父の愛
 7月16日(日)礼拝証言
                     

      

  飯島隆輔・早稲田教会伝道師 

              テキスト ルカ福音書15章11節〜32節(放蕩息子のたとえ)

少子高齢化で子供の数が減っており、昔のように兄弟が競ったり争ったりすることが少なくなってきているが、旧約聖書にはカインとアベル、エソウとヤコブ物語の様に兄弟の争いや相克がよくでてくる。ヨセフ物語も異母兄弟の争いが背景にある。

 放蕩息子の譬えと言われてきたこの譬えは、徴税人や罪人がイエスの言葉を聞くためにイエスのところに来たときに、ファリサイ人たちと律法学者のイエスへの非難、つぶやきに対してイエスが譬えで応えたひとつである(15章1〜3節)。

12節。  父の財産を分けて貰った弟は、もらった財産を全部売ってお金に換えて家を出て行った。

遠い国とはどこの国か特定できないが、当時地中海沿岸の各国ばかりでなく世界中にイスラエル本国の10倍ものユダヤ人が移住しており、ギリシャ語を話し、「ディアスポラ」のユダヤ人と呼ばれていた。イスラエルの国からは多くの人が飢饉のために、または地中海沿岸や中近東の繁栄した大商業都市の魅力に惹かれて移住したり、出稼ぎに行っていた。

13節   しかし、遠い国での若者の生活は、若年で未熟のために、また自己規制が出来ずに放埒な生活をし、ついには親からもらった全ての財産を使い果たしてしまう。そしてその国で大飢饉にあい、食うに困って途方に暮れてしまう。

15節  彼は豚を飼育する飼育係に雇ってもらい、やっと飢えをしのぐどん底の生活をする。豚はユダヤ人が絶対に食べない汚れた動物であり、豚を飼育する職業はユダヤ人として社会的にも宗教的にも恥ずべき、汚れたもので、神から

の分離、断絶を意味する。

16節   彼は空腹のあまり豚のえさである「いなご豆」を横取りして餓えをしのいだ。

17節   そこで彼は「我にかえって」「己にかえって」父の所に帰り、罪を告白し懺悔し赦しを請うて雇い人の一人にして貰おうと考える。

20節   そして、彼は立ち上がり、自分の父の所に帰っていった。

「立ち上がり」という言葉は「復活、よみがえり」の意味の言葉が使われている。夢も希望も何もない絶望のどん底で、打ちのめされ、死んだ状態から彼は立ち上がったのであり、まさに復活し蘇ったのはないだろうか。蘇り、復活とは生きていても夢も希望も何もない絶望のどん底で、虚ろになった人間が、生きる希望を与えられて立ち上がる、そういう実存的な復活が復活の意味ではないだろうか。息子はここで立ち上がり蘇り、復活したのではないだろうか。

21節   父親は遠くから息子が帰って来る姿を見つけて「憐れに思い」腸(ハラワタ)のちぎれる思いにかられて、断腸の思いにかられて走っていって首に抱き(首をかき抱き)彼に接吻した。当時、奴隷は主人の足に接吻をし、地位の低い方が上の者の手に接吻することになっていた。しかし、父親は息子の首を抱いて接吻し、喜びと愛を爆発させた。父は息子が罪の告白と懺悔をする前に、罪の告白に先行して、父親は息子を赦し、受け入れて接吻した。

22節   一番良い服を着せるとは名誉ある客の扱いをするということである。手に指輪をはめてやるとは権威の委譲を示す行為である。足に履き物(革のぞうり)を履くとは自由人の徴である。奴隷は履き物を履いていない。肥えた子牛を屠るというのは特別の宴会を催すということで、この家は特別に裕福な家ではないが父親は息子が帰って来たのを祝い大宴会をするのです。

24節  肥えた子牛を引いてきて屠りなさい。そして祝宴をあげようではないか。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」 「私のこの息子は死んでいたのにまた生き返った、失われていたのに見つかったのだから」しかし、たとえ話はここで終わってはいないのです。

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