教会音楽のはなし 1 

讃美歌

横山正子 オルガニスト

 キリストの生誕以来、近代世界出現までの長い時代を、歴史の上では中世と呼びます。教会がしだいに社会の中心的地位を占め、精神面・物質面にわたって人々を指導していくようになっていき、やがて文化・芸術もその影響力の下におかれました。中世社会には世俗的な音楽もたくさんありましたが、なんといっても教会の典礼や行事のための音楽にたずさわるということは、当時の音楽家にとって最大の関心事であったのです。

 初期キリスト教にさがのぼってみると、ユダヤ教においても音楽は常に礼拝の中心でした。歓喜を表す「ミリアムの歌」から詩篇の歌まで神への讃美にはかかせないものでした。レヴィ人の一部が、これらの指導にあたっていたといわれます。

 その後、音符を記録する技法の発達に伴って、聖歌の旋律を固定しようという方向が生まれました。そして、ローマの大司教のもとにキリスト教会が強化され、典礼の形式がととのってくると、典礼に使われる音楽も基本的には統一されるようになったのです。これらの単旋律による聖歌をグレゴリオ聖歌とよびます。

 やがて、ポリファニー(多声音楽)が現れます。ひとつの旋律に対して別の旋律をおき、それらの複数の旋律がかもしだす調和の世界は、「他の方法では表現できない宇宙全体の美を暗示する(エリゲーナ『自然区分論』876年)といわれ、典礼音楽として大いに用いられるようになりました。ポリフォニーは以後大きく発展して、ノートルダム楽派の音楽となり、パレストリーナなどのイタリア・ルネッサンスの花を咲かせ、さらにはバッハやヘンデルのドイツ・バロックの音楽となって今日へとつながるのです。

 さて、そうした壮大な教会音楽史の中で、わたくしたちが聖日ごとに歌っている讃美歌はどのようにして生まれたののでしょうか。

 プロテスタント讃美歌の誕生の日は、1517年10月31日といえます。この日、マルチン・ルターが95か条の抗議文をヴィッテンべルク諸聖徒教会の扉に掲示しました。それ以前の典礼聖歌はラテン語によっており、一般市民には歌うことが困難でした。もっぱら聖職者と一部の階層の人々に独占されていたのです。しかしこの日から、ドイツ語による聖書と讃美歌とがその第一歩を踏み出したのです。最初の讃美歌集は1524年にヴィッテンべルクで出版されました。

 しかしルターは、カトリックの典礼音楽のすべてを排除してしまったわけではありません。彼も彼の後継者も、教会においてラテン語の聖歌をたびたび用いましたし、また人々の耳に長年なじんでいるグレゴリオ聖歌の旋律にドイツ語の歌詞をつけたものを大いに取り上げました。現行讃美歌の68番などはその例です。

 またルターらは、宗教改革前のポピュラーな讃美歌の旋律を借用しました。歌詞の方は、たとえば聖母マリアについて歌ったものをキリストにおきかえて作りなおしたりしています。102番のクリスマスの聖歌も、14−5世紀ごろラテン・ドイツ両語混合の聖歌としてひろく愛唱されていたものを一部修正して仕上げたのです。

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