寺井春 さま

               

                   中野 ユリ   2008426日告別式でのお別れの言葉)   

 病院へお訪ねした時、握った春さまの手のぬくもりは今も私の手に残っております。そして優しく握り返して下さった春さまの感触も残っております。今はもうこの世では触れることの出来ない方にならえたことを、たとえ神様の許にいらしてご主人様と共に平安のうちにあられましても、矢張り淋しく悲しく思います。

教会の一番前左側の定席に春様が坐っておられるだけで、教会員のとりましてはほっとした安堵感のようなものが感じられ、私も頑張ろうと励まされたものでした。そのお姿に接することができなくなりましたことは、本当に淋しいものがございます。

春さまはご主人様が亡くなられて間もなくお一人で教会を訪ねて来られました。ご主人様がお若いころ、中野にある教会で洗礼を受けられたということでしたが、遺された聖書と讃美歌を持ってこられ、やがて決心して洗礼を受けられました。これはお一人になられて亡きご主人様と同じ価値観の世界に共に生きたいという思いと、ご主人様の愛情故ではなかったかと胸打たれるものがございました。八十何年も生きてこられた「生き方」の方向転換を、決断するということは大変な事であると思うのですが、春さまはそれをなさいました。それは私共を無言のうちに励まして下さることになり、教会員としましてはここに神様の奇しき働きかけがあったのだと思われました。

 教会員としての春さまは、キリスト教についてもっと勉強したいという気持ちを持っておられ、我家の本を何冊かお貸ししました。星野富弘・詩画集について申し上げますと1985年発刊のものの次に99年のものを読まれて「星野さんは年を重ねるにつれてその思いが深くなっているのが判りますね」という感想を頂いてびっくりしました。私は「筆を口にくわえて描かれたもので凄い!」と感覚的に受け取るだけでしたから。

教会の書棚からもよく借りておられました。「旧約聖書入門」「教会生活」「主の祈り」「シュバイツァー伝」などです。教会行事にも 積極的に参加され、生田の墓前礼拝、わくわくランドの夏季修養会、深代寺の野外礼拝等、後半は車椅子を使っても出席されました。そうした積極性はご入院中に、段々状態が悪くなられましても「前向きに生きる意欲」として表れておられたと思います。

 ロゴス教会は常住の牧師がおられませんので、出来ることは教会員が奉仕し支え合っておりますが、年を召した春さまは「何もお役に立てなくて」と苦にしておられました。「そこにいらっしゃるだけで、私共の励みになり目標になりますから」と申し上げたことでしたが、結局1年前位から礼拝の中で献金を集めるお仕事をして下さいました。足元が危ういことも心配でしたが、物静かに椅子の間を廻られたお姿は忘れられません。

又、私の体調が悪かった時には覚えていて下さっていたわって頂きましたり、夫の目の不調も心配して下さり、その記憶力の確かさに驚いたこともあります。夫は「神様と共におられる方」だと申したこともあります。余り能弁に多くを語る方ではありませんでしたが、何度も入退院をくり返され、痛みや辛さの中にあっても愚痴をこぼされることはありませんでした。

 こうした春さまの穏やかで心静かな物腰は、春さまを支えるご家族の暖かさがあってこそなのだと感じることが多々ありました。

 昨夜からお孫様方のお別れの言葉を伺って更にその感を強くしました。いつもはめておられた十字架のついた指輪は「娘がくれました」と見せて下さいました。

嬉しそうに「天の橋立に行ってきました」「どなたと?」「嫁と」、今時珍しい組み合わせと思いました。「茨城の孫の家の新築祝いに皆で行ってきました」と本当に嬉しそうでした。「弘前に皆で夫の納骨に行ってきました」、又「夫の法事、墓参りで弘前に行ってきましたが、遠いのでもう行けないかも知れません」とそれは一度だけ伺った一寸悲しげなことでした。

 でも春さまは戦前、戦中、戦後と激動の歴史の中の94年の生涯を立派に歩み続けられ、8人のお子様方もご立派にそして夫々のお孫様方も成長され、本当に十分に生きられたと思います。そして今、遠い弘前でなくご主人様とご一緒に安らかに休んでおられることと思います。私共は春さまを通して、神様のおはからいの不思議さと素晴しさを心から感謝したいと思います。

 春さま本当に有難うございました。そして神様のお支えとお恵みと平安が春さま夫妻と遺されたご家族の上に豊かにありますように祈ります。

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