洗礼に到った経緯、理由等について

08.12.21 受洗

 

高橋 渉

洗礼を受けるに際してこのような物言いは失礼かもしれませんが、私は、今までキリスト教徒になるということに迷いがありました。それは、自分はどんなことがあっても主であるイエス・キリストを信じると誓うことができるか、そういう迷いがある者に洗礼を受ける資格があるのかという思いがあったからです。

ペトロはにわとりが鳴く前に3度イエスを知らないと言うだろう、とイエスに指摘されたとき、どんなことがあっても決して言わないとイエスに誓いましたが、誓いは破られました。そのエピソードはマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネすべての福音書に記されています。それは、人間は信仰を貫くということができない弱さを持っているのだということを物語っていると思うのです。ペトロは十二弟子のリーダーであり、カトリックにおいては初代ローマ法王とされている人です。そんな人ですら、イエスを3度知らないと言ったという事実は重いと感じるのです。

しかし、イエスはそうした人間の弱さ、罪深さをご存知だからこそ、人に愛を説かれ、自らを犠牲にして十字架にかかられました。ですから、私の弱さや罪深さをもご存知の上で、私に自分の弱さ、罪深さを気付かせ、聖書を通して愛を伝えることで私を励まして下さり、見守って下さるのではないかと考えるようになりました。そうしたイエスの愛に導かれることで私が救われるのなら、という思いが、聖霊をして私に洗礼を受けさせようという決意させたのだと思います。

こうした経緯による受洗は、自分の弱さや葛藤の表われだと思うところがありますし、私自身が信仰というものをよくわかっていないところがあるとも思っています。その意味では、受洗は信仰についていろいろ悩み、考えることの始まりであると考えます。山本先生、飯沢先生、大津先生、薛先生の牧師先生方をはじめロゴス教会の信者の皆さまのご指導、ご助言によって信仰について学び、自覚していきたいと思っております。改めましてよろしくお願い申し上げます。

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