豊かに実を結ぶ

ヨハネによる福音書15章1〜6節

07.10.7


飯島隆輔伝道師(早稲田教会)

トルコ、シリア、エジプトなど近東の国々やカザスフタン、ウズベキスタンなど中央アジアでは葡萄を新石器時代から食べていました。紀元前1500年〜2000年頃にはセム族やアーリア人によって西アジアや、メソポタミヤで栽培されたと言われています。パレスチナ地方に移住してきたイスラエル民族は世界最初の葡萄栽培民族だともいわれます。葡萄は本来、乾燥地帯の植物で、パレスチナの農業文化はナツメヤシと葡萄と羊の文化であると言っても過言ではありません。旧新約聖書を通して聖書に最も多く出てくる植物は葡萄です。ぶどうは旧約聖書の時代からイスラエル民族と深い繋がりがありました。

アダムとエバのエデンの園の「いのちの木」はぶどうであったという説もあります。民数記13章13章17節以下にはイスラエルがカナンの地に入る前にモーセが人を出してカナンの地を偵察させる記事があります。偵察に行った人たちはそこで一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げて担いで帰ってきてその場所は乳と密の流れる良い土地で、これがそこでとれた果物ですとモーセに差し出します。預言者イザヤやエレミヤはイスラエル民族をぶどうの木にたとえています。イザヤ5章1から2節とエレミヤ2章21節です。

イスラエルでは果物が熟する7−9月にかけては全く雨が降らず、日照りが強いので糖度の高い良質の葡萄が採れます。葡萄酒も良いものが出来ます。イスラエルの葡萄栽培は日本のように棚にするよりも、Y字型の支柱や垣根のような簡単なものがほとんどです。自分の植えた葡萄の木とイチジクの下に住む事は、イスラエル人の幸福、平和、豊かさのシンボルでありました。

イエスの時代には葡萄は大切な宝でした。マタイ福音書21章33節の「ぶどう園と農夫の譬え」は良く読まれる聖書の箇所です。ここでは農園主は葡萄園の周りに垣根を巡らし、中には見張りやぐらを作り、搾り場を作りました。

よい葡萄を作るには強い台木によい品質の葡萄の枝を接ぎ木して栽培しますが、手入れしないと枝が多く出て、よい実が実りません。豊かな実を実らせるためには適当な時期に剪定をする必要があります。むだな枝を切り取ります。葡萄作りは大変な労働力が必要な仕事です。イエスはイスラエルでの葡萄作りの実際をよく知っていました。

イエスが最初に行った奇跡はカナの婚礼で水を葡萄酒に変える事でした。(ヨハネ2章1また葡萄酒はイエスと弟子たちの最後の晩餐でも使われました。(マタイ26章26節〜) このようにぶどうや葡萄酒はイスラエル民族や宗教、イエスと強い結びつきがありました。

ヨハネ福音書15章1節からのイエスのたとえ話は、大変有名で又、分かりやすく、何度も読んで、聞いている箇所です。この聖書の箇所は読んだとおり私たちクリスチャンがぶどうの木であるイエスとどのように結びつくのか、関係なのかが示されております。

1節でイエスは、父は葡萄園の農夫、経営者であり、私は父が植え育てた本物の葡萄の木で自分が葡萄の実らせる生命の木、いのちの源泉であると言っています。

葡萄園を経営することは非常に手間のかかる仕事であり、よい葡萄を実らせるためには周到な準備と沢山の労働力が必要です。土を深く掘って葡萄の木を植え、よい実のなる枝を接ぎ木し、肥料をやり、余分な枝を剪定し、実れば垣根を巡らして泥棒に盗られないように見張りをします。これは父である神がその民を守り育てるためにどれだけ多く努力と犠牲を払っているかと言うことを示唆しています。2節では、イエスにつながっているように見えても、本当につながっていなければ実を結ばない、未熟な信仰、不完全な信仰を言っているのです。また、まことの真実の木でなく、偽のぶどうの木もあるわけです。私は偽物ではなく本物の葡萄の木である、という認識がなされなければならないとイエスは主張しています。本当の、まことのぶどうの木にしっかりと結びついていて、良い実が結ばれるというわけです。

イエスの説教やしるしによって、多くの人たちがイエスを信じました。しかし、イエスをキリスト、救い主と信じる集団がユダヤ教正当派から異端者と宣告されると多くの人たちが脱落して行ってしまいました。それは本当には彼らがイエスに結びついていなかったからです。それに対して、危機に直面してもなお、イエス・キリストを救い主と告白し、神を信じる者は、「豊かに実を結ぶ」ようになるのです。信仰は絶えず前進していくことによって、実りをもたらします。4節では絶えず、イエスに〈つながっている〉ことが命じられております。メノー、つながるという言葉は留まるという意味であります。メノーという言葉はヨハネ文書の重要単語の一つで新約聖書に118回使われ、その40回がヨハネによる福音書に使われています。1節から6節の中で8回もこの言葉が使われています。イエスは彼に属する者たちに対して、イエスが彼らに留まるように、彼らもイエスに留まれと要求しています。イエスが父に留まり父と一体であるように、弟子たちもイエスに留まってイエスと一体性を保っていなければならないということです。このことによって信仰の実を結んでいくのです。5節からは1節から4節のくり返しのような文章になっています。

5節では「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と言っています。人がイエスのうちに、そしてイエスが人のうちに宿るという相互の人格的絆が表現されています。イエスを離れては何もできない、弟子は人間的な資質や能力によってではなく、キリストによって力を与えられ、キリストの業を継続するのです。

6節ではキリストに繋がっていない人が裁かれると告げられています。裁きは教会からの追放といった具体的な処置ではなく、啓示者イエスを信じるか否か、そして、イエスに留まり続けるか否かによって、救いか滅びかに分けられると云っています。イエスがキリストに留まっていない人に対して強い警告を発しているのは、ヨハネの教会がユダヤ教からの迫害にあって離脱者が出るというような深刻な信仰的危機に直面している事を反映しています。

豊かに実を結ぶとはどういうことでしょうか。

葡萄の木であるイエスは父なる神(農夫、葡萄園主)のために弟子である私達という枝を出し、そして私達が豊かな実を実らせるのです。私達が豊かな実を実らせる事、これが主イエスキリストの勤めです。主イエスキリストの勤めは、私達が父なる神を神として敬い、神を賛美して、神の支配のために主イエスキリストの勤めを継承する人々を生み出すことです。今日の私たちの教会の勤めはイエスキリストの勤め・ミッションを担ってくことなのです。イエスキリストの勤め・ミッションとは具体的には神を賛美し、神の御言葉を聞く、礼拝する信仰の共同体を形成することです。そして、私たちはキリストの勤めを受け

継いでいるのです。キリストの勤めには三つあります。その三つの勤めとは使徒性appostolate)祭司性(priesthood)奉仕性(diaconate)です。使徒性とは、私たちが友人・知人に教会の働きを紹介することです。この伝道の勤めが、イエスキリストにおいて示される神から期待されているのです。私たちの伝道は、自分のできる範囲で、家庭を或いは教会を中心に宣教すれば良いのです。自信をもって教会や礼拝を紹介することも伝道です。

第二の努めは祭司性ということです。これは執り成しの生活をするということです。思いを聖書に、イエスに馳せ、信仰に集中した祈りの生活をするということです。執り成しは人間の最も崇高な精神の現れです。ヨハネ17章はイエスの祈りですが、イエスは私達のために何度も神に執り成しの祈りをされました。11節「聖なる父よ、私に与えてくださったみ名によって彼らを守ってください。」15節「私がお願いするのは、彼らを世から取り去るのではなく、悪いものから守ってください。」24節「父よ、私に与えてくださった人びとを、私のいるところに、ともにおらせてください」と。私達に期待されて第二の勤めは、教会や教会員、隣人のために祈ることです。病床にある教会員や友人のために恢復を祈り、悲しんでいる人びとや苦しんでいる人たちのために神の慰めのあるように祈る事です。平和のために、正義の実現のために、神の助けと励まし、守りを願い祈ることです。

第三の努めは奉仕性です。奉仕性とは人間が相互に仕えることを実践することです。教会員は多くの方々が、地域社会で福祉や教育などの直接に関わったり、支援したりしています。教会の奉仕もそうです。この三つのキリストの勤め、使徒性(伝道)祭司性(執り成しの祈り)奉仕性(奉仕)が教会を形成する私たちに期待されていることです。

教会に期待されているこの三つのことを行うことによって、私たちは豊かに実を結ぶことになるのではないでしょうか。それを期待している主体は神です。神は私たちに主イエスキリストにおいて期待しているのです。私たちは期待されているこの三つの勤めを行うことによって、私たちは豊かに実を結ぶことになるのです。そのことを神は私たちに主イエスキリストにおいて期待しているのです。

3節に「私の話した言葉によって、あなた達はすでに清くなっている」と云われています。

私たちは清い者として既に神の前に召し出されているのです。そして、私たちは多様な異なる賜物を持った者ですが、主イエスキリストの担う勤めを私たちが担うことが期待されているのです。そして私たちは例外なく豊かな実を結ぶ者として神に召されているのです。

ヨハネ福音書15章の葡萄の木の譬えは、神と人間を和解させる仲人のような勤め、役割を葡萄の木であるイエスが担っていると云っています。葡萄の枝である私達はイエスという木から生命を得るのです。生命を支える役割を主イエスがなされているのです。私たち人間が心から神を礼拝し敬い、倫理・道徳の究極の判断の規範を神に求めることの大切さが示されているのです。これは、創造の時の神と人間との祝福された関係と、神に対する背信の罪によって罪に墜ちた人間がイエス・キリストを通して関係を回復している事を意味しているのではないでしょうか。神と人間の関係の回復の執り成しを主イエスキリストがなされているのだということを、今日の聖書の箇所は私たちに伝えているのです。

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