趣味とやなせたかし
(2012年12月2日待降節第一主日礼拝信徒証言)
多河 敏子
作詞 やなせたかし 作曲いずみたく
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ
順番で証言をすることが決まって今日は私の番となりました。これで二度目のような気がいたします。ここに立って話をすることが大の苦手なので何を話したらよいのか、分からない日が続いているうちに、今日になってしまいました。本当は自分の信仰について話すべきなのかもしれませんが、確固としたものをいまだに持っていないため、話す自信は無いので、最近の生活の一部となっております趣味を通して話させていただきます。
ロゴス教会に初めてお邪魔した時の事です。ある日、チラシが入っていてロゴス教会案内でした。
内容に惹かれて一度行ってみたいと思いました。山本佐和人先生のお話が始まって間もなく会場に向かって「帰っていいですよ」「帰っていいです」「帰ってください」と言われたので、びっくりした事をまず思い出します。自分に言われたのかなーとびっくりしたのです。それからずっとロゴス教会に続いて来ております。
昨年10月ごろから始めましたシュノーケルについてです。酸素ボンベを背負ってのダイビングほどの本格的なものではなくシュノーケルと足ひれをつけて水着のまま潜るのです。10代の終わりごろから塩釜に10年程暮らしましたので、自然に海のスポーツに引きつけられて行きました。ヨット部では一枚帆に主に乗っていたのですが、ある夏に、兄の誘いで桂島という松島から船で1時間程の島に向かい乗って行った所、乗ったスナイプ級の船は安定感があり乗り心地がとても良くて沈没し易いディンギー級よりも心地よく桂島に行くことが出来ました。松島観光の機会がありましたら是非この桂島に足を延ばして欲しいと思う良い所ですし宿泊の宿もあります。そこには、遠い親戚のおばさんが待っていてくれました。沈没船や調査の為のダイビングは知っていましたが趣味のシュノーケルの存在は殆ど知りませんでした。ある日、同世代のプール仲間が「シュノーケルは泳ぐよりも楽しいよ」と誘われました。週一度30分のレッスンです。シュノーケルとひれを付け約2メートル弱の深さのプールでもぐる練習を重ねます。
コーチが水中に丸い輪を3個沈めます。ジャックナイフと言って頭を下にし足をあげて水中で真す
ぐに逆立ちをしその輪を潜って行きます。時には前転で頭から輪の中に入り込みます。海に行っても困らないように訓練するのです。なんとか出来て来たところで海へ行きます。今年の夏は沖縄の小浜島へ行きました。
サンゴ礁が続き様々な魚が遊泳しています。魚は人が寄って行っても逃げたりはしませんでした。海や魚と一緒になって生きていると感じるひと時です。サンゴ礁が死んでいるところもあります。もしかして私も自分の身勝手から海を汚す一人なのかもしれません。極力汚さないようにしなければならないと思いました。潜る事は体に負担をかける事なので、苦しい事もありますが楽しさもあります。船の中にはトイレもあって衛生面でも管理の人は気を付けていました。
*(シュノーケルもしくはスノーケル(英: snorkel、独: Schnorchel)は、水中において呼吸を 行えるようにするための用具。この用具を用いて水中で活動することはシュノーケリング もしくはスノーケリングと呼ばれる)
次にもう一つの趣味は野鳥観察です。これはかれこれ20年程になるでしょうか。
伊良子岬に行った時の鷹が鷹バシラを作りながら南国に渡っていく勇壮な姿は格別です。
伊良湖岬の上空には気流の道があり、毎年9月中旬から10月下旬まで上昇気流に乗って,サシバ、ノスリ、オオタカ、ハヤブサ、ミサゴ等ワシタカ類の渡りが見られます。最も多いのがサシバで、この間約一万羽から一万五千羽が南へと飛び去るそうです。長い間待ち望んでいた夢が叶えられて、2006年10月初め岬突端のホテルの屋上から、この勇壮な渡りを見ることが出来ました。
伊勢湾は次々と埋め立てられ、この渡り鳥飛来地は埋め立てか保護かの間にあります。藤前干潟,汐川河口にはシギ、チドリ類等年間七十種以上の水鳥や水辺の鳥が訪れるとの事で沢山の野鳥に出会えました。家の前でいつも威張っているかに見えるヒヨドリの大群がハヤブサに追われて、森の中を出たり入ったり、チャンスを窺ってエイヤッとばかり海上すれすれに渡る姿は本当に驚きでした。留鳥とばかり思いきや、このように渡りをするヒヨドリもあるそうです。高尾山に行きますと、食草の鬼女蘭の近くをよくアサギマダラが飛んでいるのを見かけます。きれいな蝶なので、育てようとこの蘭を盗掘する人がいるそうで、抜いた跡をよく見かけますが、本当に嘆かわしい事です。その一匹の小さな蝶がたった一匹で間隔を置いて、気流に乗り上空を南の島に向かって飛んで行く姿を見たとき、又タカ柱を作りながら旋回してサシバが順に並んで飛ぶ姿を見たときは、本当に神々しく思わないわけにはいきませんでした。
楽しい旅をする時、私達人間は一人ではつまらない事もあって何人かで出かけますが、こんなにも小さき蝶が一匹で旅をするのです。色々な場面で一人で淋しい等と言ってはいけないんだなーとしみじみ思わされたひとときでした。
でもやっぱり友達や家族と楽しい旅をしたいですね。一人旅と言えば、年に一度、特急電車に乗っての一人旅がこの上なく好きな友人が近所にいます。今彼女は65歳、この6月初めに北海道の海岸線を一巡し、車窓からの眺めがとても楽しみだったそうです。「釧路湿原にも行って来たの」と、結び用の昆布とケーキを届けてくれました。でも一人で湿原を歩いていた時はかなり怖かったそうです。デジカメで撮った沢山の写真も見せてくれました。銀座教会の長老でもあるご主人は「行って来ていいよ」と理解してくれるそうです。出かける時は、二三日分の食事を準備して「冷蔵庫のここに置きますよ」と言って出かけるのですが、帰って来るとそのままになっており、手をつけずに冷蔵庫に入ったままと友人は嘆いています。山陰地方を残してほぼ、全国を回ったとの事です。近所のとっても優しい友人です。
最近久しぶりに日帰りで千葉県の印旛沼へ行きました。印西市本野村に白鳥の郷と名付けられた3枚ほどの田んぼがあって、持ち主は白鳥が飛来してくる時期になると水を張って休み場所を提供していると聞きました。コハクチョウのの様々な写真を撮り田んぼの前に机を置いて来る人達に見せていました。その後ろで地元特産の野菜を販売もしていました。コハクチョウは人を恐れずきれいな目をして近寄って来ました。印旛沼に動物園から抜け出したペリカンが住みついて名前もカンタ君と言われて、地元の人が餌やり等をしているそうでそこの住人となってしまったそうです。太っていました。その日は快晴でしたが翌日の予報は雨でした。集まったカイツブリがしきりに鳴いています。雨の予報を感じ取り鳴いているそうです。「カイツブリだって明日雨になれば嫌だよなあ」と地元の人が言っていました。今年はつぐみの姿を殆ど見かけないのはどうした事かと気になる所です。
徳川時代に中国から声を競う鳥としてガビチョウがもたらされたそうですが、声が大きいことから嫌われて業者が高尾山で放したという事です。今は高尾や八王子の山の方で沢山見かけます。
そのせいかどうかは分かりませんが、この強い声の大きなガビチョウに追い払われたように小さいメジロ・ヤマガラ・シジュウカラ・スズメまで、少なくなって来ているような気がします。かつては橙色のアカショウビンや尻尾の長いサンコウチョウが高尾山に居たと聞きますが今は居なくなってアカショウビンは奥多摩の方でやっと見る事が出来るサンコウチョウは逗子の双子山に行くと見る事ができます。自然環境を守る為にどうしたら良いのか地道な行動が必要と思いますが、先ずは自分の日々の暮らしから、とぎ汁は花や鉢植えに撒くとか小さなことから気を付ける事など、どこかで少しは役に立てる日々を送ることが大切なのでしょう。
次に最近テレビ出演のやなせたかしを見ました。その時の話です。生きて居るから悲しい(それは生きているしるし)、死んでしまえば悲しいは無い。辛い状況に置かれないと幸せはわからない。
今日は「手のひらに太陽を」の作詞者で93歳のあんぱんまんの作者やなせたかしさんについて話をさせていただきます。とても姿勢が良い93歳です。「詩とメルヘン」という雑誌を30年出し続けそこから色々な人が巣立って行ったのですが、30年やって自分の収入がなしで疲れてしまい今度は「詩とファンタジー」の雑誌を始め、思った事を誰にも分かる詩に書いている内にどんどん読者が増えて行ったそうです。「アンパンマンとぶんぶん」では素手で戦い武器を持たない内容で69歳の時やっと大ヒットしました。大人では無く子供にうけてしまい、幼稚園ではぼろぼろになるまでお話を読み続けられた。この本は売れに売れた後今は絶版になっていますので、残念ながら私も手に入れる事が出来ません。やっと69歳の時のヒット作でした。
高知県香美市出身で父は従軍記者で32歳で戦死、母は再婚、祖父にひきとられました。今でも毎日仏壇で手を合わせ「お父さん、ありがとう」と手を合わせるやなせさんは、父の死で正義の戦争なんて無いので戦いは絶対やってはいけない。と思うようになったそうです。若い時、空腹は我慢出来なかったので、世界中の飢えた子にアンパンを届けるヒーローを作ろうと思った事がアンパンマンを作る元となったそうです。昨年の東日本大震災で笑わなくなった子がアンパンマンを見て初めて笑ったそうでそれを見た母親は泣いたと当時の新聞で見ました。この事を知った93歳は「のんびり寝てるわけにはいかない。死ぬまで書きつづけよう」と思ったとの事です。
この事をきっかけに「アンパンマン子供ミュウジアム」が仙台に出来ました。このようにアンパンマンの元になったのは世界中の飢えた子にアンパンを届けひもじい人を助けるヒーローを作ろうという信念から生まれたのだそうです。アンパンマンとバナナダンスは2012年3月に初版が出されました。
本の中ごろには東北弁が語られています。「おらたちは ぼんおどりスタイルの ダンスで バナナダンス祭りにさんかすっペえ」と。大人が見たらあまり面白いとは思えない、諸作品をやなせは「理解するのは子供だけ」と言っています。大人ではなく子供に受け幼児こそ理解者だと言っています。何のために生まれ何のために死ぬのかをもう一度考えさせられるやなせたかしの本だと思います。
大変拙い話をお聞きいただいてありがとうございました。最後に奏楽の伊藤姉に「ぼくらはみんないきている」を演奏していただき私の話を終わらせていただきます。伊藤さん有難うございました。