宗教音楽のはなし 5

(「LOGOS No.21」1991.4)

横山 正子 オルガニスト

 昨年、池袋の東京芸術劇場が落成しました。大、中ホールと二つの小ホールがあり、それぞれが異なった特徴を備えているので、あらゆるジャンルの舞台芸術を催すことができます。客席数1887の大ホールには126ストッツープのオルガンが備えられ、目下整音中で、今夏ごろにはその音色が披露されるようです。・・・しかしながら今回の「宗教音楽のはなし」は、オルガンについてではありません。

 昨年11月に、劇場オープンの記念事業として、イギリスのフィルハーモニア管弦楽団が招かれ、2週間にわたって10回のコンサートを行いました。プログラムはマーラーの交響曲全10曲。指揮はイタリア人のジュゼッペ・シノーポリ。実は私はこのシノーポリの演奏が大好きなのです。彼の演奏には、音楽としての美、迫力、構成力といった通常「優れた演奏」の有する要素以外に、聴く者にスリリングな体験をさせてくれる強い力があるのです。

 シーポリの演奏を聴くと、その音楽に盛り込まれた観念が、漠然としたかたちではなくまるで絵を見るような、あるいは詩を読むような明らかさで私たちの前に広げられます。すみからすみまで明晰で、理性につらぬかれた彼の音楽は、実に目が覚めるように大胆で、緊迫感と躍動感に満ちています。非常に多くの楽器を用いるマーラーの交響曲は分厚い響きをもっていますが、シノーポリのマーラーはその響きで圧倒するのではなく、ひとつひとつの音のラインにこめられた明快な主張を絡み合わせることによって、具象的な説得力で聴く者をひきつけるのです。

 一見、マーラーのの音楽のイメージとずれるようですが、優れた音楽を優れた演奏で聴いて感動する、その体験から一歩ふみこんで、まったく別種の感動を与えてくれるシノーポリのマーラーは、今まで聞いた多くのマーラーのうちでもちょっと特別の手応えのなのです。

 シノーポリは1946年生まれですからまだ44歳の若さです。こういう人が60を越えて円熟の境地に達したら・・・と思うと、ぞくぞくするほど楽しみ。もしかしたら「音楽」というジャンルで括れない、シノーポリ独特の芸術が展開されるかも知れません。

 こんなふうに期待してしまうのは、先日ある声楽家とフイッシャー・ディースカウも、シノーポリと同様、私にとって特別な音楽家で、はるか昔の中学生の頃から聴き続けてきましたが、7〜8年前に不調におちいり、さすがの天才も年齢的に限界なのかなあとおもわされたものでした。それが3年ほど前から、いっそう深みをくわえてよみがえり、改めて惚れ直さずにはいられませんでした。

 言うまでもなく、彼は20世紀最大の歌い手のひとりといわれるドイツのバリトン。1925年生まれですから、もうすぐ66歳になろうとしています。堂々たる胸板の上にちょこんと載っているキューピーさんの様な童顔、それも最近はやっぱりおじいさんになってきましたし、190センチの長身も、ラフなセーター姿だとおなかのでっぱりのほうが目立つ愉快な体型になりました。その彼が最近、録音した演奏は鳥肌が立つよう凄さがあって、ある境地に達した人間を感じさせられます。

 私はもともと、声楽を聴くことには愛着をもっていて、ディースカウのだけでも50枚以上集めているのですが、その実、「声の美しさ」「情感に直接うったえる感動」という声楽の一番魅力的な部分にはあまり関心がなく、真の声楽愛好者とはいえないようです。私がひきつけられるのは、歌曲の詩の世界、ドイツ・リートの文学的世界なので、それを絵を見るように描き出して、その世界のただ中へ私を立たせる精神的な臨場感をそなえた歌が好きなのです。そして、フィシャー・ディースカウはそういう歌を聴かせてくれるのです。

 「最近のフィシャー・ディースカウはますます凄い」と、その声楽家に言ったら、彼は「フィシャー・ディースカウの芸術は最早『うた』の領域ではない。あれはもうフィシャー・ディースカウだけの特別なジャンルだ。自分の場合、もっと『うた』の部分で働きかけてくれる演奏のほうが好きだけれど・・・」と言っていました。シノーポリの場合も、もしかしたら彼の演奏に満たされない思いをする人もあるかもしれません。

 さて、今回はまるで宗教音楽から話題が離れてしまったようですが、実は本題はこれからなので、前置きがすっかり長くなってしまいました。次回に譲りますが、きっかけとなるのはこの時の会話の続きです。私がちょうど、1989年録音のマーラー「少年の魔法の角笛」(フィシャー・ディースカウ:独唱、バレンボイム:指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)に夢中になっている時で、「宗教音楽にはどんなにのめりこんでも安心だけれど、歌曲の世界に入り込むと抜けられなくなって、何も手につかなくなるし夢にまで出てくる」と言ったら、彼は、「宗教音楽は、どんなに深刻な作品にも必ず救いがあるし解釈がしめされていると思う。歌曲にはそれがないから・・・」と答えました。なるほど・・・。

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