神の時と人間の時  07.1.21



旧約聖書・コヘレトの言葉 3:111
飯沢 忠牧師

新しい年を迎え神様が私たち一人ひとりに与えてくださった「時」についてみ言に聴きたいと思います。

私たちはただ一度限りの人生を歩んでいる者であります。ギリシャ人や仏教の考え方では「時」は、ぐるぐる廻っている輪廻の思想でありますが、キリスト教、聖書の「時」の考え方は、直線であります。それは繰り返すことのない時であります。私たちの人生もその時の中で歩んでいるのであります。私たちは、人生の春には学問を身につけ、人生の夏にはそれを生かして就職をし、ある人は結婚をし子育てをし、やがて人生の秋には実りの時、収穫の時を迎えます。そして人生の冬を迎える寒さの中で、これに立ち向かって雄雄しく生きる。そしてこの世と別れて永遠の神の国へ向かって旅立って行くのであります。そこにあるのは天国の祝宴であると主イエスは語っています。

 この人生の姿はボートを漕いでいる状態に似ています。自分の乗っている船は未来に背を向けて漕いでいるその先には何があるのか、何が起こるか分からない。2007年を迎えた地球に住む60数億の人々にはそれが分からない。

 旧約と新約聖書の信仰者たちは、この時の問題について深い示唆を与えています。先ほど読まれた旧約の知恵の書といわれている「コヘレトの言葉」では3:1-2「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時」とあります。「植えたものを抜く時」 農夫は種を蒔く時期、収穫の時期を知っています。収穫の時をためらっていると実を腐らせてしまいます。これと同じく、私たちも自分の人生の時を正しく見極めて、神から与えられた一日一日を無駄にすることなく意義のある日として過ごさなければなりません。一体、与えられた人生を充実したものとするためにどのように生きるべきなのでしょうか。幸福とか不幸、成功とか失敗とはどういうことでしょうか。

 聖書が一貫して告げているのは、神に従順に聴き従うところに豊かな実りがあると告げています。

その代表的な主イエスの教えは、ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」であります。単純明快なことばであります。子どもに分かることばであります。また同じヨハネ3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない。」。主イエスは新しく生まれる。神によって霊的に生まれ変わらなければならないと仰せになられたのであります。これは私たちの生き方の180度方向転換であります。「ぶどうの木」であるキリストに結びついた生き方であります。絶えず移り変わっている世にあって、この世のものだけをよりどころとして生きるのではなく、変わることのない不動の「岩なるキリスト」を土台として生きることであります。

作家の三浦綾子さんは「北国日記」の中で「神さまの下さるものなら癌も感謝する」と書いています。苦難をも喜んでいる心、「私は今、癌で病んだおかげで青春のただ中にいる」。このみずみずしさはどこからくるのでしょうか。私たちは自らの行動をもう一度、根本から問い直さなければなりません。

ニコデモは「年をとってから生まれることがとうしてできますか」と主イエスに問うています。すっかり年をとって若返ることが不可能になった時、どうして新しく生まれることができるのか、これは人間的には不可能なことであります。

真の新しさはキリストに結びつくことによって可能になる。自分の決心や努力は二次的なものでしかない。ヨハネ11:25では「わたしはよみがえりであり命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。」と仰せになっています。主イエスはマルタに「あなたはこれを信じるか」と問うています。この主イエスの問いは私への問いであり、あなたへの問いであります。

さて、このようにして聖書が教えている「神の時」の意味を知るとき、人間の考えている時と神の時とは質的に違うことが分かります。聖書の教えによると神は天地宇宙をお造りになり、そして神と似たものとして人間をお造りになり、人間をこの地球の管理人とされた。そして神は人間に自由を与えられた。

ところが人間は、自由にともなう責任をもたず、自由をわがままかってな放縦な生活を始めた。ノアの洪水でそのような人間を滅ぼし、神を信ずる「生き物」とその家族によって新しい生活を始めたがアダム以来の人間の原罪は罪を繰り返します。神は預言者を遣わしこれをとどめようとするが、その預言者を殺し最後に神はその独り子をこの世に遣わされた。

主イエスは言葉と行いをもって父なる神の御心を示してくださいました。このことは有限なる時間の世界に永遠なる神が突入してこられた大いなる出来事であります。 

 神さまは神のみ子イエス・キリストのよって永遠の死に至る人間の罪のトゲを取り除き、私たちをキリストの十字架の故に人間の罪をことごとく赦し、キリストを信じる者に神の子として特権を与えて下さった。

 私たちはこの神さまの大いなる恵みに応えて霊と真をもって真実と愛に満ちたもう神を礼拝するのであります。神のみ業はこのようにして永遠の時の中で天地創造をなし、神の愛と神の忍耐の歴史の中で最後にキリストを遣わし、神を信じるキリスト者をとうして神の再創造の業がはじめられている神の時の中にあるのです。そして神の時はキリストの来臨によって世の終末に向かっているのです。私たちはキリスト来臨以後の終末に向かう時の中に生きているのです。今日の世相は、ノアの洪水前に似ている様々な悪と罪が渦巻いている中で、私たちのなすべき業は主イエスが仰せになった「愛」に生きることです。これなくして、この世の問題の解決、救いはないのです。コヘレトの言葉3:8に憎む時の中で愛する時、戦いの時の中で平和の時をと語っています。3:11「神はすべてを時宜に適うように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」口語訳聖書では「神のなされることは みなその時にかなって美しい」と訳しています。「人間の時」の中では絶望としか思えない状況の中にあっても「神の時」はキリストの十字架と復活によってもたらされた恵みと救いによって、パウロが力強く語っているように「見よ 今は恵みの時、見よ 今は救いの日」なのであります。私たちはこの神の恵みの時の中で「信仰と希望と愛」に生きることであります。神から与えられた2007年、ただ一度限りの人生を悔いのない年の歩みにしたいと思います。
世の終りまで共にいると仰せらになられたキリストと共に歩む日々でありたいと願う者であります。

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