イエスへの献げもの 061119

飯島隆輔伝道師(早稲田教会)

マタイによる福音書2:1−12

今年一年間を振り返ってみると様々なことがあった。個人的な事柄は別として、社会的な事で大きな出来事、十大ニュースを順番は関係なく列挙するといかのようになる。

1,自民党の総裁がかわり、小泉首相から阿部首相になった。

2,北朝鮮で核実験が行われた。

3,沢山の高校で必須科目の授業が何年にも亘って教えられておらず、嘘の報告がされて いることが発覚した。そのために2名もの校長が自殺した。

4,小中学校でいじめが原因での自殺が続いている。またその自殺者数の報告に嘘が多い  ことが判った。

5,公共事業工事の談合や不正契約が発覚し福島県、和歌山県で知事が逮捕された。関わ  った県の幹部から自殺者もでた。

6,教育基本法の改正案が強行採決され、教育基本法に対する国民の意見を聞くためのタ ウンミーティングでの政府によるやらせが発覚し、また発言者に謝礼が払われていた。

7,アメリカでブッシュのイラク政策に反対の意見が多く中間選挙で民主党が勝った。

8,東京地方裁判所の判決で東京都教育委員会による日の丸への強制起立と君が代の斉唱 強制が憲法と教育基本法に違反するとの判決がでた。それらの強制は精神的損害を与え たと判断された。

9,親による幼児・子供の虐待と殺人事件が多かった。

10,飲酒運転による交通事故が後をたたなかった。

今年は特に教育に関することが多かったように思う。法律を守らなくても、見つからなければ良い、自分さえ良ければ何をしても良いという利己的な風潮と責任逃れが社会全体を覆っているのではないか、そしてそれらの問題の根源は教育の問題にあるのではないか。だから道徳教育をやれと言うのではなく、社会や人間の在り方の理想を凝縮して表明している、世界に誇る憲法と教育基本法を守り、その精神を学び直す必要があるのではないか。教育基本法改正案は11月15日に強行採決され、16日に衆議院を通過した。教会員の中野光先生は教育思想の専門家であり、特に教育基本法については見識の豊かな方なので、先生の考えを是非拝聴したと思う。

12月の第一日曜から待降節に入りこの時からイエスキリストの降誕を待ち望む。イエスの誕生物語の記事はマタイによる福音書とルカによる福音書にあり、ヨハネによる福音書とマルコによる福音書にはない。福音書はイエスの伝記ではない。イエス・キリストが十字架上で死んで葬られた後に、弟子たちの間に、キリストが甦った、復活したという復活信仰が生まれ、イエスを救い主と信ずる集団、初代の教会が成立するし、最初の教会はイエスについての思い出や記憶の断片を語り伝えながら礼拝をしていた。

イエスの死後30年も経つと、イエスを直接知っている弟子たちも少なくなり、イエスの生前の出来事やイエスの語った言葉、説教を纏めておこうとして、イエスの死後約40年経ってからマルコという人による福音書が生まれた。更にマルコによる福音書に満足できない教会は、マルコによる福音書を土台にして、イエスの語録を付け加えてイエスのことを書き残しました。それがマタイによる福音書と呼ばれているものである。ユダヤ人のキリスト者に向けてシリアで書かれたものである。福音書はイエスの伝記ではなくて、イエスを神、救い主と信ずる人たちがイエスを証言し、信仰を継承するために書かれた信仰の書で歴史書ではない。むしろ救い主イエスへの尊敬、願望、理想などが反映され、イエスの誕生物語なども付け加えられた。マルコによる福音書にはイエス降誕の記事がないのはそういう理由による。

マタイとルカの生誕の物語は一つに組み合わさってクリスマスのページェントとして、子供たちによって演じられる。

さて、3人の占星術の学者、博士たちとはどんな人でしょうか。星占い師、魔術師、シャーマンとも言われ、一般的には肯定的な評価を受けていたが、ユダヤ教は、彼らを魔法使いとして否定的で、キリスト教はユダヤ教を引き継ぎ、魔術や霊媒はキリストによって否定される。ここのテキストでは彼らは敬虔で賢い異邦人として描かれ、イエスを崇拝する正しい人として描かれている。(2節)

ユダヤ人は彼らを救ってくれるメシヤ、救い主の到来、誕生を待ち望んでいたが、本当に来ると聞くと当惑し、不安を抱く。 ユダヤ人に代わって異邦人の博士たちが駆けつけ、救い主イエスの誕生を喜び、床にひれ伏して礼拝する。(3節)「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆同様であった」。彼らは本物の王様、救い主が生まれると聞くとうろたえ、混乱し、ヘロデ王はメシヤの誕生を恐れ、祭司長や律法学者たちと新しい王子の誕生を拒否する統一戦線をはって幼児を見つけ出し殺害しようとする。なぜ彼らは救い主の誕生の知らせを聞くと不安になって恐れ、イエスを捉えて殺害しようとするのか。それは本物の救い主が来ると彼らの正体、偽物であることがばれてしまうからではないだろうか。本物の救い主が来ると自分たちの地位や権力が失われてしまうからではいか。そして救い主キリストの誕生を待ち望んでいると言いながらヘロデ王と取り巻きたちは生まれたばかりのイエスを必死で探し、密かに殺してしまおうとする。救い主の誕生は彼らにとって都合が悪いことなのである。

一方、東の国で救い主の誕生を知った占星術の博士たちは遠方を訪ねて来る。2節。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みにきたのです」。

イエスに出会った博士たちは床にひれ伏してイエスを礼拝する。普段、私たちは生活でも、教会の礼拝の中でも床にひれ伏すということしない。聖公会やカトリック教会ではひざまずいて祈り、イスラム教の人たちは床にひれ伏して礼拝する。彼らは床にそのためのカーペットを敷いて一日五回、床にひれ伏して祈る。床にひれ伏して拝むという姿勢は、全く無防備な姿勢であり、相手に対する絶対的な信頼と服従を全身全霊をもってする礼拝の姿勢である。

博士たちは床にひれ伏して幼子イエスの拝み、持ってきた黄金、乳香、没薬贈り物を献げる。 乳香はアラビア、インドなどに生育する樹木で良い臭いを出し、没薬はエチオピアに生育する樹木の樹液である。高価な輸入品で贅沢品で、これらの贈り物は王としてのイエス、神としてのイエス、人間としてのイエスに与えられとも考えられた。

これらの贈り物はいろいろに解釈されてきましたが、ルターはこれらの贈り物を信仰(告白)、と愛と希望、と理解した。これらの贈り物はどんなキリスト教徒も、貧乏人も金持ちに劣らず献げることのできるものであると考えた。

私たちは幼子イエスの前にひれ伏して拝み、お祝いの贈り物をするとすれば一体どんな贈り物をするだろうか。神に喜ばれるものとは一体何であろうか。
最も大切なことはイエスへの物質的な贈り物ではなく、イエスの前にひざまずき、ひれ伏して礼拝することではないだろうか。

マタイによる福音書の著者はこの書物をユダヤ人を意識して、ユダヤ人のキリスト者に宛てて書きました。マタイ福音書の記者はユダヤ人たちに対して、救い主イエスキリストを素直に受け入れない彼らユダヤ人たちの頑なさを強く諫めているのではないだろうか。そして博士たちに代表させて異邦人の素直な信仰を賞賛しているのではないか。救い主の誕生を最も待ち望んでいたはずのユダヤ人たちが、キリストの誕生を知らされると当惑し、不安を抱き、ついには探し出して抹殺しようとします。一方ユダヤ人でない異邦の人、外国人は救い主の誕生を知るとはるばる外国からきて床にひれ伏して拝む、これはどういう意味なのだろうか。

私たちはこの物語を読んで、どの立場に立っているか。ヘロデ王や律法学者たちではなくイエスの誕生を聞いて駆けつける博士たちに自分の姿を重ね合わせているのではないだろうか。 しかしマタイは私たちに「あなたがたは、救い主の誕生を待ち望んでいると言いながら、本当にイエスが現れると都合が悪区なるヘロデ王や律法学者ではないのか」と問うているのではないか。                               

 救い主キリストの誕生を誰もが待ち望む。しかし、本当に救い主が現れたときに、それを受け入れることができるだろうか。イエスキリストを救い主として受け入れるということはイエスの前にひざまずき、床にひれ伏して礼拝することであり、それは形だけではなく、自分の生き方を大きく転換をすることである。自分中心の生活、考え方から神中心の考え方、生き方に変わるということである。神がイエスキリストを通してこの世に顕された赦しの福音を受け入れることによって、自分中心の考え方、生き方から解放され、肩を張らずにゆっくりと生きられることであり、すべての事が相対化され、様々なしがらみ、欲望から解放されて生きることである。イエスキリストを救い主と認めることは一方的な罪の赦しを受け入れることという価値観の大転換である。

救い主、幼子イエスキリストの前にひれ伏し、共にその降誕を喜びたい。

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