シオンへの道
土屋 明彦(04.11)
スイス、シオンの丘。石段に腰掛けて、心地よい夏風に吹かれておりました。オルガニストのリハーサルのために、朽ちかけた礼拝堂の扉はかたく閉ざされてはいたものの、扉の下の隙間から洩れて来るオルガンの響きには、音楽の醍醐味そのものとも呼ぶべき豊かな表情がありました。十五年来、恋焦がれてきた憧れのオルガンによる生の歌声を心に刻んだ至福のひとときでした。
午後四時。シオン、ヴァレリア教会のオルガンフェスティバルの開幕です。解体修復のため、昨年は休止していた夏の演奏会。オルガンの復活を喜ぶ人々がヨーロッパ各地から集うこの時。高い石壁の上部、「燕の巣(スワローネスト)」に設置された世界最古のオルガンの存在感は圧倒的です。背後の薔薇窓から射しこむ光の神々しさ。古拙な宗教画が描かれた観音開きの扉。中世ゴシック様式の、なべてのものが遠い時間へと見つめる人々をいざなうかのごとき一瞬。六百年を経た創建当時の笛が高音の3列を担っている、その独得の音色の深さには陶然とする他ありませんでした。創建当時のゴシック様式を踏襲しつつ、17世紀に初期バロック様式にのっとったパイプ列が加えられ、音域も拡張されました。、中世ポーランドの楽曲と、地域の異なるバロックの大家の作品を交互に織り交ぜたプログラムの構成は、そうした楽器の歴史を実感するにはうってつけです。中世とバロック、その他さまざまな対比を味わうことのできる最適の選曲でした。
オルガニストはポーランドのコルシンスキー氏。速めのテンポで軽やかに曲想の違いを弾き分けてゆきます。オルガンによるスカルラッティの妙味を知ったのも収穫でした。舞曲になると、周囲の人々の上体が踊っているかのように一斉に揺れはじめる、そのような演奏者と聴衆の一体感に驚かされもしました。体に沁みこんだ村祭りのリズムなのでしょうか。音楽は理屈ではなく楽しむものなのだ、と再認識。
この日に先行する1週間は、レンタカーを駆って、南チロル地方(東スイス、西オーストリー、北イタリア)に点在する村や町の教会のオルガンを訪ねました。この地域の歴史的オルガンには独特の古めかしさと土臭さ、可愛らしさがあり、魅力は尽きません。
こうした種類のオルガンに対する関心を共有するオルゲルフロインドゥ(オルガン仲間)の丸山隆氏と経路について検討を重ねること半年。彼の存在無くしては成立しえなかった旅路という他はあり
ません。常に最善を尽 くすのが彼の流儀。堪能なドイツ語とオルガンへの熱意が探訪の可能性を広げてくれました。道幅の狭いチロル、ドロミテ山塊の難路をたくみな運転技術によって導いてもくれました。われらが「シオンへの道」は900キロに及んだのです。
インスブルックの西方、ミッツ渓谷レインズ村という山深い村里のマリアヒルヒェ礼拝堂では、卓上オルガン(1730年製作)が礼拝で使われています。幾人もの人を訪ねた末に、鍵盤に触れることを許された最初の歴史的オルガンでした。手押しふいごと生き生きした音色のパイプにはチロルの村人たちの一徹さがうかがえました。
スイス東端ミュスタイアの修道院では、世界遺産の古いフレスコ壁画を眺めながら、オルガニストの練習を聴くことができました。外でその若きオルガニスト、マリオ神父に言葉をかけた所、すこし離れた彼の礼拝堂でもオルガン演奏を聴かせてくれるとのこと。贅沢なレクチャー コンサートとなりました。
聖フランシスカス教会のオルガンは1690年製作の歴史的楽器です。鍵を管理している老人が笑顔で、いつまででもいいよ、と言って鍵を渡してくれました。
シオンオルガンの系統を継いでいる楽器でしたので、感激もひとしお。実物にまさる資料なし、というわけで細部を検証しつつ試奏を楽しみました。
わずかな経験をもって、すべてのことにあてはめがち、と言われる私です。しかし、台数はわずかですが、歴史的なオルガンとその周辺について、核心に触れることができました。ロゴスオルガン製作へのたしかな指針としてつなげて行きたいと思います。
ロゴスの真野先生ご夫妻から得た情報が、今回のオルガン探訪への発端となりました。支援してくださる大勢の方々の存在も、力となります。神様と、友とオルガンに、心よりメルシボク―。