「神の選び」

申命記7章6−8節 Uコリント12:9−10

07.5.20

飯島 隆輔伝道師(早稲田教会伝道師)

旧約聖書の最初の五つの書物モーセの五書に申命記があります。申命記はモーセがイスラエルの民をエジプトから脱出させ、彼らを引き連れて40年間シナイの荒野をさまよった末に、約束の地、カナンに入る直前に、モーセが語った「告別説教」の形をとって書かれております。イスラエルが救済された歴史を回顧し、律法の解説をし、約束の地での律法に適った生活を勧告しております。申命記は、歴史の中でイスラエルの民族が体験してきた神との出会いをもう一度振り返り、整理しようという意味で書かれております。この書物は王国時代後期のものと考えられており、ヨシュア王が行った宗教改革と密接な関係があると見なされております。

「あなたは心をつくし、魂をつくし、力をつくしてあなたの神、主を愛しなさい」というマタイ福音書23章の言葉や「人はパンだけで生きるのではない。神の口からでる一つひとつの言葉で生きる」というマタイ4章の悪魔の誘惑の言葉に対して言ったイエスの言葉は申命記6章5節からの引用です。 神の選びについて申命記7章6ー8節はこのように書いています。

6節 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。 7節 主がこころ引かれてあなた達を選ばれたのは、あなた達が他のどの民よりも数が多かったからではない。あなた達は他のどの民よりも貧弱であった。 8節 ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなた達の先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなた達を導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。

「神がイスラエルの民を選びたもうた」という選びの思想は、旧約聖書の中心的な神学思想であります。

イスラエルが諸国民の中から選ばれたのは、民族としての実力や優秀さのゆえではなく、数が多く強い民族ではなく、弱く、他のども民族よりも貧しく弱かったが故に神はイスラエルを選んだ、神の一方的な理由なき愛と自由な恩恵の故なのである(申命記7:7)。申命記記者は補囚期前後のイスラエル滅亡の危機の中で、神の選び、神の民としてのイスラエルの『選び』を強調することによってイスラエルの再建を図っているのであります。第二イザヤも同様の状況の中でイスラエルの民の選びを強調しています。イスラエルはバビロン補囚という滅亡の危機に瀕しますが、実はこの事態の中においてこそ、ヤーウェの言葉が成就したことを認識し、そのような自らの言葉を成就するヤーウェの唯一性、独自性を信頼すべきである、ヤーウェがそのような神であるからこそ、イスラエルの選びは決して揺るぐことはない。又、アブラハムを選び祝福を与え、シナイの荒野でモーセを指導者としてイスラエルの民を導いた方は、必ずイスラエルを解放し、諸国民に対する使命を果たさせるはずである、と言っています。

パウロは選びについてコリント人への手紙1章でこう言っています。

26節「兄弟たち、あなたがたが召された時の事を、思い起こしてみなさい。人間的にみて知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良い者が多かったわけではありません。27節 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学の者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力の者を選ばれた。28節 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

パウロが兄弟達よと呼びかけているコリントの教会は、初代の教会です。今、私たちが想像する教会とは全く違う層のメンバーです。27節で「神は世の無学の者を選び、世の無力の者を選ばれた」のです。そして28節に書かれているように「世の無に等しいと見なされている者、身分の卑しい者や見下げられている者」の集いが教会であった訳です。

初代のコリントの教会のメンバーは世間で言う知恵者でも力ある者でも、家柄の良い者ではなく、そういうものとは全く関係のない人たちです。神は世の愚かな者を選んで知恵者を恥じ入らせ、世のひよわな者を選んで腕力のある者を恥じ入らせました。神は、世の身分の卑しい者や軽んじられている者、無に等しい者を選んで地位ある者の面目を失わせたのです。

 イエスの回りに集まった群衆も、イエスの弟子となった人たちも、社会的な地位が高かったり、知識があったり、裕福であったりした人たちではありません。身分の卑しい者や軽んじられている者、無に等しい者、障害者、病人、外国からの寄留者・旅行者、寡婦、など、社会的には価値のない、無に等しい人がイエスの所に集まりました。これが神の選びです。

「よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」。

貧しい人とはギリシャ語で物乞いしないと生きていけないほど貧しく小さくされた状態を言います。虐げられて、どんな立場にも、立つ瀬もない、本当に弱い人達を神は選ばれたのです。神は、貧しく小さくされた者を選びその人達を通しては働いておられるのです。

貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである。

今、飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。

今、泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる。(ルカ)

 山上の説教はイエスが病気や生活苦を抱えている、物乞いしなければ生きていけない貧しい人たちに向かって語った励ましの言葉です。「貧しい人たちは幸いである」という山上の説教の言葉は、今の貧しい状態にそのままいなさい、貧しいことは幸いなことなのですよという意味ではありません。孤児、寄留者、寡婦、貧しく小さくされた者を選ばれた人々を神が共に働く人達であると私たちが認めて、尊重し関わりをもつとき、私たちも、その貧しく小さくされた人の仲間として、彼らの側に立つ者として神は認めてくださいます。神はすべての人の救いと解放のために貧しく小さくされた者をいつも選ばれます。これが神の選びと救いのしくみなのです。

私たちの目の届く範囲でも、ほんとうに弱い立場に立たされて、自分の意見をいう場もなかなか与えららないような、そういう人たちを見かけます。その時、私たちは、「神は、私ではなく、その人たちを選んでいるのだ」と思い起こすべきなのです。何のための選びかといえば、その人たちと関わる私たちを共に解放して、本当の意味での信仰とは何かを教えてくれる、信仰のパワーを伝えてくれるためなのではないでしょうか。

現代の社会の弱者はもっと複雑です。少数の強く富んだ人と多数の弱者がおります。貧しい人たち、小さくされ苦しんでいる沢山の人たちが制度的に組織的に生み出され続けております。経済が好調で景気が回復したと言われますが貧富の二極化が進んでいます。自己責任などと言われますが努力や勤勉、忍耐では解決できない格差社会が進んでおります。自殺者は年間3万人を下回る事はありません。路上生活者いわゆるホームレスは一時期2万5千人くらいおりましたが、今でも2万人位おります。

カトリックの神父さんで本田哲郎さんという方がおります。彼は16年間大阪の釜ヶ崎に住んでいて、貧しい人たちと共生きている方です。「釜ヶ崎と福音、神は貧しく小さくされた者と共に」という本の中で次のように語っています。

「野宿を強いられらる人が増えているのは平成不況が生み出したものであり、野宿者の増大は明らかに制度の破綻からくるものである。個々人の努力ではどう踏みこたえようもない、社会構造のひずみが原因です。地殻変動が地表の弱い部分に地震として現れるように、社会構造のひずみも社会的弱者に集中して現れるでしょう。それを個人の資質の問題にすりかえて、努力や忍耐の不足をうんぬんすることは許されません。それをやってしまうところに、野宿をしいられた人々に対する社会ぐるみの「人権侵害」(追い出しと襲撃)の暗黙の正当化がなされ、その結果、みんなが人としての尊厳を喪失することになるわけです。中略、彼らのために何かをしてやろうというのであれば、行政であれ、地域住民であれ、支援者であれ、先ずこの仲間達の極限状況の視座に立つ価値観を学び、その感性に触発されて正しく連帯することが求められていると思います。」

私たちは、神が選ばれた社会的弱者である孤児、寄留者、寡婦、路上生活者など貧しく小さくされた方々と関わりを持ち、軽んじられている者と関わりを持ち、彼らを何よりも尊重できたときに初めてキリストのいのち、キリストのパワーに浸されていく、影響を受けていくのではないでしょうか。

パウロはTコリント12:22−26で一番弱い立場に立たされている人たちの中にキリストの働きを見て、「その人たちこそ、私に遣わされた預言者であり、キリストの本当の弟子なんだ」と受けとめなさいといっています。 私たちがその思いで関わるようになったとき、私も解放されていきます。神がまちがいなく選んでいる、弱い立場に立たされた人たちを私たちが憐れんで救いの手を差し伸べるのではなく、その人たちの真の望みの実現に協力するようにする、それが、神の国を築いていく、福音を伝えるということではないでしょうか。

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