地の塩、世の光



飯島 隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)
聖書 マタイ福音書5章13〜16節  07/01/14

 地の塩、世の光という言葉は聖書の言葉であるが一般社会でも使われている。京都大学YMCAは地塩寮という名前の学生寮があり、立教大学YMCAOB会組織は光と塩の会と書いて「光塩会」という。卒業し社会に出てからは世の光となって社会を照らして明るくし、また塩となって必要な味付けをして欲しいと自ら願ってOB会に光塩会、光と塩の会という名を付けたのではなかとろうか。

パレスティナでは昔から様々な塩を産出し塩は生活必需品の一つに数えられており、特に料理の味付けには絶対不可欠とされた。しかし、岩塩は湿気や日光に曝されると塩気が消失した。この塩の二面性を踏まえてマルコ福音書では「塩に塩気が無くなれば、あなた方は何によって塩味をつけるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい」と9章50節で言っている。マタイによる福音書5章の地の塩と世の光の喩えは元来は別々に伝えられた言葉だったがマタイ福音書の記者は二つの格言を一つにし、更に「あなた達は地の塩である」「あなた達は世の光である」と「あなた達」言う言葉を二度も繰り返して「あなた達」を強調している。「あなた達」とは教会全体であって使徒たちだけを指しているのではない。迫害され中傷されるあなた達こそが地の塩なのであると言っている。「地の塩」とは何か。

機能面から考えると、塩は味を付けるものというのが一般的で、「清める」「貯蔵する」という意味もある。葬式から帰ってくると洋服に塩を振りかけて汚れた霊を追い出し身を清めるという慣習がある。神道は死を汚れたもの、忌むべきものと見る。また昔から食物が腐らないように塩漬けにして貯蔵する。塩は人間だけではなくすべての動物になくてはならないものである。私達の血液には約1%の塩分が含まれており、塩分は身体になくてはならないものである。「塩に塩気が無くなれば」という言葉は「愚かにされてしまったら」ということで、その意味が転じて「塩に塩気が無くなれば」と訳されている。マタイは、塩が野外に貯蔵される場合に湿気によって塩が溶け出すなどの物理的な解体を考えていたのではないか。

「外に投げすれられる」と「踏みにじられる」という言葉は私達に行動を促しているのではなかろうか。塩はそれ自体のための塩なのでなく、他の食品を味付けするための香辛料であるように、弟子達も、自分自身のために存在しているのではなく他者のために存在しているのである。そしてそれが出来ないならお前達は不要で、ゴミのように外に投げすれられ、踏みつけられると言っている。そして塩が塩の役割を果たすときは、個体である塩の形が液体に変化してとけ込んで塩の味付けをする。塩が塩味を付けるという役割を果たすのは、固体のままではなく、液体になり味付けするものの中にとけ込む必要がある。塩が塩味を付けるという役割を果たすのは塩の元の形はなくなる時である。あなた方は世の光である、という格言・喩えは15−16節によって初めて意味が説明される。山の上にある町は、15節の燭台の上に置かれた油のランプと同様に、隠れることが出来ずに四方八方から見られ、またランプは周りを照らすため

誰もランプをマスの下には置かない。この箇所はマタイ福音書の4章16節を思い出させる。16節の「あなた方の光を人々の前に輝かしなさい」という命令法はこの世界の光である教会は、この光を輝かすべきであり、そうでなければ教会は升の下に置かれた油ランプのように、何か非常に馬鹿げた意味のないものになってしまう、燭台の上に置かれたランプの光は家の中にあるものすべてを照らす事ができる。

16節がこの格言・譬えの鍵である。15節の「照らす」から16節の「、照らさせよ、輝かしなさい」に変わる。マタイにとって人間とは行動するもの、何かを行うものであり、行為において生きているものである。弟子達であるキリスト教徒達は、彼らの業を輝かせる事によってこの世界の光なのである。それは塩が塩味をつける時にのみ塩であるようなものである。「よき業」「立派な行い」とは一般的なよい行為ということであり、キリスト教徒の行為・業はキリストを宣べ伝えるという宣教的機能を持っている。マタイはここではキリスト教徒の、「言葉」よりも「行為」を優先させている。しかし、マタイは立派な行いをすれば救われるということを言っているのではない。ここ言う「世の光となって世の中を照らす」ということは「よい業が絶え間なく火山から吹き出るようなそのようなキリスト教的生活をすること」である」。私達もキリストの信仰を受け入れ、キリストによって人生の意味を与えられ、キリストに従う新しい生き方を選択したものとして、それに相応しい生活をしよう、それは目立たなくても、少量でも生命のためには無くてはならない「地の塩」となろうと考える。自分が小さなろうそくの灯りであるならば、升の上に置かれて人々を照らしていきたいと心から願うが、決してよい業をして、それを誇りとしようとかそれによって救われようなどと思わない。 

日本のキリスト教の人口はずっと1%未満であり、これからは若者の宗教離れや高齢化を考えると、少なくなっても増える事は無いのではないかと思われる。私達はたった1%のクリスチャンだが実際には30%も40%もあるような影響力を持ってきたのが日本のキリスト教会ではないか。キリスト教は明治のはじめに日本に入ってきて、日本の社会に沢山のよい働きをした。特に教育や福祉、医療などで貢献し今なお、それが続いている。また、キリスト教の看板を掲げて表に出していないところでも多くのクリスチャンがそれぞれの役割を果たし、地の塩、世の光となっている。私達の信仰の先人達には良い行いをし、すばらしい業績を残した人たちが沢山いる。灯となって世の中を明るく照らす世の光になった人、人間にとって、社会にとって無くてならない塩として塩味を付けた人達、彼らはイエスを救い主キリストと信仰することによって新しい生き方を与えられたものとして、神さまへの応答として彼らの人生を送った人たちである。彼らの人生が輝いて、人々を明るく照らし世界を明るくし、多くの人々の人生に味付けしたから、彼らは神様と人々から賞賛されるのではないでしょうか。マタイ福音書の6章3節に「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」と善行、よい行いなどを積極的に薦めながら、それを徹底的に隠すことを求めている。良い行い、善行は愛であれ信仰的実践であれ、それは人に見せるための行為でもなければ自己満足のためでもない。信仰の実践は意図的な行為ではなく、ごく自然な行為である。マタイの著者は、キリスト信徒は世の光、地の塩となって、その生活が信仰の証言として、神を賞賛するために貢献することを目指しなさいと薦めている。キリスト信徒の業が世の光となるのだと言っている。

世の光となり、地の塩となって、そのことが評価され、脚光を浴びて様々な表彰を受ける人もありますが表彰されたり勲章をもらったりすることが、世の光地の塩の証ではない。むしろ世間の評価や関心に関係なく、神への応答として世の光となろう、地の塩となろうと自分の人生を送った人こそ、神の目からみて世の光、地の塩になった人ではないか。キリスト信徒はよい業を行うことによって世界の光、地の塩となるのでありそれは信仰の証言である。私達もそのような信仰生活を送りたいと願う。

TOP