十字架のイエス

飯島隆輔伝道師(早稲田教会)

07.4.1

聖書 マルコによる福音書15章33−39節

今週は受難節です。イエス・キリストが十字架の上で死を迎えられた週で、金曜日に十字架につけられて亡くなり日曜日の朝に復活されました。クリスチャンの信仰の根拠はイエス・キリストの十字架と復活にあります。従ってこの週の受難週と次の日曜日はクリスチャンにとってクリスマス以上に大切な日になります。しかしこの週だけが特別ではなくイエスの公生涯はすべてが受難でありました。私たちの信仰も毎日、毎週イエス・キリストの十字架と復活による救いを待ち望み、救いを信じる訳ですから、イエス・キリストの十字架と復活の救いが毎日毎週実現していることになるわけです。

 マルコによる福音書は16章から成り立っておりますが、8章31節で「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教えはじめられた。」とイエスは自分の死を予告します。更に11章にはイエスのエルサレム入場が書かれており、ここから十字架の死と復活に向かった受難が始まるわけです。マルコ福音書は全体の半分以上が受難の物語で占められていると言っても過言ではありません。

イエスの受難物語は福音書の書かれる以前に独立して伝承されており、教会の礼拝で朗読されていたものと思われます。そしてイエスの死後、イエスキリストの十字架と復活による救いを体験した集団がイエスキリストとの出会いと出来事を思い起こし、伝承や礼拝の中で伝えるだけではなく文書として伝えるためにまとめられた文書が福音書ですから、受難物語は質量共に福音書の中心を占めることになります。福音書全体が十字架と復活の受難物語に集約されていると言っても言い過ぎではありません。マルコによる福音書は最初に書かれた福音書ですから特にその傾向が強い訳です。

読んでいただい聖書の箇所はそのクライマックスで、いよいよイエスが十字架につけられて死ぬ所であります。

14章34節で、イエスはゲッセマネで、「私は悲しみのあまり死ぬほどだ」と言われて、「この杯を取り除けてください」と神に祈られました。自分が死ぬことを予期したイエスは「アバ、お父さん、あなたには何でもおできになります。この杯をわたしから取り除いて下さい。しかし、わたしの望むことではなく、あなたの望まれることを」と祈っております。そして十字架の上では「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶叫されて死んでいきます。イエスは絶望のどん底に突き落とされて十字架という極刑で死んでいったのです。十字架刑は当時最も残酷で侮蔑的な処刑法でありました。ローマ帝国ではこの処刑法は奴隷の重罪者または属州の反逆者に対してのみ行われました。イエスはローマに対する反逆者と見なされた訳です。受刑者は裸で柱に釘付けされるか又は縛られました。刑の前に受刑者は激しくむち打たれ、十字架の横木を背負わされた町中を引きずり回され、町の外の刑場まで歩かされました。その死は決して肉体だけの死ではありません。旧約聖書で死は元来、人間が神との関係から全く絶たれて虚無に帰することと理解されていました。イエスの十字架上の死はイエスが神から見捨てられた、神との関係が絶たれたということであります。当然、肉体の耐え難い痛みと苦しみがありますが、むしろ精神的な痛み、絶望の苦しみが大きいのではないかと思います。旧約聖書全体を通して示しているようにイスラエルの人々は神との特別な関係、選び祝福されて生きてきた民族ですから、神から関係を絶たれる、見捨てられるということは存在の根拠、生きる希望の根拠を失うことであり、とても耐えられるものではないはずです。イエスが十字架の上で神に見捨てられ時の絶望感は、あいまいな神観念しかもたない私たち日本人には理解できないことではないかと思います。

 イエスの生涯は病気の人を癒し、飢えた人に命のパンを与え、貧しい人、虐げられている人を食事に招き、彼らの友となって慰めと希望を与えた人生でした。イエスは人々に愛と希望を与え、その結果イエスの周りにはいつも病める人、飢えた人、孤独の人、苦しんでいる人々が集まっていたのです。しかしイエスが捕らえられると最も信頼していた弟子たちは、イエスが捕らえられると一目散に一人残らずイエスを捨てて逃げ去ってしまったのです。イエスは弟子の一人に裏切られて銀貨30枚で売られ、側近であるペテロは一度逃げてしまいましたが官憲に捕まったイエスが気になってそっと様子を見に戻って来て、中庭で女中に見つかってしまい、自分にはまったく関係ないといってイエスとの関係を全面否定します。

 十字架上のイエスは神にも見捨てられたとの強い思い、絶望の極みに立たされてわが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか叫び、最後には何かわからないような大声で絶叫して死んでいったのです。ルカによる福音書でイエスは「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか解らないのです。」と言い、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」といって息を引き取られたと述べていますが、この記述は著者ルカがイエスを敬虔で信仰深い人として美化しているようです。死を前にして絶望の淵にあるマルコの方がイエスの真実の人間の姿を描いているのではないでしょうか。イエスは神からも見放され、言葉にならない絶望のうめきを立てて十字架上で息絶えたのではないでしょうか。マタイもマルコも、イエスは大声を出して息を引き取ったと書いております。

イエスのそばに立っていて最初からイエスが息を引き取るのを見ていた百卒隊長は「ほんとうにこの人は神の子だった。」といっています。(1539節)

十字架につけられたイエス・キリストについてパウロはコリントの信徒への手紙1の2章2節で、こう語っています。「なぜなら、私たちはあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。

ダマスコ途上で復活のイエスに出会って回心したパウロは「十字架につけられたキリスト以外には何も知ろうとは思わない」と言って、復活のイエス・キリストの姿を十字架につけられたキリストとして言い表しています。そのキリストは今、何をされているのでしょうか。パウロは、復活のキリストは苦しんでいるこの弱い私たちのため、又、どう祈ったらよいかさえわからない私たちのために、十字架の上で、十字架につけられて、取りなしをして下さっているのだと語ります。十字架につけられて死んで復活したイエスが天井にいるのではなく、今なお十字架につけられてとりなしをして下さっているのだと言っております。

「十字架につけられたキリスト」と訳されていますが、十字架につけられたという言葉は過去形でなく、現在完了形で書かれております。ギリシャ語文法で現在完了は、特に強くその動作が今もなお継続していることを意味しております。例えば信じるという動詞の現在完了形1人称は「わたしは信じた、そして今も信じている」という意味になります。新約聖書学者の青野多潮先生はギリシャ語の原文では十字架に架かけるという動詞は、現在完了形の分詞がキリストに懸かっているので、ここは「十字架につけられてしまったままのキリスト」と訳すべきであると特に強調しています。

 今もなお十字架につけられてしまったままでおられるキリスト、そして私たちの痛み苦しみを自分の痛み苦しみとして下さっているキリストが、私たちと共に十字架につけられて、今もなお十字架につけられたままの姿でもって、私たちのために呻きつつ、とりなしをして下さっているのです。

パウロはコリント人への第二の手紙13章4節でこう語っています。
「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなた方に対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」
パウロは更にローマ人への手紙8章35節で「キリストの愛から私たちを引き離すものは何もない」と語っています。「だれが、キリストの愛から私たちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」。どんなに私たちが患難や苦悩の中にあったとしても、その私たちをキリストの愛から離れさせるものは何もないのだ、とパウロは断言します。なぜなら、それらの苦難、患難の中にいるときこそ、私たちは神の愛に気づかされていく、そしてほんとうの生命を与えられていくのだと言っているのではないでしょうか。

キリストは今もなお十字架につけられてしまったままでおられ、私たちと共に十字架につけられて私たちの痛みを痛みとし、苦しみを苦しみとして下さっていることを意味しているのではないでしょうか。

 私たちは、私たちの「ために」イエス・キリストは十字架に架かって死んで下さったと言いますが、先ず、第一には、キリストは私たちと「共に」十字架につけられておられるのです。そしてそのように「共に」苦しんでいてくださるからこそ、そのキリストは私たちの「ために」死んでくださった存在なのだ、と告白していくことができるのではないでしょうか。パウロは、ガラテヤ書2章19節で、「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」と語り、ガラテヤ書6章14節では、「この十字架によって、世はわたしに対して、わたしは世に対して、はりつけにされているのです」と言っています。この「はりつけにされているのです」は、やはり現在完了形で言い表されています。ですから、キリストも私たちも、今なお十字架につけられたままの状態の中にあるのだ、とパウロは言うのです。

絶望の極みに立たされて「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶叫されながら十字架上で絶叫して死んでいかれたイエス、無惨にも殺されていったイエス、奇跡も何も起こすことなく、弱々しく死んでいかれたイエス、パウロの言葉によれば「弱さのゆえに十字架につけられた」イエス・キリスト(Uコリ13章4節)を、神はよしとされて復活させられたのです。復活のイエス・キリストはあの十字架につけられたキリストなのであり、また、その復活のキリストは、今もなお十字架につけられたままのキリストとして、私たちと「共に」苦しんでおられるのです。そしてこの私達にも、イエスの復活の生命と同じ生命を与えて下さることを信じてイエスキリストの十字架と復活を覚えたいと思います。

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