「私はあなたの神、主である」

 

テキスト 出エジプト記20章1−17節(旧126P) 十戒

飯島 隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)

06.10.15


 旧約聖書の中心思想は出エジプトと神とイスラエル民族の契約である。神がイスラエル民族をエジプトから救い出し、イスラエルを神の民として選び契約を結んだことがイスラエル民族の信仰の原点である。十戒は神とイスラエル民族の契約の徴である。イスラエル民族は毎年必ず過越しの祭りをし、神がエジプトで奴隷の状態であったイスラエルの民を救出したことを想起する。神はモーセというリーダーを立てて、エジプトで奴隷の状態にあったイスラエルの部族を救出し、紅海を渡り、荒野に導き、シナイ山でヤーウェがイスラエル部族と契約を結ぶが、十戒に示された契約の律法は、対等の契約ではない。神が一方的にイスラエルを選び救いだしたもので、神はイスラエルに対して神ヤーウェへの無条件的な服従、偶像を伴わない神礼拝、安息日と倫理的命令の遵守を要求している。それは対等の者の契約ではなく、神の一方的な購いの応答としてイスラエルに神が求めた約束の契約である。また、十戒はイスラエルに対する神の直接的な呼びかけでる。神が直接的に人間に呼びかけるということは、律法が人格的なものであると言うことである。神が指導者モーセを通して与えたが十戒はイスラエル民族の憲法であり、法律のおおもとである。従がって律法は救いの条件や手段ではなく、神からイスラエル民族への賜物であり、律法が与えられたイスラエル民族はすでに神の民なのであるから、購われた生活というものが日常生活ではどのような方向をとったら良いかを教えてくれるものとして、律法を理解する必要がある。

わたしはあなたの神、主である。(20:1−2)

1、あなたはわたしの面前に他の神々があってはならない。(20:3)

(わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、私をおいてほかに神があってはならない)

神は自分がイスラエル民族の神であり、主であることを宣言し、自分に絶対的に忠実であることをイスラエルに対して求めている。

この戒めを肯定的・積極的表現に言い換えたのが申命記6章4節である。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力をつくして、あなたの神、主を愛しなさい」と

北王国イスラエルがアッシリア滅ぼされている時、南王国ユダのヨシュア王によってなされたイスラエルの宗教改革はこの申命記の言葉によっており、以後イスラエルの神信仰の基、旧約聖書の中心思想として新約聖書に繋がっている。イエスは律法学者たちとの問答でこの申命記の言葉を用いている。(マタイ福音書22章34〜40節) 

この戒めはすべての戒めの中で最も重要であり、他のあらゆる戒めの基礎でありながらいつの間にか忘れさられてします可能性、危険性を常にもっている。

2、あなたは自分のために偶像を作ってはならない。(20:4−5)

 (あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下 の水の中にある、いかなるものの形も作ってはならない。あなたはそれらに向かってひ れ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。あなたの熱 情の神である。わたしを否むものには、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わ たしを愛し、わたしの戒めを守るものには,幾千代にも及ぶ慈しみを与える。)

3、あなたは主の名を悪用してはならない。(20:7) (あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない)

4、安息日を心に留め、それを聖別せよ。(20:8−11)

 六日間の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目には、あなたの神、主の安息 日であるから、いかなる仕事のしてはならない。)

5、あなたの父と母を敬え。(20:12)

6、あなたは殺してはならない。(20:13)

7、あなたは姦淫してはならない。(20:14)

8、あなたは盗んではならない。(20:15)

9、あなたは偽りの証言をしてはならない。(20:16) (隣人に対して偽証してはならない)

10、あなたは欲してはならない。(20:17)

 (隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一  切欲してはならない) 十戒はイスラエルの人権宣言であり、イスラエルの人々一般に対してでなく一人ひとりの「あなた」に対する神の呼びかけである。

新約聖書には十戒に言及したり関連するところが沢山ある。

マタイ5:17−29、マタイ19:17−22、ローマ13:8−10    

出エジプト記にはイスラエルの民がパレスチナに入って行く様子が書かれいるが、必ずしも先住民の土地を奪い侵略したわけではない。エジプトで奴隷の状態であったイスラエルの部族は富みも武器もない、弱小民族であり、貧乏で食うや食わずの状態でシナイの荒野をさまよいパレスティナの地にたどり着くが、そこの良い土地には既に先住民がおり、イスラエルの民族は山の上の方の人が住まない荒れ地、岩と砂漠の荒れ地にすみ、牧畜を営む訳である。イスラエル民族がパレスチナの地に来て、遊牧の生活から定着して農耕を営むようになると土着の他民族と同化し、婚姻関係が生じ、他の民族の宗教や習慣を取り入れるようになる。そしてバールやアシュラなど土地の住民の神を崇拝するようになり、そのことに対してヤーウェの神は激しくイスラエルをいさめる。それは十戒の中心である。    

旧約の歴史は、イスラエルがいつも神から離れ、或いは反逆して他の神に仕える、その度に神はイスラエルに対して預言者を通して警告し、糾弾し、又、罰する。その罰は容赦しない厳しいものでアッシリアやバビロニアというようなイスラエルの敵を使ってでもイスラエルの国を滅ぼし罰するのである。神との約束を破り、十戒の律法を破り、他の神々に仕えたイスラエルに対して、神は厳しい裁きをする。預言者エレミヤはこういう。   

「わたしはこの都をカルデア人の手に、またバビロンの王ネブカドネッツァルの手に渡す。屋上でバアルに香をたき、また他の神々に酒を供えて、わたしを怒らせた多くの家々を焼き払う」34節「彼らは忌むべき偶像を置いて、私の名で呼ばれる神殿を汚し、ベン・ヒノムの谷に、バアルの聖なる高台を建て、息子、娘たちをモレクに捧げた。しかし、私はこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった。」(エレミヤ32:27−29)

預言者エレミヤは神に背いてバアルの神に仕えるユダの人々を断罪する。バアル神は植物礼拝であり、神観念を農耕での自然力に求めており、生命の神バアルは死んで甦る神と考えられていた。これに対してヤーウェの神は生ける神であり、永遠であり、あらゆる状況下にあってその民と共にいます神である。旧約聖書には至る所でイスラエルの民がヤハウェの神を裏切り、他の神に仕えヤハウェの神の厳しい怒りに会うということが繰り返されている。その根拠がモーセの十戒である。

 わたしはあなたの神、主である。(20:1−2)
 あなたはわたしの面前に他の神々があってはならない。
この律法があらゆる戒めの基礎である。これはイスラエル民族やユダヤ教のことではなくわれわれの信仰にとっても今も全く変わらない信仰の基礎であり、先ずこのことを心に銘記しておく必要がある。

小泉純一郎前首相は8月15日に靖国神社の公式参拝を宣言し、在任中、毎年靖国神社参拝をくり返し、今年は8月15日に行った。今度の阿部晋三首相は行ったか行かなかったかは言わない、と言って言い逃れをしている。

靖国神社の問題については長い間、キリスト教だけでなく他の宗教団体や法曹界、学会からのも疑問が出され議論されてきた。ちくま新書から「靖国問題」という本を出した高橋哲哉さんの説を紹介する。(資料は「福音と世界」10月号のクリスチャンアカデミーの対話集会の記事をコピーしたもの)

高橋哲哉氏は、「靖国問題は憲法問題とA級戦犯の問題がある。総理大臣が靖国神社を参拝することは違憲であるので、参拝しなければ憲法が守られ、また靖国神社が、合祀の取り下げを求めている遺族の合祀取り下げ要求を認めることが必要である。靖国神社がA級戦犯の合祀を取り下げれば、中国や韓国との外交問題にはならない」。と言ってこの二つを緊急に行うことによって靖国問題を憲法の中に押し込め、また中国や韓国との関係も改善できると言っている。

高橋氏は、「しかし、もっと重要なことがあり、それは憲法改正である。憲法改正によって靖国神社を国家護持にすること。また、神社を参拝することは習慣、文化の領域で神社参拝は宗教行事でないと言って、信教の自由を認めると言いながら、習慣、風習としての神社参拝、天の崇拝を押しつけようとする意図である」と言って、自民党の憲法改定草案や政治家の最近の発言を紹介している。

高橋哲哉さんは「靖国問題」について以下のように述べている。       

政教分離と憲法

とりあえずこの問題を「日本国憲法」の体制の中に着地させるには先ず何が必要か。

@政教分離の原則を守って首相が参拝を中止すること

 そいすればA級戦犯の分祀も取り立てる必要がなくなる。

A靖国神社が遺族の要求している合祀を取り下げる。

 合祀の取り下げを求めている内外の遺族の要求に、靖国神社が応じないのは人権上の問 題であり、憲法の問題である。

この二つをクリアすればとりあえず靖国神社は、政教分離を遵守する一つの宗教法人として家族を祀ってほしい遺族のための慰霊施設となる。

これは緊急に必要なことであり、これを実現しても終わりではない。

宗教としての靖国

前の二つをクリアした後に本当に難しい問題が出てくる。

 宗教としての靖国問題という問題は、靖国神社が憲法の枠内に収まっただけでは、終わらない問題である。憲法の枠内に収まったと言っても、安心していられるような国でも社会でもない。日本という国と社会は、憲法第二十条第三項で「国とその機関にいかなる宗教的活動も禁ず」という厳格に見える政教分離原則がうたわれているが、必ずしも司法において運用されているわけではない。(津の地鎮祭訴訟、愛媛玉串料訴訟、山口の自衛官合祀訴訟)。最高裁の首相や天皇の参拝ついて判断はペンディング。

 自民党が昨年2005年12月に党大会で正式に発表した憲法草案

自民党の改憲とは憲法9条の問題だけではなく政教分離の改訂問題が含まれている。

20条の3項と89条を同じような形で変えようとしている。昨年のの最終的な新憲法草案では、「社会的儀礼、或いは習俗的行為という範囲内にあるような、宗教的活動は合憲」にしようとしている。つまり、国や自治体が宗教的活動を行っても、それが社会的儀礼や習俗的行為の範囲内であれば合憲にしよう、というものである。

 宗教的儀礼とか習俗というのは、かつて帝国の時代に神社は宗教でないとされる場合の大きな拠り所となった観念である。神社参拝は愛国心の問題だとか、政治上の問題だとか、国家への忠誠を表す行為なのだとか、或いは元々は日本の宗教に由来したとしても、それはすでに宗教性を失って、儀礼化した、或いは習俗化したものだから、宗教ではないんだとか、こういうことが神社は宗教ではない、いわば国民の道徳、或いは臣民が受け入れなければならない義務、神社崇拝は義務である、と。帝国憲法に信教の自由という文字が入っており、仏教やキリスト教の信仰、宗教そのものは、認められているのだと言いつつ、それらの宗教に対して神社参拝を求め、最終的に強要していくような、そういう流れを作っていった。この自民党の改訂案は極めて重要である。憲法の枠内に押し込めるのがいいといっても、憲法そのものが変わっていけば、問題が振り出しに戻ることになる。

国家機関としての靖国

日本国民の精神風土の問題、そして国家神道、帝国時代に国家神道という形で存在していたシステムが、(当時の国家と神道が一体化したシステムを国家神道という)国家神道というものが、或いはその中で唱えられていたものが、どれだけ戦後日本において払拭されたのか、そこから国民がどれだけ自由になったのかと言うと、甚だ疑問である。国家神道というのは、天皇制と言いかえてもあまり違いはない。     

この精神的な在り方は、戦後一度も解体されたことはないと思う。神社への崇敬は時の流れ、社会の世俗化と共に希薄化してきているが、そのシステムが克服されていないのではないか。昭和天皇の逝去の時の国や社会の在り方や最近の皇室の状況を見ていて、天皇制はもはや危険ではないと言えるのか。憲法の言葉で言い換えると、思想・良心の自由、そして信教の自由の主体というのは果たして成り立っているのかという問題である。首相がくり返し靖国神社に参拝しても中国や韓国との外交問題のレベルでしか問題にされないし報道されない、首相や天皇が参拝しても、別に何の問題もないかのような空気が今やむしろベースになりかけているのではないか。自民党の古賀誠(遺族会会長)はA級戦犯を分離し、靖国神社を国営化せよと言い(60年から70年にかけての靖国神社国家護持法)、麻生外相は国営化を言っているがそれに疑問視する声や批判の声が高まらない。

麻生:英霊の見方からすれば、英霊は、天皇陛下万歳といって死んだのであって、総理大臣万歳といって死んだ人は一人もいない。だから天皇の参拝が大事なんだと。それを実現するために、A級戦犯を分け、国営化する必要がある。

戦時下の宗教界の言説   戦時下の宗教界がどうであったか。

 浄土真宗 

帝国憲法28条に信教の自由が認められているが、神社は宗教じゃない、これは国民道徳であって臣民として参拝するのは臣民の義務である。道徳的な義務であって信教の自由の対象ではない。それは国民道徳、道徳的義務だから逆に言うと浄土真宗の信仰と神社参拝は両立するのだ。つまり、信教の自由という名の下で浄土真宗の門徒でありながら国民として神社参拝する、天皇崇拝する、これでいいんだ、ということになる。

むしろ真の宗教であるならば国家神道、天皇教というものと一体となっていくはずなんだ、そしてむしろ天皇陛下万歳というのが真の宗教なんだといっている人がいる。

 キリスト教

明治学院が敗戦50年に出した「こころに刻む」という小冊子に明治学院中等部教諭の関根文之助の神官姿の写真が載っている。「神官にしてキリスト者;実践的な日本精神研究家」

「日本基督教信報」の「靖国の英霊」という章で、「靖国の英霊の血によって国が守られている。そしてイエスが十字架で流した血の意義を知るのがキリスト者であると。したがって英霊の血とキリストの血の深いつながりに目覚めた日本のキリスト者こそ真の信仰者である。」と書かれている。

高橋哲哉の結論

「1940年の日本帝国は一つの神聖国家、天皇教原理主義国家と言ってもいい。神聖国家であると同時に神政国家であった。そして敗戦と神道指令、そして日本国憲法によって入った政教分離原則によってどこまで変わったかというと、国家神道というものが一度も解体されないで今日まで来ている。多くの人が今もまだその意味では国家神道の信者であるという風に見える面があるのではないか。それがキリスト者であれば違うと言い切れるのか、それはこの国家神道的、天皇制的な精神風土の中で、私たち一人ひとり信教の自由の主体、そして、良心の自由の主体でどこまでありうるのかということで解って来ることだとおもう。私自身は個人的には、そういう思想、良心の自由、信教の自由の主体というものに、私たち一人ひとりがなっていくということでなければ、最終的に靖国問題は、克服されなしだろうというふうに思っている。」                                                           

私たちは靖国神社問題を考え、阿部首相の方針、公約である教育基本法、憲法改正の動きの中に重大な問題を見なければならないと思う。それは信教の自由の問題である。私たちは十戒の第一でヤーウェの神を唯一の神、主とする事によって、あらゆる形態の他の神々から、迷信や習俗・慣習からも解放されたのであるが、今、憲法の改定ということによって巧みに戦前の国家神道で示されたように習俗、慣習というような形で、信教の自由、神を信じる自由が侵され、神でない神を礼拝することを強要される可能性の中にいることを自覚する必要がある。

モーセを通して神がイスラエルに与えた契約の印としての十戒、すべての法律、生き方のもとになっている十戒は、決してイスラエル民族の律法ではない。私たちキリスト者に引き継がれているものでもありる。私たちは日々の生活において、 わたしはあなたの神、主である。(20:1−2)

あなたはわたしの面前に他の神々があってはならない。(20:3)というモーセを通して神からあたえられた十戒をいつもこころにとめて日々の生活を送りたいと思う。  

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