有名だ。
復元された“ケルスス図書館”のファサード(建物正面)は最も重要なモニュメントの一つだろう。英知、徳性、思慮、学問を表す女性の像が配置されている。解放奴隷がアウグストゥス帝への感謝の徴として建てたという。蔵書は巻物12万巻。当時、アレキサンドリア、ペルガモンとともに世界三大図書館と呼ばれた。現地ガイドによると、図書館の地下から秘密の抜け穴が町の「娼婦の館」に通じていたという。意味不明だ!?
ケルスス図書館のファサード
歩き疲れたころ、巨大な“野外劇場”が姿を現わす。丘の
□そのころ、エフェソスにキリスト教を伝えに来た男がいた。使徒パウロである。彼はアナトリアのタルソスに住むユダヤ人の家に生まれた。劇的な回心ののち異邦人への伝道に生涯を捧げる。三回目の宣教旅行は3年にも及ぶ大旅行になったが、主に滞在したのがエフェソスだった。彼は教会を建て伝道を開始した。「人の手になる神は神にあらず」。パウロは御当地の主神アルテミスを真っ向から否定した。
すぐ投獄された。地元民が1000年以上も守ってきたアルテミス信仰。人々は神経を逆撫でされて逆上したのだ。パウロ指弾の急先鋒になったのが、神の像や神殿の模型を造る職人組合だった。営業の妨害になる。わかりやすい話だ。迫害を受けながらも、パウロは海の向こうのコリント(ギリシャ)の信徒のことを心配していた。コリントでは人々の道徳が腐敗しきっていた。教会も数々の問題を抱えている。そこで執筆したのが“コリントの信徒への手紙Ⅰ”である。教会内の派閥争い、信徒間の訴訟、性の乱れ。具体的な問題に福音的な指示を与えた。美文で綴られた13章は「愛の賛歌」として知られる。「信仰と希望と愛。その中で最も大いなるものは愛である」。エフェソス滞在中、パウロはコリントの信徒に2通、ガラテアの信徒に1通の手紙を送っている。やがてパウロにこの地を去る時が来る。野外劇場では、金や銀の細工師たちを中心に決起集会が開かれた。
パウロを追放した野外劇場
彼らは女神アルテミスを賛美しながら、パウロを激しく
□使徒ヨハネも晩年をエフェソスで過ごした。イエスの母マリアを守りながら暮らしたという。ゼベダイの子、ヤコブの弟。イエスに最も愛された弟子である。この地で“ヨハネによる福音書”を執筆したともいわれる。しかし、キリスト教徒にとって再び暗黒の時代が襲って来た。皇帝崇拝を強要するドミティアヌス帝の治世下、迫害の嵐が吹き荒れる。ヨハネは流刑地のパトモス島に流された。エフェソスの南西90キロのエーゲ海に浮かぶ島である。ヨハネはそこで幻を示され、“ヨハネの黙示録”の筆をとったといわれる。黙示録は手紙の形式をとり、アナトリアにある七つの教会に宛てて書かれている。パウロが建てたエフェソスの教会をはじめ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの各教会である。信仰を守るのが困難な状況の下、忍耐を持って主の再臨の時を待ち望むよう檄文を送った。奇抜な物語の中に、神の計画や悪魔との戦いを織り込んで信仰遵守を強い口調で説得している。ヨハネは後にパトモス島から解放されエフェソスに帰った。紀元100年、94歳で亡くなったといわれる。十二使徒の中でただ一人殉教せずに天に挙げられた。ヨハネが世話をしたマリアの最期もエフェソスではないかといわれる。遺跡からそう離れていない町に“マリアの家”が再建されている。ギリシャ正教徒やカトリック教徒の巡礼地として、多くの人が訪れるそうだ。8月15日には、宗派を超えて“聖母被昇天”をここで祝うという。
□やがてエフェソスは廃墟になる。紀元263年、ゴート族がクリミア半島から南下してエフェソスに攻め込んだ。アルテミス神殿は破壊・略奪された。この侵略をきっかけにエフェソスの衰退が始まる。もはや神殿が再興されることはなかった。格安ツアーは、神殿跡までは連れて行ってくれない。
ガイドブックによれば、神殿の基礎は湿地に沈み、傷んだ円柱が一本立っているだけだという。往時を偲ばせるような遺跡は残っていないらしい。その代わり、エフェソス考古学博物館に二体の“アルテミス像”が陳列されているという。二つとも2mを超える大きな像。胸の周りに数多くの膨らみが見られ異彩を放っているという。アルテミス信仰は、二体の偶像を残しただけであっという間に地上から消滅した。代わってキリスト教が広まっていく。ローマ帝国がキリスト教を公認すると、エフェソスは布教の一大拠点になった。だが、歴史はそこで停止しない。まだ回転する。15世紀、オスマン帝国がこの国を支配。今度はイスラム社会に代わった。栄枯盛衰は世の常。やがてエフェソスは、マラリアの猛威で人口が激減。廃墟になってしまった。
廃墟になったエフェソス
現代のトルコ共和国の宗教分布では、国民の99%以上はイスラム教スンニ派に属している。1%未満がその他の宗教とある。キリスト教は蒸発したかに見える。しかし、消えなかったものがある。使徒パウロやヨハネが残した記事や手紙は“新約聖書”に編纂された。キリスト教の正典として脈々と引き継がれている。
Ⅳオリエントの
□観光地にはどこも土産物店がところ狭しと並んでいる。日本人は
□エフェソス遺跡へ向かう途中、バスは皮革製品の工場前に止まった。40~50ほどの座席があるフロアに通される。男女のモデル5人によるファッションショウが始まった。次々にコートやジャンパーを纏って闊歩する。トルコ人には均整のとれた美男美女が多い。
皮製品に関心のない私も、気楽にカメラを向けショーを楽しんでいた。突然、客席にいた私を含む4人が拉致され、楽屋に連行された。否応なく皮のコートを着せられてショーに参加する羽目になった。スポット・ライトを浴びてステージに登場する。長身の美人モデルにエスコートされて歩く。すると客席が爆笑と失笑の渦に包まれた。所作が様になっていないのだろう。ピエロを演じる自分がそこにいた。顔が引きつる。解放されたあとも、なんだか魂がふらふらと落ち着かない。
夫婦でファッションショーに参加する羽目になった
汗を
「悪くないね」。その一言でぐっと押し込まれた。「ここの製品はミラノに送ってアルマーニのブランド名がつきます。値段は3倍になるんですよ」。遂に買うことに決めた。魔法にかかったように相手の術中にはまった。予定外の出費!結婚して以来、何一つプレゼントしなかった罪滅ぼしだ。自分自身にはそう釈明した。
□アナトリア地方は、場所にもよるのだろうが、空気が乾燥している。トイレ・タイムでバスが停まると、飲み物がほしくなる。アイスクリームやジュースを飲めば余計に喉が渇いてしまう。そんな時には“チャイ”が一番だとすぐにわかった。チャイはトルコ式の紅茶である。透明な琥珀色をしていてチューリップ型の小さなグラスに入れて飲む。
琥珀色のチャイを飲む
トルコでは商店街、歩道、家庭と、どこに行ってもチャイを出してくれる。チャイハネ(紅茶店)もあちこちにあって町の社交場になっている。それほど愛飲されるチャイも歴史は新しい。19世紀後半にインドから入ってきたという。ただし、インドや東南アジアのチャイは、紅茶とミルクと砂糖を攪拌した強烈に甘い飲み物である。トルコのチャイは似て非なる代物だ。紅茶は強発酵、ウーロン茶は半発酵、日本茶は無発酵。チャイは紅茶とウーロン茶の中間の発酵度なんだそうだ。お茶は黒海沿岸で生産されている。
チャイと並んで“トルコ式コーヒー”も有名だ。試してみた人の話では、日本人の味覚にはあまり馴染まないようだ。挽いたコーヒーを煮出し、粉が沈むのをまって飲む。トルコでは食後に飲む習慣があるという。カップの底に残った粉の形で吉凶を占う。伝統儀式にもなっている。粉をこすコーヒーはネスカフェと呼ばれる。
“カフェ(コーヒー・ハウス)”は16世紀のイスタンブールが発祥の地である。コーヒーもカフェもトルコから全ヨーロッパに伝わって行った。ちなみに当時のコーヒーはイエメンのモカから船積みされた。
□カッパドキアの観光を終えたあと、ネヴシェヒルの“絨毯工房”を訪問した。繭から絹糸を紡ぐ作業。さらにシルク絨毯に織り上げる工程を見学した。シルク絨毯は最高級品だそうだ。ここで織った絨毯がホワイトハウスの執務室にも敷いてあるという。ホワイトハウス御用達か!権威には弱い。
絨毯工房 絨毯ショー
見学のあと、何も置いてないガランとした広い部屋に案内された。豊かな
□その昔、アナトリアには東西を結ぶ商業ルートが通っていた。唐の長安に至るシルクロードは有名だ。商人たちはラクダに荷を積み隊伍を組んで荒野を旅した。しばしば荷物を奪われ命を落とした。ルート沿いに“キャラバンサライ(隊商宿)”の跡が残っている。 無人の荒野に建てられた宿は宮殿のように映る。“サライ(Saray)”とは「お城」の意味である。隊商の一日の行程に合わせて30~40kmの間隔で整備された。キャラバンサライは単なる宿泊施設ではなく商品取引の市場でもあった。東西交易の交差点トルコには、絹や香辛料が届けられた。トルコからは、絨毯や皮製品が各地に発送された。商取引は真剣勝負。命をかけた喧嘩腰の交渉も想像に難くない。しかし、商売のやり方は次第に進化をとげ洗練されていった。相手を過度に傷つけないマナー。妥当な価格の落としどころ。長い歳月をかけて取引上の礼儀や規則が形作られた。礼儀正しく客をもてなし茶をふるまう。ねばり強く時間をかけて商品を薦める。初めの言い値よりうんと安い値段にまとめる。
その交渉術の裏には、限りない鋭敏さと抜け目のなさが隠れている。トルコの商売人は凄腕だ。魔法使いだ。
旅行の最終日、イスタンブールの“グランド・バザール”を訪れた。
外国人向けの土産店がひしめく妖しげな迷宮。私は財布と心の紐をしっかり結んだ。客引きが声をかけてくるが、執拗にまとわりついてこない。冷やかしの客はあっさり見抜いてしまうのだろう。オリエントの絨毯売り(トルコ人の商売)は芸術である。
グランド・バザール(イスタンブール)
Ⅴ、エルトゥールル号の遭難
□トルコへ旅立つ3日前に、偶然にもBS朝日のドキュメンタリー番組を目にした。「東の太陽、西の月星~日本とトルコ117年の物語~」。見たのは番組の最後の場面だった。トルコ航空“DC10”の元パイロットたちが体験談を語っている。イラン・イラク戦争の折りに、特別機を飛ばして日本人を救出した
□1985年のイラン・イラク戦争の最中。イラク大統領サダム・フセインが異例の警告を世界に発信した。
「3月20日午後2時以降、イラン上空を飛ぶ航空機は軍用機、民間機を問わず撃墜する」。サダムはイランに攻め込んだものの膠着状態に陥ってしびれを切らせたのだ。この戦争は史上初のミサイル戦争。双方100万人以上の死傷者を出している。テヘラン在住の外国人は飛び上がって驚いた。48時間の猶予しかない。邦人も300人が取る物も取り敢えずメヘラバード空港に駆けつけた。外国の定期航空便や臨時便は自国民優先の運行に切り替えている。日本政府と日本航空は運行の安全が確保できないとして救援機派遣を見送った。最終的に200人余りの邦人が空港に取り残されてしまった。手詰まりである。万事休すかと思われた。その時、総合商社の伊藤忠が動いていた。イスタンブールの森永堯所長がトルコのトルダト・オザール首相に電話を入れた。個人的な繋がりにすがった窮余の一策だった。心強い返事が返ってきた。「わかりました。救援機を派遣しましょう。トルコ人はエルトゥールル号の悲劇を覚えています。日本人から受けた恩義を忘れることはありません」。
やがてトルコ航空のDC10が2機テヘランに飛来した。第一便には198人、第二便には17人を乗せて飛び立った。第二便が離陸したのはタイムリミットの1時間15分前。際どい時間帯にイラン領空を脱出したことになる。これがテヘラン邦人215人救出の物語だ。BS朝日の放送を参考にまとめてみた。
□♪ここは串本、向かいは大島、仲を取り持つ巡航船…♪。民謡「串本節」に謡われた紀伊大島は東西8km、南北4kmの島である。東の端の断崖に日本最初の石造灯台“樫野崎灯台”が建っている。1890年(明治23年)9月16日の夜は嵐が吹き荒れていた。風と波の音を裂いてたしかに爆発音が聞こえた。灯台守は胸騒ぎがした。断崖の下は“魔の船甲羅”と呼ばれ、熊野灘でも名だたる海の難所として知られている。灯台の扉を叩く者がいた。半死半生の外国の男が助けを求めてきた。着衣はずたずたに破れている。灯台の明かりを頼りに40mの崖をよじ登ってきたのだ。遭難した外国船の船乗りであることは一目瞭然だった。灯台守は急を知らせるため助手を樫野の集落に走らせた。樫野は大島村の中でも灯台に一番近い50軒ほどの漁師の集落だ。知らせを聞いた村の男たちは総出で岩場に降りた。空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が漂っていた。無惨!男たちは号泣したという。人々は村を挙げて生存者の介抱にあたることになった。灯台守は外国人との会話を試みた。とりあえず知りたいのは出身国名である。
トルコの国旗
「万国信号書」を広げて見せた。そこには世界各国の国旗が示されている。彼らは“三日月と星”のデザインを指さした。“オスマン帝国(オスマントルコ)”の国旗だった。灯台守には思い当たることがあった。「トルコ訪日使節団歓迎」「トルコ皇帝親書を明治天皇に
□オスマン帝国の軍艦“エルトゥールル号(Ertugrul)”(2344t)。聞こえは威風堂々としている。実体は600馬力の蒸気機関を備えた木造の機帆船にすぎない。かつて世界最強だったオスマン帝国も、19世紀末には列強に脅かされて昔日の面影はない。斜陽の老大国を象徴するように、エルトゥールル号は建造から30年たった老朽船なのである。皇帝アブドゥル・ハミト二世はこの船で訪日使節団を送った。日本皇族のトルコ訪問に対する返礼である。司令官オスマン・パシャを全権特使に600人余りの将兵で固められた。1889年7月15日にイスタンブールを出航。
故障を克服しながら横浜港に接岸したのは翌年6月7日だった。11ヶ月に及ぶ月日を要した。使節団は明治天皇と会見。国賓として大歓迎を受けた。3ヶ月の滞在を終え、エルトゥールル号は9月14日に横浜港を離れる。遭難の2日前だ。この時、日本政府は台風の季節を避け、航海を先延ばしするよう進言している。「本国からの通達」を理由にトルコ側は出航を強行した。横浜でコレラが猛威をふるい、水兵にも犠牲者が相次いでいた。それが出航を急いだ理由ではないかともいわれている。船は太平洋岸を南下。紀伊半島の先端をかすめ神戸に向かう予定だった。台風も半島へ向かっていた。熊野灘にさしかかった船は台風のまっただ中に突っ込んでいった。操船の自由は失われた。風浪に翻弄されて岩礁「船甲羅」へ押されていく。座礁して浸水。闇の中で機関が水蒸気爆発を起こし船体が割れた。
□生存者は69人だった。小学校やお寺に収容された。大島村は、漁がない日には食糧にも事欠くほどの寒村だった。井戸もなく、飲み水には雨水を利用した。村民はサツマイモや卵を持ち寄った。蓄えていた食糧が尽きると、掛け替えのない鶏まで絞めて生存者の食事にあてた。裸同然のトルコ人になけなしの浴衣も渡している。村民はもてる食糧や衣服の一切を惜しげもなく提供したという。しかし、生存者の中には体調が思わしくない者も少なくなかった。大島の村長は外国領事館と連絡をとり、生存者を神戸の病院に搬送するよう手配した。神戸港に停泊中のドイツの砲艦ウォルフが大島港に急行した。日本政府も全力で支援した。帰還の日は思いのほか早く実現する。日本海軍の軍艦「比叡」と「金剛」の2隻が生存者をトルコに送り届けた。品川湾を10月5日に出航。年が明けて1月2日にイスタンブールに着いた。エルトゥールル号遭難の犠牲者は正確な数が定かではない。コレラの犠牲者もいて横浜出港時の乗員数が不明なのだ。587人とする資料や約540人と推測する数字までまちまちだ。樫野の丘には“トルコ軍艦遭難慰霊碑”が立っている。熊野灘を行き交う船を見守っているかのようだ。近くには“トルコ記念館”も建設された。墓地公園には塵ひとつ落ちていない。地元小学校の児童・生徒が学校行事のひとつとして清掃を欠かさないからだ。トルコ人訪問者の姿も絶えない。“樫野”こそ、日本・トルコ友好親善のメッカなのである。
Ⅵ、寅さん トルコに渡る
□「姓は山田、名は寅次郎」。葛飾柴又の瘋癲の寅さんではない。山田寅次郎。日本での知名度は低い。しかし、トルコでは最も有名な日本人である。極めつきの奇人、変人でもある。寅次郎は旧沼田藩江戸家老の家に生まれ、幼少のころから英、独、仏、中の四カ国語を学んだ。15歳の時、茶道“宗?流”家元の山田家の跡取りとして養子入りした。すぐには襲名せず、新聞社に入って文筆活動を続けた。エルトゥールル号の遭難を知ったのは24歳の時だった。熱血漢の寅次郎は立ち上がる。新聞社に働きかけて遺族への募金活動を始めた。「不運にも熊野灘の暴風雨にのまれし心情を思えば胸裂ける思いなり」。全国を行脚して演説会を開いた。
1年間に5000円が集まったという。現在の貨幣価値に直すと2500万円位だそうだ。寅次郎は外務大臣、青木周蔵を訪ねトルコの遺族へ送るよう依頼した。「それは君が集めた天下の浄財だ。君自身に届けてもらいたい。訪欧する海軍士官と外航船に便乗したまえ」。青木は渡航の手配をしてくれた。明治の人は偉い。志が高い。精神が浄らかだ。人のために尽くす。大島村の人々もそうだった。損得抜きだ。トルコに渡った寅次郎は朝野をあげての大歓迎を受けた。皇帝アブドゥル・ハミト二世に謁見。鎧兜と太刀一振を献上した。いまもトプカプ宮殿に展示されている。トルコ側から意外な申し出があった。陸軍と海軍の士官学校で日本語を教えるよう依頼された。それから通算20年の間、寅次郎はイスタンブールに住み着いた。
□18世紀からオスマン帝国の版図は徐々に蝕まれていた。ロシアとオーストリアはトルコの北部を奪った。エジプトはイギリス領にされた。ギリシャやバルカン諸国は独立した。最も脅威だったのはロシアである。
クリミア戦争や露土戦争を通じてオスマン帝国を圧迫。南下の機会を虎視眈々と狙う。イギリスやフランスの軍事的、外交的介入によって辛うじて南下が食い止められていた。“瀕死の重病人”オスマン帝国は喘いでいた。列強が目をつけるはずである。オスマン帝国は、食い荒らされてもなお広大な領土を抱えている。
トラキア、アナトリア、イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、エルサレムを擁するパレスティナ、メッカ・メジナのあるアラビア半島の紅海沿岸。戦略的にも宗教的にも、資源確保のうえからも中東の要衝を抱えている。が、国は制度疲労を起こしている。列強によるトルコの分割は時間の問題かと見られていた。こうした苦難の時期に、オスマン帝国はエルトゥールル号を日本に派遣したのである。明治維新の日本に起死回生の道を見出せないか。はかない期待をかけたのかもしれない。その日本は満州・朝鮮の利権をめぐってロシアと対峙していた。日本とトルコはアジアの西と東でロシアの南下政策に直面していたのである。時代は19世紀から20世紀に移っていく。新興の列強同士が戦う世界初の帝国主義戦争が始まった。“日露戦争”である。国をあげての総力戦になった。快男児、山田寅次郎がイスタンブールで過ごしたのはこの戦争の前後である。
□寅次郎はトルコ陸海軍の士官学校で日本語と“日本学”を教えた。当時の日本は“富国強兵、殖産興業”を掲げて列強に食い込もうとしていた。明治の日本人の気概を熱く語ったに違いない。士官学校の生徒は将来のトルコを担うエリートたちだった。寅次郎はトルコにすっかり愛着を覚えた。イスラム教に改宗。アブドル・ハリル(日本名・新月)と名乗る。そのままイスタンブールに留まり事業を興すことを決意した。ガラタ橋の近くに日本の工芸品を取り扱う商店を構えた。日本とトルコを往復しながら貿易事業を進める。それが縁で34歳の時、大阪の貿易商の娘タミと結婚した。しかし、妻子を大阪に置いたまま日本に落ち着くことはなかった。寅次郎はトルコに長期滞在していた唯一人の日本人である。この地を訪れる日本人は官民を問わず寅次郎を頼りにしてきた。国交がない中での民間大使であった。“日露戦争”が始まる。バルチック艦隊が動く。日本海軍はロシアの黒海艦隊がバルチック艦隊に合流するかどうかに重大な関心を寄せていた。イスタンブールの中心地に高さ67mのガラタ塔が立っている。旧くは灯台として建てられた。寅次郎は20人のトルコ人を雇う。塔の最上階からボスフォラス海峡を航行する船舶を四六時中監視させた。
現代のボスフォラス海峡
商船に偽装したロシア軍艦3隻が海峡を通過したのを見逃さなかった。ウイーン大使館経由で報告。これら3隻はアフリカ沖でバルチック艦隊と合流していた。オスマントルコ政府は寅次郎の派手な諜報活動をあえて黙認した。
□バルチック艦隊は、旗艦スウォロフを先頭に50隻の大艦隊である。アフリカ南端の喜望峰を回って3万km、7ヶ月に及ぶ遠洋航海をした。ちなみに地球の円周は4万kmである。日本に至る航路の大半は、日本の同盟国イギリスが制海権を握っている。食糧や燃料の補充に苦慮した。野菜不足による壊血病も蔓延した。途中、悲報が相次ぐ。旅順が陥落。ロシアの太平洋艦隊が壊滅した。艦隊将兵の士気はまるで奮わなかった。
1905年(明治38年)5月27日午前4時45分、日本側は五島列島沖に敵艦隊の船影を捕捉。刻々とその位置を掌握した。午後5時5分、連合艦隊が朝鮮半島の鎭海湾を出航した。「天気晴朗なれども波高し」。大本営に打電。正面からの砲撃戦で臨む方針を示した。戦闘に入ったのは午後。旗艦三笠にZ旗が翻った。「皇国の興廃この一戦にあり」。全艦隊の士気を鼓舞する信号旗である。二つの艦隊はすれ違うような形で接近していった。午後2時5分、距離8000m。連合艦隊司令官・東郷平八郎は取り舵一杯を命じた。左へ急ハンドル切ったのだ。敵艦隊の進路を塞ぐ形に展開した。これを“敵前回頭”と呼ぶ。この時、敵に船腹を見せるので旗艦三笠は艦が傾くほど被弾した。13分後、回頭を終えた連合艦隊が一斉砲撃に移った。旗艦スウォロフが火炎に包まれ戦線を離脱。バルチック艦隊は潰乱を始める。勝敗が決した。ロシア側は4830人が戦死。ロジェストヴェンスキー提督以下6106人が捕虜になった。日本側の戦死者は117人。日本の完勝だった。
□トルコ人は不倶戴天の敵ロシアの敗北に驚喜した。鎖国を解いたばかりの日本の力に目を見張った。同じアジア人であることに誇りを持った。生まれた子どもに「トーゴー」の名前をつける親までいた。戦況を決定づけた「東郷ターン(敵前回頭)」はトルコ人の常識になった。新しい伝説も創造された。“昔々、中央アジアに狩猟の民が住んでいた。ある者は東に出向いて日本を造った。ある者は西に向かってトルコを造った。日本人とトルコ人の祖先は、別れるとき太陽と月と星を分け合った。日本人は太陽を、トルコ人は月と星を持って行った。それが両国の国旗になった”。日本にこれほどの親しみを示した国は他にない。こうして“親日”のDNAがトルコ人の心に宿った。しかし、日露戦争後の国際情勢は激変する。1914年に“第一次世界大戦”が勃発。日本とトルコは別々の道を歩むことになる。寅次郎は帰国した。大阪で製紙会社を経営しながら、“宗?流”の八代目を襲名して茶道の普及にも努めた。1931年(昭和6年)、寅次郎は日本トルコ貿易協会の理事長として再びトルコの地を踏んだ。17年ぶりだった。トルコの国家体制はがらりと変わっていた。寅次郎は、トルコ共和国の初代大統領ケマル・パシャに招かれて新首都アンカラで会見した。ケマルは士官学校時代に寅次郎から日本語を教わった思い出を語った。感激の対面だった。この大統領こそ、トルコを亡国の危機から救った英雄である。ケマルは後に“アタチュルク(トルコ人の父)”の尊称を国民議会から贈られている。
Ⅶ、ケマル・アタチュルク
ケマル・アタチュルク
□
近代トルコの国民的英雄である。町の広場には銅像が建っている。紙幣にもその姿が見られる。公共施設やホテルのロビーに肖像が飾られている。首都アンカラには壮大な“アタチュルク廟”がある。敬愛する人の列が絶えない。ケマルは傑出した軍人、不世出の政治家であった。陸軍少尉で陸軍大学を卒業した。1905年、ケマルは皇帝の専制政治に逆らってダマスカスの野戦軍団に左遷された。ケマルはスルタン(皇帝)制に疑問を持ちはじめた。バルカン戦争から第一次世界大戦(1908~1918年)までは、国境沿いの最前線に配属される。権力に刃向かえば危険地帯に飛ばされる。ケマルはそんな窮地を自ら切り抜けた。第一次大戦では、首都イスタンブールを窺うイギリス連邦軍をガリポリで撃破。一躍有名を轟かせル。この国民的英雄に転機が訪れタ。第一次大戦でトルコが敗北した時点から、ケマルは政治家としての資質を開花させることになる。
□第一次大戦でオスマン帝国が敗退すると、戦勝国は早い者勝ちで植民地獲得に乗り出した。まずアラブ民族の領域をオスマン帝国から剥ぎ取った。イギリスはイラク、ヨルダン、パレスティナを、フランスはシリアとレバノンを獲得した。最後のスルタン(皇帝)メフメト6世が降伏文書に調印するや、戦勝国はトルコ領内に深く進駐した。トルコから独立したばかりのギリシャ軍まで侵入してきた。列強側はさらに“セーブル条約”を押しつけてくる。「オスマン帝国を解体の上、連合国が分轄領有する」。メフメト6世には、この過酷な条約に抵抗する力も気力もなかった。亡国の危機。ケマルは断固反対して立ち上がった。「固有の領土を守る」。
アナトリアで祖国解放の先頭に立った。ゲリラ戦による占領軍への抵抗をはじめる。1920年、民衆と軍の支持を受けてアンカラに新政府(国民議会政府)を樹立。スルタン(皇帝)にも新政府を承認するよう働きかけた。しかし、メフメト六世は連合国の傀儡にすぎなかった。新政府を承認するどころか、ケマル・パシャへの死刑宣告を発布した。しかも自らの安全と財産の保全を条件に“セーブル条約”に正式調印してしまう。ケマル・パシャは武器の乏しい弱小部隊を率いて抵抗運動を続けなければならなかった。スルタンの刺客にも命を狙われていた。そんな逆境の中で、ケマル・パシャは恐るべき政治的才能を発揮する。連合国側の足並みの乱れを見逃さなかった。列強は利害の対立から同床異夢の状況にあった。
□ケマル・パシャは列強を手玉にとった。フランスの対英不信を煽って連合国側に楔を入れた。フランスはイギリス主導の戦後処理に不満を持っていた。ケマルがどんな手練手管を使ったかは知らない。しかし、旧敵国フランスをあっという間に味方に引き入れた手腕には端倪すべからざるものがある。細々とゲリラ戦を続けていたトルコ国民軍にフランスから大量の武器が送られた。直ちに本格攻勢に移った。アナトリア西部に進攻していたギリシャ軍と激突する。ギリシャ軍はイギリスの支援を受けてビザンツ帝国再興の夢を抱いていた。しかし、ケマル軍の反攻で大敗。エーゲ海に追い落とされた。ギリシャ軍は撤退の際、焦土作戦を展開。古都イズミル(古代名スミルナ)の旧市街地は焼け落ち歴史的遺産が失われた。
エーゲ海とトルコの浜辺(絵葉書)
イギリスは事態打開のため再び旧連合国の糾合を図った。フランス、イタリアは応じなかった。イギリスは国際世論から孤立した。歴史の流れが劇的に変わっていた。イギリス軍自体もトルコからの撤退を余儀なくされる。大きな犠牲を払って祖国解放戦争は完了した。
ケマルはその勢に乗ってスルタン(皇帝)制を葬った。最後のスルタン(皇帝)メフメト六世は英領マルタ島へ亡命。600年にわたり連綿と続いてきたオスマン帝国が名実ともに滅亡した。一介の愛国青年が天賦の軍事的、政治的才能を遺憾なく発揮した。遂には祖国滅亡の危機を救った。この天才はさらに共和国建設、大統領就任への道を歩んでいく。矢継ぎ早に大改革を断行した。「歴史の奇跡」を見るようだ。
□トルコは英、仏、伊の連合国との間に“ローザンヌ講和条約”を締結した。1923年7月である。ケマル・パシャの主張がすべて認められた。トルコは独立を確保。本来のトルコ民族の土地はすべてトルコに返還された。条約を締結したあとの10月、トルコ国民議会は“トルコ共和国”の成立を正式に宣言した。イスラム世界で初の共和国の誕生である。首都はアンカラ。初代大統領にはもちろんケマル・パシャが選ばれた。しかし、トルコの前途には大きな課題が横たわっていた。“トルコの近代化”である。そのため、ケマルは自由で民主的な社会を想い描きながらも、独裁的な権力を行使することになる。トップダウンの改革を断行したのだ。真っ先に実施したのは“政教分離”である。“スルタン・カリフ制”を廃止した。オスマン帝国のスルタン(皇帝)は世界のイスラム教徒の精神的指導者(カリフ)でもあった。ケマルはこの制度を撤廃した。“カリフ制”とともに“宗教裁判”も廃止。代わりにヨーロッパ型の法体系を導入した。トルコは世俗国家に変わった。
男女教育の義務化。アラビア文字の廃止。アルファベットの採用。太陽暦の採用。メートル法採用。女性参政権導入。一夫多妻の禁止。服装改革。ケマルはこれらの改革を矢継ぎ早に打ち出した。イスラム国家としてではなく、西欧型の近代国家を目指す姿勢を鮮明にした。ケマルは執務室に明治天皇の写真を飾っていたという。新国家建設の範を日本の明治維新にも求めたといわれる。「脱亞入欧」である。
□ケマル・アタチュルクはイスタンブール訪問中に肝硬変で倒れた。ドルマバフチェ宮殿で息を引き取る。57歳。ドルマバフチェ宮殿はヨーロッパの宮殿を模倣した建物。トルコをヨーロッパに変えようとしたケマルに相応しい死に場所であった。
洋風のドルマバフチェ宮殿
ケマルの改革は、日本の明治維新と似ているようだが、少しニュアンスが違っている。日本は「
Ⅷ、コンスタンティノープル
□トルコ第一の都市“イスタンブール”には長い歴史が込められている。紀元330年5月11日。ローマ帝国の皇帝“コンスタンティヌス一世(大帝)”はボスフォラス海峡の西岸に遷都した。ギリシャの植民都市だった“ビザンチウム”を「新しいローマ」の首都にした。“コンスタンティノープル”と改名する。ローマ帝国は紀元395年、東と西に分裂。紀元476年には西ローマ帝国が滅亡した。ローマ帝国を継承する唯一の国家として、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)は、それからさらに千年の歴史を重ねていく。帝国の領土が最大になったのはユスティニアヌス帝の時代である。ビザンチン帝国は繁栄を極め、地中海沿岸をほぼ支配した。この時が放物線の頂点だった。歴史には“α”があって“ω”がある。“千年王国”ビザンチン帝国も衰退期に向かう。最後は海と城壁に囲まれた“都市国家”にすぎなかった。周りはトルコ人に囲まれている。1453年5月29日、三重の城壁に囲まれた“コンスタンティノープル”はオスマントルコ軍の猛攻によって陥落した。ローマ帝国、最後の皇帝“コンスタンティヌス十一世”は白兵戦のまっただ中に突入していった。実に1123年の間、ビザンチン帝国(=東ローマ帝国)の首都であり続けた“コンスタンティノープル”。双頭の白鷲(ローマ帝国)はイスラム教徒の半月刀によってとどめを刺された。“コンスタンティノープル”は“イスタンブール”と名前が変わり、オスマン帝国(オスマントルコ)の首都になった。
“コンスタンティノープル”から“イスタンブール”に変わった
□“古代ローマ史”といえば、日本では小説家の塩野
□“紀元313年”。歴史好きの人なら覚えている年号のひとつだ。ローマ帝国がキリスト教を公認した年である。この年、ローマ帝国の西の正帝になったコンスタンティヌスと東の正帝リキニウスがミラノで会談した。首脳会談の共同声明が発表された。有名な“ミラノの勅令”である。キリスト教を信じる人々には画期的な出来事になった。“ミラノの勅令”は完全な信教の自由を認めた。その上、迫害の時期に没収した財産をキリスト教会に返還することにした。コンスタンティヌスは次々とキリスト教振興策を打ち出す。まず、皇帝財産をキリスト教会に寄贈した。私有財産ではない。公金である。次に、キリスト教の聖職者は軍務や公務から免除する措置をとった。こうしたキリスト教優遇策をとりながらも、コンスタンティヌス自身はキリスト教徒ではなかった。洗礼を受けなかった。ローマ皇帝である以上は、ローマの宗教の長である「最高神祇官」を兼ねている。伝統的な神々の祭儀を司宰する義務があったのだ。紀元324年、コンスタンティヌスは最後の政敵、リキニウスを打倒。ただ一人の最高権力者としてローマ帝国に君臨することになる。48年ぶりにローマ帝国は一人の皇帝に統治される状態に戻った。以後13年続く専制統治で彼は何を実現したかったのか。新しい首都、新しい宗教による「新生ローマ帝国」の実現であった。遷都。ところが、コンスタンティヌスは新都建設の前に、大仕事を一つ片づけてしまった。キリスト教の教理問題に決着をつけたのである。
□アナトリアの西の端、マルマラ海の近くにイズニックという小さな町がある。この町は昔の名前が有名だ。“Nicaea”。「ニカイア」とも「ニケーア」とも発音される。紀元325年6月19日、ローマ帝国皇帝、コンスタンティヌス一世は最初の世界キリスト教会会議(公会議)をニカイアに召集した。“ニカイア公会議”と呼ばれる。300人の司教が招聘され2か月にわたって侃々諤々の議論が続いた。出席者の旅費は無料、ローマ軍の護衛までつけて、あらゆる便宜が図られた。ニカイアの地にかくも多数の司教を招聘してまで解決しなければならない問題とは、何であったのか。アリウス派とアタナシウス派の教理論争が議題になった。教理をめぐる聖職者間の論争に、世俗社会の権力者が介入した。コンスタンティヌスはなんとしても教会分裂の危機を回避したかった。論争はエジプト・アレキサンドリアの司祭、アリウスがイエス・キリストの神性を否定したことに端を発している。公会議の議論は伯仲したが、議長役のコンスタンティヌスは“ニカイア綱領”の採択にこぎ着ける。イエスの神性を否定したアリウス派を異端、三位一体を主張したアタナシウス派を正統と宣告した。「創造主の父なる神、贖罪者キリストとして世に現れた子なる神、聖霊なる神とが、唯一なる神の三つの位格(ペルソナ)である」。ニカイア公会議は終わった。だが、コンスタンティヌス帝の仕事はまだ続く。このあと教会に正典の編纂を委託した。後のカルタゴ会議で27巻の新約聖書が定まった。
□紀元330年5月11日、新都コンスタンティノープルの完成を祝う式典が挙行された。6年の突貫工事で首都の形が整った。宮殿を中心に、街路や広場、上下水道や地下貯水槽の整備と、インフラを重視したローマ式の街造りを踏襲した。首都機能のすべてをローマから移転させた。ただし、際だった相違もあった。ローマの象徴とされていたもので、コンスタンティノープルには造られなかった建築物がある。多神教の神々を祀る神殿である。神殿にかわって教会が建てられた。“聖ソフィア大聖堂”をはじめ、教会が街の一等地を占めていた。一神教、キリスト教の「新しいローマ帝国」の首都が誕生したのだ。多神教の「ローマ帝国」は葬られた。
聖ソフィア教会(尖塔は後に加えられた)
ここで、また最初の疑問が湧き上がってくる。「なぜ、これ程までにキリスト教の振興に心血を注いだのか」。コンスタンティヌス帝は、この疑問に答えないまま急死する。ペルシャ遠征の途中、アナトリアの西端ニコメディアで病没した。62歳だった。権力獲得とその維持に心身をすり減らした末の疲労が蓄積していたのだろう。遺体はコンスタンティノープルの聖十二使徒教会に埋葬された。死の直前に「駆け込み洗礼」を受けたと言われる。コンスタンティヌス帝は多くの政敵を
□小説家の塩野七生氏は、著書「ローマ人の物語ⅩⅢ・最後の努力」の中で仮説を披露している。要約して紹介してみよう。コンスタンティヌスはキリスト教を「政治支配の道具」として活用するつもりでいたと見る。当時のローマ帝国では、政権の交代が円滑に進まなくなっていた。皇帝の暗殺と血なまぐさい権力闘争が常に繰り返された。権力のチェック機構である元老院は機能しない。彼は、無力化した“元老院”に見切りをつけ、“教会”を政治システムに組み込もうとしたのだ、と見る。もの凄いアイディアである。“皇帝に支配権を与えるのは人間(元老院)ではなく、神(教会)だ”としてしまうのだ。思想的な根拠は使徒パウロの説教に求めたに違いない。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」。新約聖書“ローマの信徒への手紙13章”に記されている。戴冠式というのがその形を示している。神の代理人である司教が、跪く王の頭に王冠を載せる。王冠は神によって正当化された支配権の象徴なのである。コンスタンティヌスはその構想を実現させる布石としてキリスト教の普及に努めた。もちろん、神意を伝える司教たちを味方につけなくてはならない。そのために司教階級への懐柔策を次々に打ち出した。
自らの権力基盤を固めながら、キングメーカーとして後継者選びを進めるべく準備していたのかもしれない。この途方もない構想は彼の時代には実現しなかった。17世紀に入って“王権神授説”として発芽した。
Ⅸ、巨大大砲と艦隊の山越え
□ボスフォラス海峡のクルーズは人気が高い。イスタンブールの旧市街地から観光船が北上する。やがて“ボスフォラス大橋”の下をくぐる。30年以上も前の建設。景観にとけ込んでいる。海面にはさざ波が立っている。黒海の水位が高いので、海水は常に南のエーゲ海に向かって流れる。流れが一番早いのは、海峡の幅が700mを切る最も狭い地点。そこに第二の橋が架かっている。日本の技術援助と円借款によって完成した自動車専用橋である。佐藤内閣当時、トルコの要人が訪日して建設計画がまとまった。それをニュースに書いた記憶がある。その名は“ファティフ(征服王)・スルタン・メフメト大橋”。この橋のヨーロッパ側の袂に、三つの塔をもつ要塞“ルーメル・ヒサール”が偉容を誇っている。1452年、オスマン帝国の第七代スルタン(皇帝)、メフメト二世が僅か4ヶ月で築城した。“ルーメル・ヒサール”とは「ローマ帝国領に建つ要塞」という意味である。
オスマン帝国の要塞“ルーメル・ヒサール”
この要塞が造られた頃、“ビザンチン帝国”(東ローマ帝国)といえば、首都“コンスタンティノープル”とその周辺だけになっていた。オスマン帝国領の中の小さな点のような存在だった。周りはすべてトルコ人に囲まれている。ビザンチン帝国の最後の皇帝、コンスタンティヌス十一世は、二人の使者をたてて要塞建設に抗議した。使者はただちに
□“コンスタンティノープル”は三角形の城壁に囲まれた都市国家。三角形の二辺は海に面している。もう一辺が陸続きで、三重の堅固な城壁の外はトルコ領になる。ビザンチン帝国の首都とはいえ、人口は4万人を切っていた。100万人といわれた往時の繁栄ぶりは偲ぶべくもない。一種の自由貿易港のような存在だったらしい。東西の交易は盛んに行われた。メフメト二世の父、スルタン、ムラードはあえて自由貿易港を黙認した。家臣団、中でも宰相、カリル・パシャは共存共栄路線を主張。交易による利益を優先させたい現実論者だった。武闘を唱えたのは若いメフメトである。彼は父の不興を買い、アナトリアの遠隔地に蟄居を命じられる。生活は荒れたらしい。10代の少年が連日酒色にふけったという。メフメトが早馬を駆って首都“アドリアーノポリ”に急行したのは、19歳にあと2週間という時だった。一息入れたのはダーダネルス海峡を渡る船上だけ。
現代のダーダネルス海峡
大酒飲みの父が急死したのだ。宮殿に入ったメフメトはただちに全権を掌握した。腹違いの弟を殺害させた。青くなっていた父の家臣団は留任させた。そのかわり、3班に分けて要塞“ルーメル・ヒサール”の建設を命じる。重臣たちの忠誠度を試すためだ。色白で面長のメフメト二世の言葉遣いは丁寧だった。それでいて威圧的である。メフメト二世は深夜、老宰相のカリル・パシャを寝室に呼んだ。「先生。あの街を下さい」。家臣を「先生」と呼んだ。カリル・パシャの顔が
□ビザンチン帝国(東ローマ帝国)の最後の皇帝になるコンスタンティヌス十一世は、49歳の洗練された紳士だった。オスマン帝国の宰相、カリル・パシャからの密使によって、新スルタン、メフメト二世の確固たる意志を知らされた。皇帝はスルタンに特使を送った。「多額の年貢金を支払う代わりに、攻略の意志を翻してほしい」と申し入れた。メフメト二世はこの申し出を拒否。無条件降伏を求めた。「皇帝が国外退去すれば、残された兵や住民の生命は保証する」ともつけ加えた。名誉を尊ぶ皇帝には、受け入れられなかった。そこまでして命を永らえる気はなかった。交渉は決裂した。皇帝はローマ法王やヨーロッパ各国に援軍を要請する。朗報はあまりなかった。ローマ法王からは兵200人、キオス島からの傭兵500人、ベネティア共和国からガレー船(軍船)2隻と乗組員が派遣されたにすぎない。コンスタンティノープルの人口4万人足らずのうち、戦闘要員は8000人に過ぎなかった。やがて陸側の三重の城壁の外に、オスマン帝国16万の軍勢が進んできた。スルタン親衛隊のイエニチェリ軍団1万5000、アナトリア正規軍5万。残りは周辺諸国から徴用した不正規軍団である。
弱冠21歳のスルタン、メフメト二世は、聖なる緑の上着、白のズボンに身を固め、腰に半月刀を帯びている。黒駒の馬上豊かに、白い大マントを翻して16万軍勢を自在に動かした。城壁にいた防衛側の兵士たちは圧倒された。トルコ兵たちが眼下の広野を洪水のように満たしていった。
□戦闘が始まったのは、1453年4月12日。トルコ側の巨大な大砲が轟音とともに火を噴いた。ハンガリーの大砲技師に秘かに開発させた最新兵器である。砲身の長さは8m以上。600kgの砲弾(石弾)を発射できた。砲台は60頭の牛を使わないと動かせない。この大砲の威力で難攻不落の城壁を破壊しようとした。外壁に亀裂が生じると、不正規軍団の兵士が大量に投入された。後ろにはスルタン親衛隊のイエニチェリ軍団の兵が抜刀して立ちはだかっている。退却する兵は容赦なく斬り殺された。守るキリスト教側の兵士は鋼鉄製の甲冑に身を固め果敢に奮戦した。しかし、次から次に新手のトルコ兵が現れる。蓄積した疲労を癒す暇もなかった。メフメト二世は海戦でも奇抜な戦法を実行した。ビザンチン帝国の海軍は金角湾に集結。入り口を鋼鉄の鎖で封鎖した。折を見ては、海峡に出没してトルコ軍船を悩ませた。メフメト二世は、ボスフォラス海峡の岸辺から標高60mのガラタの丘に軌道を敷いた。さらに、丘の上から金角湾に下りの軌道を敷いた。おびただしい牛と人の力によって、72隻の軍船を丘に引き上げ、そこから金角湾に滑り込ませた。“艦隊の山越え”である。防衛側の軍船は動きを封じられた。
ボスフォラス海峡から陸地に入り込んだ“金角湾”
戦闘から48日目の5月29日。城壁の守りに隙ができた。防衛側の“傭兵”と呼ばれる戦争屋の集団が、隊長を失って戦意を喪失したのだ。メフメト二世は敵の小さな混乱を見逃さなかった。イエニチェリ軍団の精鋭を投入。総攻撃に移った。間もなくオスマン帝国の旗が塔の上に翻った。
□イスタンブールの中心に“聖ソフィア寺院”が偉容を誇っている。色々な呼び方がある。“アヤ・ソフィア(Aya Sofya)”“ハギア・ソフィア(Hagia Sophia)”。みな同じである。「聖なる智」を意味する。
聖ソフィア寺院のモザイク画
コンスタンティヌス大帝時代の聖堂は200年後に焼失した。現代に残されているのは、ユスティニアヌス一世によって再建された聖堂である。ちなみに、ユスティニアヌス一世の時代にビザンチン帝国は最も繁栄した。地中海世界の支配者だった。
紀元537年、見事に再建された寺院を前に、ユスティニアヌス帝はこう叫んだといわれる。「ソロモンよ、朕は汝をしのいだ!」。内部は天井と壁のモザイク、大理石の円柱、彫刻によって壮麗豪華に飾られている。キリスト教会は紀元1054年、東西に分裂する。ギリシャ、スラブ文化圏では“ギリシャ(東方)正教”が広まっていく。その東方キリスト教会の総本山が“聖ソフィア寺院”であった。
聖ソフィア寺院の内陣
聖堂の前で一人の若い男が馬を下りた。新たな支配者、メフメト二世である。皇帝の門から内陣に入った。彼は家臣たちを振り返る。教会をただちにモスクに改造するよう命じた。モザイクは
□メフメト二世は宮殿を造った。“トプカプ宮殿”。政治の中枢であり、スルタンの住居でもあった。ボスフォラス海峡、マルマラ海、金角湾に囲まれた岬の丘に建っている。「海の十字路」、「文明の十字路」。ここからの眺めは譬えようもなく美しい。トプカプ宮殿は一度も外敵の侵入を許したことがない。今は、歴代スルタンの残した厖大な財宝、秘宝を保管する「博物館」になっている。“エメラルド飾りの短剣”“匙職人のダイアモンド”。豪華絢爛たる品々が陳列されている。「これが86カラットのダイアか!」と驚いてはみるが、ガラス玉とどう違うのだろう。違いのわからない男には「猫に小判」「豚に真珠」でしかない。宮殿の厨房では、一日最大1万人分余りの食事が賄われたという。食器や陶磁器も厖大な数に上る。元・明・清時代の中国陶器を一万数千点、日本の古伊万里や有田焼も千点を収蔵。世界的な大コレクションだという。好事家にはたまらないらしい。
トプカプ宮殿の儀礼の門 厨房のある建物
トプカプ宮殿といえば“ハーレム”。ハーレムと聞けば落ち着かない気分になる。背徳の匂いがする。残念なことに我々の見学リストには載っていない。外観を眺めただけだ。
男子禁制。異教徒の奴隷の美女たちが1000人、スルタンの寵愛を競う。世継ぎを争う場であった。解説書によれば、シャンデリアやタイルは煌びやかだが、建物内部の印象は暗いという。逃亡や侵入を防ぐため、窓には鉄格子がはめられていた。“ハーレム”の響きには官能の澱が残ったが、「イスラムの大奥」はどこかもの悲しそうだ。
□最後に、第十代スルタン、“スレイマン一世(大帝)”に触れておかなければならない。メフメト二世から三代あとのスルタンである。オスマン帝国の領土は最大限に達した。アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる当時世界最強の国家である。東はイラン、西は神聖ローマ帝国やフランス王国と対峙した。ヨーロッパ諸国は宗教改革の嵐が吹き荒れ国力が衰えていた。束になってもオスマン帝国には敵わなかった。海洋でも、オスマン帝国はベネティア、ジェノバ、スペイン、ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を握った。紅海からインド洋にも進出してポルトガルの艦隊と張り合った。1529年、ヨーロッパ人が震え上がる事件が起こる。ハプスブルグ家の本拠地、オーストリアのウイーンがオスマン帝国軍に包囲されたのだ。ハンガリーの領有権をめぐる争いだった。木管楽器、太鼓、シンバルで構成されたイエニチェリ軍団の軍楽隊が近づいてくる。
オリエント風の哀調を帯び、3泊打って1拍休む凄味のあるリズムに、人々はおののいた。ウイーンはなんとか持ち堪えた。トルコ軍が去り、「喉元過ぎる」と、諧謔に富むウイーン子たちは軍楽隊を面白がった。“軍楽隊”と“ブラスバンド”はこのときトルコ軍から世界に発信された。ベートーベンやモーツアルトも後に「トルコ風(=alla turca)」の作品を残している。独特のリズムに惹かれたのだろう。“トルコ行進曲”もその一つだ。あの“トルコ・コーヒー”もこの時伝えられた。もちろん「ウイーン風」に変わっていった。
Ⅹ、伝説と歴史のはざま
□旅行記を書くはずだったものがトルコの歴史になってしまった。それも仕方がないのかなぁと思う。観光地には自然の景観は勿論たくさんある“カッパドキア”や、「石灰棚」で有名な“バムッカレ”はそうだ。
「石灰棚」の“バムッカレ”
しかし、訪問先の多くは遺跡や歴史的な建造物である。静止画の世界だ。散乱した石柱や古い建物をいくら見たところで、退屈なものである。そこに、「人物」が登場しなければ、面白くも可笑しくもない。旅行中はたいした予備知識も持たずにガイドについて行く。大抵は二日酔いで
□トルコの歴史は、これだけに留まらない。紀元前にも、人間の営みが3000年以上も続いていたのである。しかし、時代を遡れば遡るほど、霧が深くなり視界が閉ざされてくる。神話とも、伝説とも、歴史とも見極めのつきにくい世界に踏み込むことになる。最初の物語は神話の部類に入るのだろう。アナトリアの東の端、イランやアルメニアとの国境近くに“アララト山”がある。標高5165m。トルコの最高峰である。創世記には、“ノアの箱船”が「アララト山の上にとまった」とある。今も、失われた箱船を探して山に登る人がいるそうだ。聖書無謬を疑わないのだろう。
アララト山(絵葉書)
“ノアの箱船”に比べれば、鉄を生み出した帝国“ヒッタイト”は歴史の輪郭はよほど鮮明になってきた。トルコの首都アンカラの東、約150kmの中央アナトリアに“ボアズキョイ(ボアズカレ)”という寒村がある。村の遺跡からは粘土板が多数出土していた。1906年、ドイツの言語学者、H・ヴィンクラーが発掘調査のため村に入った。掘り始めてすぐ、この遺跡がありきたりの遺跡ではないことを確信する。ある日、アッカド語で書かれた一枚の粘土板が運び込まれた。彼は、読み始めるや我を忘れた。内容があまりにも劇的だったからだ。粘土板文書は、エジプトのファラオ、ラムセス二世からヒッタイトの王、ハットゥシリ三世に送られた書簡だった。両国間に交わされた「平和条約」である。その条約文は、エジプトのカルナック神殿の壁面に刻まれた文面とほぼ同じ内容であった。
□ヒッタイト民族は、紀元前17世紀頃から紀元前12世紀頃にかけて、中央アナトリアに“ヒッタイト帝国”を築いた。紀元前1286年頃、シリアのオロンテス河畔の町カデシュでエジプトとヒッタイトの軍が戦った。シリアの領有権を争った“カデシュの戦い”である。この戦いの15年後に、両国は不可侵条約を結ぶ。これが世界最初の“平和条約”といわれる。古代エジプトの首都テーベから中央アナトリアのボアズキョイまでは数千キロ離れている。ボアズキョイの遺跡で、ヒッタイトの王に宛てられた書簡が出土したのだ。発掘調査をしたヴィンクラーは、その遺跡がヒッタイト帝国の都“ハットウシャ”であることを突き止めた。約3000年以上も眠り続けてきた幻の“ヒッタイト帝国”。そのベールが一瞬にして剥ぎ取られたのである。ヒッタイトの強力な軍事力は“鉄製の武器”と馬で引く二輪の“戦車”が大きな力になったといわれる。ただし、どれほどの役割を果たしたかはわからない。ところが、カデシュの戦いから約100年後の紀元前1190年頃、ヒッタイト帝国は歴史から忽然と消えてしまう。「海の民」に滅ぼされたと伝えられるだけで、真相は深い謎に包まれてしまった。
ヒッタイト人は旧約聖書には“ヘト人”と記されている。イスラエルの王ダビデは、水を浴びていた人妻のバト・シェバを見初め床を共にした。王はバト・シェバの夫“ウリア”を激戦地に飛ばした。ウリアは王に忠誠を尽くして戦死する。サムエル記下11章に登場する“ウリア”はヘト人である。
□“ホメロス”はギリシャの詩人。世界最古の叙事詩「イリアス」「オデュッセイア」の作者と考えられている。ただし、実在したかどうかも含めてさまざまな説がある。「イリアス」は“トロイ戦争”10年目の約50日間の出来事をあつかっている。“スパルタの王妃ヘレネがトロイの王子パリスに誘拐される。王妃を奪還しようと、アガメムノンを総大将とするギリシャ軍の王侯が10年間攻めても落ちない。木馬に兵を潜ませて城内に侵入させた。英雄オデュッセウスの木馬の奇計を用いてトロイを滅ぼした”。
従来は単に伝説上の物語と考えられていた。しかし、19世紀末のシュリーマンのトロイ発掘以来、この戦争は何かの史実と関係があると考えられるようになった。ドイツの考古学者“ハインリッヒ・シュリーマン”。幼い頃、牧師の父からホメロスの物語を聞いてトロイの実在を確信したという。家は貧しかったが、語学の才能があり独学で十数カ国語を身につけた。商才にも恵まれ貿易で莫大な富を築いた。49歳の時、彼はトロイ遺跡の発掘に全財産を投げうった。エーゲ海を挟んでギリシャの対岸にあるヒサルルクの丘に目をつける。黄金の首飾りや壺、杯など多数の財宝を掘り当てた。シュリーマンは、“トロイ王、プリアモスの財宝”だと発表して衝撃を与えた。ホメロスの世界は歴史の舞台に乗ったかに見えた。しかし、シュリーマンの仮説通りには運んでいない。財宝はトロイ戦争時代以前のものだと後に鑑定されている。トロイを証明する碑文は今のところ何も発見されていない。
トロイの木馬
トロイ戦争は紀元前1200年頃と推定されている。遺跡の入り口から木馬の複製が見える。新しくて立派すぎるのが愛嬌だ。遺跡見学は頑丈な城壁の下から歩き始める。小一時間で丘を一周する。異なる時代の九層の遺構が折り重なっている。小高い丘から西側に畑が広がっている。そこは、トロイの英雄たちの戦ったという古代の浜辺である。3200年の時を経て、二つの川が運んだ土砂で浜は埋もれてしまった。今は海まで5kmはある。時の流れた今、トロイ戦争は伝説と歴史の狭間に閉じこめられた。シュリーマンの遺志を継いで、遺跡の発掘は
ⅩⅠ、オスマン帝国 崩壊のあと
□トルコを旅行して随分物知りになった、と思う。これまでに書いた記事は、旅行前には殆ど知らなかったことばかりである。旅というのは、外国でも日本でも、遺跡や古い寺院巡りが多い。歴史を無視しては面白さがわからない。帰国していろいろ調べてみると、トルコの歴史は奥が深くて面白い。かつては世界最強の凄い国であることにも気がついた。歴史というのは、どの国も同じなのだが、“戦争”“紛争”の繰り返しである。トルコの歴史も“戦争”の連続だ。その数ある戦争の中で、オスマン帝国が敗れた“第一次世界大戦”をもう一度ふり返りたい。この戦争の戦後処理のあり方が後の世界に深刻な問題を残すことになったからである。列強と呼ばれた国は、敗戦国に対しては過酷で身勝手に振る舞った。そのことが、現代社会を揺さぶる“民族紛争の火種”を残してしまった。その一つは“パレスティナの問題”。もう一つは“バルカン半島の問題”。三つ目は“クルド人の問題”である。これらの問題は、オスマン帝国の解体に伴って惹起されたものばかりである。オスマン帝国の崩壊で、トルコは亡国の危機にさらされた。近代トルコの父、ケマル・アタチュルクの機略と武力抵抗によって、固有の領土の保全に成功する。現“トルコ共和国”の誕生である。しかし、その他の領土は剥奪された。このうち“パレスティナ”はイギリスの委任統治領になった。“バルカン諸国”はギリシャと共に独立した。“クルド人”の居住地は分断された。そして、それぞれに火種が残された。
□イギリスは“パレスティナ”を委任統治領とした。しかし、第一次大戦中、戦争協力をとりつけるため、イギリスはアラブ人とユダヤ人双方に同じ約束をしていた。「パレスティナに独立国家を樹立させる」。二つの民族に同じ約束をした。この二枚舌外交が深刻な民族紛争を招くことになる。ドイツでホロコースト(ユダヤ人大虐殺)が始まると、ディアスポラ(離散ユダヤ人)がパレスティナめがけて殺到した。パレスティナの地は、アラブ人とユダヤ人の相容れない民族主義が渦巻いて衝突した。爆弾テロが横行する。第二次世界大戦でナチス・ドイツは亡びた。1947年11月、国連が“パレスティナの分割案”を承認した。パレスティナの半分以上をユダヤ人国家に、残りの地域をアラブ人国家に分割するよう勧告した。国連の決定は、シオニズム(パレスティナにユダヤ人国家を建設する運動)を進めるユダヤ人の勝利だった。シオニズムの阻止を図るアラブ人にとっては、宣戦布告に等しかった。
1948年5月、“イスラエル”の独立が宣言される。聖書時代のユダヤ人国家が再建されたのだ。それは、皮肉にも、ヒトラーがいなければ実現しなかったかもしれない。ユダヤ人600万人の虐殺と厖大な難民の発生が、世界的な同情を喚起したからである。独立宣言の翌日、イギリス軍は撤退した。アラブ5カ国は新国家の樹立を認めなかった。イギリス軍が撤退した翌日、新国家イスラエルとの間で、“第一次中東戦争”の火蓋が切られた。限りない報復の連鎖が始まった。
□バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる。現に1914年6月、サラエボで起こったセルビア人青年によるオーストリア皇太子の暗殺事件が、第一次世界大戦の導火線になった。そこには多様な民族が入り乱れ、紛争の火種が絶えないのだ。バルカン半島には「6つの民族」、「4つの言語」、「3つの宗教」があるといわれる。どうして、そんな複雑な政治風土が出来上がったのだろうか。元はと言えば、“オスマン帝国”がバルカン半島に進出してからおかしくなった。紀元1389年、オスマン帝国はセルビア王国のコソボに踏み込んだ。セルビア人は北に追われた。空白になったコソボに、イスラム教に回収したアルバニア人が送り込まれた。“コソボの戦い”である。これをきっかけに民族同士の反目が始まった。第一次世界大戦のあとは、6つの共和国から成る“ユーゴスラビア連邦”が成立。バルカン半島はいったん安定した。チトー大統領は、複雑な民族構成のバランスをとり、国家のタガが緩まないように巧みに締めてきた。連邦の運命を暗転させたのは、終身大統領チトーの死去(88歳)であった。連邦は分裂した。バルカン半島に再び動乱の兆しが現れる。
このあと20世紀後半に、凄惨な“ボスニア紛争”や“コソボ紛争”が勃発した。いずれも、セルビア人によるイスラム教徒の殺戮。血みどろの“民族浄化”の応酬となった。14世紀の“コソボの戦い”の記憶まで呼び覚まされたような、報復劇にも見えた。バルカン半島は、いまも“文明の活断層”の上にある。
□オスマン帝国は、中世から近世にかけて、広大な版図を誇ってきた。この大国の南東部に遊牧民の“クルド人”が居住していた。第一次世界大戦でオスマン帝国が敗れると、クルド人は分散させられる。戦勝国のイギリスとフランスがトルコ領を分割して植民地にしたからだ。現在の国でいえば、トルコ、イラク、イラン、シリア、アルメニアに分けられた。クルド人はこれらの国々の中で少数民族として生活している。
クルド人の総人口は800万人とも2500万人ともいわれる。トルコ人はクルド人を「山岳トルコ人」と呼ぶ。どの国もクルド人の存在を認めたがらないので、正確な数がわからない。いずれにしても、国家を持たない世界最大の民族だといえる。トルコ共和国は一貫して“クルド人”の存在を否定。同化政策をとり続けている。クルド人国家を認めれば、多民族国家の存立基盤にヒビが入りかねない。しかも、クルド人の居住地域は貴重な“水資源”の宝庫であるばかりか、豊富な“石油資源”が埋蔵されている可能性もある。経済的側面から見ても、この地域は手放せないのだ。単一民族主義を掲げて、トルコ政府は長い間、クルド人のクルド語による教育や放送を認めなかった。この文化的迫害が、むしろ、クルド人のアイデンティティー(民族の同一性)を覚醒させることになった。トルコ政府は、過激派の烙印を押した活動家には徹底して弾圧を加えた。襲撃、暗殺、拷問で多くの人々が犠牲になってきた。20世紀末の15年間に、トルコ軍の集落破壊により、300万人以上のクルド人が国内外に避難したといわれる。
トルコは欧州連合(EU)への参加をめざしているが、EUや人権団体から厳しい非難を浴びている。
□クルド人の弾圧は隣国のイラクでも起こった。イラン・イラク戦争末期の1988年3月、イラク軍はクルド人の町ハラブジャを化学兵器で攻撃した。非人道的な攻撃で6000人の民間人が殺害された。なぜそんなことをしたのか。それは報復だった。イラク在住のクルド人はイランと手を結んでイラク軍を攻撃した。イラク軍はそれに仕返しをしたのだった。イラク政府は、戦争終結のあとも、クルド人弾圧の手を緩めなかった。1920年代から始まったクルド人の自治運動を鎮圧した。
イラク在住のクルド人の動きには、周辺国家も警戒を怠らない。アメリカが仕掛けた“イラク戦争”に対し、トルコ政府のとった対応は示唆に富んでいる。“9/11”をきっかけに、アメリカの対テロ作戦が始まる。アフガニスタンに続いて、米軍がイラクに侵攻することになった。アメリカ政府は、米軍のトルコ駐留を認めるよう求めた。イラク北部を攻撃するためである。トルコ政府は、同盟国でありながら、米軍の駐留を拒否した。理由は明白である。イラク北部にいるクルド人に高性能の火器が渡るのを警戒した。クルド人勢力がイラク軍と戦うのも嫌った。独立運動に火がつく恐れがあるからだ。イラクのクルド人が独立すれば、トルコにいるクルド人が独立運動を加速させるのは目に見えている。いかにアメリカが超大国であろうと、トルコ政府が拒否しなければならなかった理由は“クルド独立問題”にあったのだ。
□アメリカとトルコの交渉は暗礁に乗り上げた。米軍はイラク北部に兵力と武器を空輸することにした。アメリカは、クルド人の支配する町モスールを重要な戦略拠点と位置づける。陸軍空挺部隊と特殊部隊がモスールに降下した。サダム・フセイン政権の打倒を訴えて、クルド人の協力を取りつけた。米軍のイラク侵攻は、クルド人にとっても大きな転機になった。アメリカ政府はクルド人をイラクで最も信頼できる同盟相手と見たようである。イラク北部をクルド人の支配に委ねた。クルド人が生活するこの一帯には宝の山が埋まっている。アメリカ人が何よりも愛してやまない“油田群”が横たわっている。アメリカ人はクルド人を好きにならずにはいられなかったようだ。アメリカの思惑通り、サダム・フセインは政権の座から去った。いや、この世から消えた。しかし、イラク全土でテロ攻撃が止まない。治安回復の目途すらたっていない。クルド人問題も先送りされたままである。ただ、クルド人問題が遠ざかったわけではない。イラク北部のクルド人の動向には目が離せない。いつ火がつくかわからない。クルド人が独立の動きを見せれば、トルコは躊躇なく国境を越えてクルド人を攻撃するだろう。イランも同じ行動に出るかもしれない。アメリカとクルド人勢力が、トルコ、イランとの新たな紛争に巻き込まれる。その可能性を完全には否定できない。[完]