向き合って生きる

聖書 マタイ福音書22章36節〜40節

07.7.15

飯島隆輔伝道師(早稲田教会)

色々なことが次々に起こっています。「5000万件の消えた年金記録」問題や「コムスン」の介護報酬不正請求問題、「牛肉ミンチ製造不正問題」等、国民の毎日の生活や安全、健康に関わる問題や事件が次々と出てきます。 政治家や政治団体の不正経理、高級官僚の下りや談合問題、贈収賄問題は私たちの生活にすぐに響いて来ないので、深刻に感じなくなっていますが、それらの問題の原因、動機は同じで、「自分がかわいい、自分が良ければ他の人はどうでも良い」という考え、価値観が根底にあるわけです。全員ではありませんが、生産者が消費者のと向き合って生産していない、社会保険庁の職員が年金受給者のことを考えて年金の事務をしていない、介護保険業者が介護保険受給者のことではなく自分の利益を考え、誤魔化してでも如何に儲けるかということを考えているわけです。

私たちは嘘をつくな、嘘つきは泥棒の始まりと教えられて育って来ました。子供には嘘をつくなと教えますが、嘘をつくのは大人であり、最近は嘘をつくことが、余り悪いことではないかのような風潮が世の中を支配しています。社会のリーダーであるべき政治家や高級官僚などが詭弁を弄して、平気で嘘をついているわけです。元公安調査庁長官の弁護士までが詐欺の容疑で逮捕される程、世の中全体が嘘まみれになっているようで、全く情けなくなります。今の時代は、見つからなければ、捕まらなければ何でもありの世界になってしまいました。倫理、道徳はことある度に叫ばれますが、正直、品性、尊厳、人格、などという言葉は価値が無くなってしまって、嘘をついたりだましたり、おとしいれたり、足を引っ張ったり、そんなことが日常茶飯事になっているように思います。  

神を愛する】 マタイ福音書22章34節〜40節

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36 「先生律法の中で、どの掟最も重要でしょうか」 37 イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。38 これが最も重要第一の掟である。39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。

律法の専門家の最も重要な掟は何かという問に対しイエスは二つの答えを応えました。神を愛することと隣人を愛することです。第一の、最も重要な戒めとは神である主を愛すると言うことでした。旧約聖書申命記の6章の言葉を引用しています。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてしてあなたの神、主を愛しなさい」と言われた神はイスラエルの神、ヤハウェの神です。そのヤハウェの神とはイスラエルの民族と共に歩んできた生きた神であります。出エジプト記20章2節に「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたはわたしをおいてほかに神があってはならない」と十戒の第一の戒めを宣言しております。

申命記6章1節には唯一の神、主である神の戒めについて書かれています。(291頁)

 これは、あなたたち神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟法であり、あなたたちがって行って得土地で行うべきもの。あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。イスラエルよ、あなたはよく聞いて忠実に行いなさい。そうすればあなたは幸いを得、父祖のの神主が約束されたとおり、乳と蜂の流れる土地で大いに増える。

10 あなたの神、主先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家自ら掘ったのではない貯水池、自植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。

最も重要な戒めは、頭の中で考えた観念的な戒めではなく、イスラエルにとって先祖アブラハム、イサク、ヤコブと共に歩んで来られ、イスラエルを救ってきた生きた神、主を愛するという戒めであります。生ける神に対する応答として、主である神を愛しなさいと言っております。

「心を尽くして」ということは「完全に、徹底的に従順である」ということです。「精神を尽くして」は「全部の心を持って」ということであり、全身全霊をもってと言う言葉です。ユダヤ人キリスト者がこの言葉を言うときは殉教することも考えるくらい重大なことでした。「神を愛する」ことは情緒的なことではありません。祈りや神秘的な世界に籠もることでもありません。神を愛することは世界の只中における神への従順を意味します。イスラエル民族は彼らの歴史の中で、神と出会い、神の愛を受け、神の救いを認識し、経験したのです。

神は弱小の民族であるイスラエルと向き合って下さり、一方的に、イスラエル民族を愛し、救われたのであります。神はアブラハムを通してイスラエルを祝福し、繁栄を約束し、また、モーセを通してイスラエル民族をエジプトの奴隷の状態から救い出して彼らを約束の土地へ導いたのであります。その神に正面から向き合い、思いを尽くし、心を尽くして命を尽くして愛しなさい、それが最も重要な掟であると言っています。
【隣人を愛する】第二の戒めは「隣人を自分のように愛しなさい」ということです。誰が隣人であり、また隣人を愛するとはどうゆう事なのでしょうか。「レビ記19章9節から18節」を読みます。(192頁)

9穀物収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない。ぶどうも摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらはしいものやのためにしておかねばならない。 これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神主である。

11 あなたたち盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。わたし名を用いて偽誓ってはならない。それによってあなたの神名を汚してはならない。わたしは主である。13 あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。 雇い人の労賃支払いを翌朝まで延ばしてはならない。耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。あなたの神畏れなさい。わたしは主である。あなた達は不正な裁判をしてはならない。あなたは弱者を偏ってかばったり、力ある者 おもねってはならない。同朋正しく裁きなさい。民の間中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。私は主である。 17 心の中兄弟を憎んではならない。

ここで言われている隣人愛は神がイスラエル共同体に与えた実際的な命令であります。それは隣人や社会的な弱者、あるいは法廷の敵対者に対する行為であります。隣人を愛することは、盗むな、否認するな、欺くな、偽証するな、虐げるな、奪い取るな、ののしるな、裁判で不正な振る舞いをするな、中傷するな、憎むな等具体的なことであります。9節には社会的弱者に対する心遣いをせよと云っており、34節には寄留者の権利を侵害させるなとあります。社会的弱者とは者今の社会で云えば、中国残留孤児であり、水俣病の患者であり、路上生活者であり、生活保護などであります。寄留者とは不法入国者とレッテルを貼られた外国人労働者です。この旧約の掟隣人とはユダヤの同朋のことであり、他の民族は隣人ではありませんでした。ユダヤ人とって隣人を愛すると言ったときの隣人とはユダヤ人のことであり、ユダヤ人以外は敵でありました。しかしイエスはそのようなユダヤ人の偏狭な民族主義的考えを激しく批判され排除されました。

隣人とは誰ですかという問に対してルカによる福音書でイエスはサマリヤ人の話をして答えました。強盗に襲われて半殺しになった人はユダヤ人ですから、当然同朋を助けるのがユダヤ人で、道の向こう側を知らんぷりして通るのはサマリヤ人のはずです。しかしそこでは全く逆になっています。「はらわたのちぎれる思いにかられて」誠意の限りを尽くしてユダヤ人を助けたのは、ユダヤ人からさげすまれ、ユダヤ人と相互に反目しあって生きてきたサマリヤ人の旅人でした。彼は強盗に襲われた人が、今何が必要か、どんな援助が必要かを瞬時に判断し、行動に移った訳です。サマリヤ人はその人に終始、顔を向け、向き合っていたのです。サマリヤ人は強盗に襲われて道ばたに倒れて苦しみ、助けを求めている人の隣人になりました。愛することとは民族を越え、人種を越えて向き合うことなのだと云っております。これはユダヤ人からすれば驚嘆すべきこと、天地がひっくり返る程のことだったのです。愛することは向き合うことではないかと思います。さて、イエスは神と隣人を愛することの他に自分を愛することもいわれました。

39節 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。

「隣人自分のようにを愛しなさい。」というのは自分自身を愛するのと同じほどに、同じ程度に隣人を愛すると云うことではありません。同じ仕方でということです。私たちが自分自身を愛するのと同じ仕方で自分の隣人を愛すべきだと云っています。私たちは自分自身には寛容であります。自分のためには時間とお金を使います。自分自身のために様々な努力もし、自分の為なら骨惜しみもしません。

自分自身の幸せを願うのと同じ仕方で、隣人にもそのような態度を取るべきだといっています。 

「神を愛することと隣人を愛するということは同じこと?」

神への愛と隣人愛という二つの戒めは相互にどういうような関係があるのでしょうか。 

神を愛することと隣人を愛することという二つの異なったことを一つに結びつけたところにイエスの思想の創造性があるとある聖書学者は言っております。

1ヨハネ4章7−11を読んでみます。(445P)

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。

愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。(略)

11節 愛する者たち、神がこのように私たちを愛されたのですから、私たちも互いに愛しあうべきです。

ここでは神への愛と隣人愛という二つの愛が切り離しがたく結合されております。

ルターは次のように言っています。「神は語り給う、人よ、私はおまえにとって余りに高く、おまえは私を把握することができない。私はおまえのために私をおまえの隣人の中に与えた、隣人を愛せよ、そうすればおまえは私を愛する」

しかし神を愛することと隣人を愛することは全く同じなのでしょうか。もし隣人を愛することの中に神を愛することがすべて含まれてしまって愛が完結するなら、神を愛することは必要なくなる訳です。

しかし、イエスは第一の戒めは神を愛することであると云っています。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。38節 これが最も重要な第一の掟である。と云っております。

愛すること、向き合うこと

今の時代、私たちに欠けていること、不足していること、或いは意識的に無意識的に避けていることは神に向き合うこと、隣人に向き合うこと、自分自身に向きあることではないでしょうか。向き合うことは愛することではありませんが、愛することは向き合うことではないかと思います。向き合って生きることは楽なことではない、時には厳しいこと、辛いこと、犠牲をが求められることかも知れません。

夫婦はお互いに向き合って生きていますか。高齢者は高齢と、親は子供に正面から向き合っていますか。大人たちは子供たちの直面している問題を受けとめていますか。自然、環境破壊を無視していませんか。歴史に向き合い歴史から学んでいますか。住んでいる地域や人々に向き合っていますか。自分自身に向き合っていますか、そのようなことが問われているのではないでしょうか。

自分自身のことを考えると、そのどれも満足にしていない自分に気が付きます。

向き合うべきものにキチンと向き合っていない、神の愛、隣人愛を口にしながら自分自身では何もできていない、実現していないことを知るわけです。しかし、イエスキリストはどんな貧しい人にも、弱い人にも、悲しんでいる人にも、苦しんでいる人にも向き合ってくれている、愛してくれている、そう知らされ、確信することのよって私たちも互いに愛し、向き合って生きることができるのだと確信できるわけです。

神が愛をもって私たちに、み顔を向け、向き合ってくれているように、私たちも神に、また隣人に、家族に、社会に、地域に正面を向いて、向き合って生きたいと思うわけであります。                

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