キリスト・イエスを知る

フィリピの信徒への手紙3章8節〜11節

07.8.12

飯島隆輔伝道師(早稲田教会)

 しかし、わたしたちにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることの余りのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見ています。キリストを得、a キリストの内にいる者と認められるためです。私には、律法から生じる自分の義ではなく、信仰に基づいて神から与えられる義があります。10 私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11何とかして死者の中からその復活に達したいのです。

今年もまた8月を迎えました。私たちは毎年この時期に戦争で亡くなった多くの方々、傷ついた方々、愛する人を失った方々、様々な苦しみに遭われた方々を覚え、平和を意のします。62年前の8月6日に広島に原爆が投下され、8月9日に長崎に2発目の原爆が投下されました。そして8月15日には昭和天皇が国民に敗戦・終戦を宣言しました。広島・長崎で犠牲になった方々を思い、今なお原爆症に苦しんでいる方々に心を寄せ平和を祈り、誓うのですが、今年は防衛大臣が第二次大戦中にアメリカが原爆投下をしたことを戦争を終わらせるためには「しかたがない」と言った発言が原爆を是認するというように受け止められる問題発言として問題になり、大臣を辞任しました。また新潟中越沖地震で明らかになった原子力発電所の安全性への疑惑が深まり、不安を増大させております。わたしたちは近年ソ連のチェルノブイリやアメリカのスリーマイル島の原子力発電所の爆発事故を経験しており、その恐ろしさは想像を絶するものがありますので東電柏崎刈羽原発の損傷や放射能洩れの事故は身近な問題、緊急な問題として受けとめなければならないと思います。この猛暑の中で私たちはクーラーを使い、冷蔵庫を使っているわけですが、電力の三分の一は原子力発電に依存しており、危険だからといって原子力発電を止めることは簡単ではないのです。そして地震列島の日本には何十もの原子力発電所が存在しているのです。

ところで、私たちは知るというときに五官を使います。人間の五感には見ることと聞くこと触ること嗅ぐこと味わうことで、目、耳、鼻、舌、皮膚(あるいは手)を使います。その典型的な例は医者です。医師は視診、触診、聴診、(皮膚の色つやや舌先を見て)で患者を診断します。勿論最近は各種の検査のデータが診断の重要な決め手になるようですが、名医と言われる医師は患者の症状を観察し、訴えを聞き、心音を聞きます。視診、聴打診、触診を大切にするようです。そして医師は患者の健康状態や病状を知る訳です。

私たちは「知る」というときは理屈に合うもの、説明のつくもの、目で見て確かめられるもの、データや図で示して他の人に説明し、証明できるものを知る、知っているといいます。つまり理性を重んじます。こういう現代人の「もの」の知り方、考え方の背景には、ギリシャ人の考え方が基になっていると言われています。ギリシャ人は物事を認識する時に、耳よりも目を、聞くことよりも見ることを重んじました。ギリシャ人にとって知ること、理解したり把握したりすることは観察すること、見ることに基礎を置いているのです。ですから、ギリシャ的な知識というのは、対象を見極めるために、あくまで、把握しようとする主体(=わたし)は理解しようとする対象から距離を持っていて、第三者としての客観性を保たなければならないのです。科学者の基本的な態度はこの知り方と同じです。つまり、知る主体は、知られる対象を外側から、離れて見極めるという態度が、紀元前からギリシャ人のモノの認識の仕方の特徴になっていました。

4W1Hと言う言葉があります。WHO、WHEN、WHERE、WHAT、HOW。

誰がいつどこで何をどのようにしたか。ということを意味しており、新聞等の記事はこの4W1Hをがはっきりしており、読者にニュースと伝えるポイントだと教わったように思います。私たちの普通の生活の中での考え方は、知る主体と認識の対象である客体がはっきり別れていて、認識する主体は認識される対象の外側に存在するのです。私たちのものの知り方、見方はこのようにギリシャ的な知り方なのです。

 これと非常に対照的なのはユダヤ・キリスト教の思想です。ヘブライ人が「知る」と云うことは一つの特別の器官、目とか耳とかの器官organ を利用して知ることではなく、相互の交流を通して認識すること、主体と客体が相互に関わり合いを持つことを通して理解していくことを意味します。言い換えるならば、ギリシャ的な知り方である対象を客体化しつつ実証することではなく、知るものと知られるものとの相互理解や交わりを通して、相互に認知していく、理解していくのです。それがユダヤ・キリスト教の「知る」と言うときの基本なのです。従ってユダヤ・キリスト教での「知ること」「認識すること」は人格的知識ともいえます。旧約聖書において、「人が(私たちが)神を知る」と言う時は、「神と何らかの関係を持って、その中で対象を理解していく。神を理解していく」のです。

 創世記4章1節に「さて、アダムはエバを知った。彼女は身ごもってカインを生み、」とありますが、この知るという言葉の意味は、関係する、人格的関係、関わりをもつ、と言う意味です。アダムはエバと人格的関係、性的関係を含めて関わりを持った、知った訳であります。

申命記11章1節ー7節(298p)は以下のように記されおります。

あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい。あなた達は、あなた達の神、主の訓練を知ることも見ることもない子孫と違うことを、今日知らねばならない。その大いなる御業、強いみ手と伸ばされた御腕、エジプトの中でエジプトの王ファラオとその全土に対してなさったしるしと御業、エジプト軍、その馬と戦車に対してなさったこと、すなわち彼らがあなた達を追撃してきたとき、主が彼らの上に葦の海の水をれさせて滅ぼし、今日に至っていること、あなた達がここに来るまで主が荒れ野でなさったこと、また、ルベンの孫で、エリアブの子であるダタンとアビラムになさったこと、すなわち、大地が口を開けて、彼らとその家、その天幕、および全イスラエルの中で彼らと行を共にした者を皆、呑み込んだことなど、主のなさった大いなる御業をすべて、あなた達は自分の目で見てきた。

イスラエル民族は、この記事でも分かるように、神との関係、神との交流、関わりの中で神を知り、神に知られていることを認識していたのであります。

イスラエルが神を知ったのは彼らが神を礼拝し、神の掟を守り、自分たちの歴史を思い起こしてその中に神のみ業がなされていることを確認したからであります。

神を知るという働きは、積極的に私たちが何か相手を究明していくのではなくて、神からの働きを受け入れる、受容するということを通して相手を理解し、把握していくことであります。そうしますとユダヤキリスト教における「認識」とか「知る」という特徴は、見ることよりも全身全霊を持って人格的にかかわることにおいて傾聴すること、聴くことであります。人間の器官でいうならば「耳」によって、すなわち、見るよりも「聴く」ことの方が優位であると言って良いのです。私たちが捉えようとしている対象を理念ではなく、神が造り、神が支配する、現実の私たちの歴史の中の出来事を通して把握するといえるのです。歴史における出来事を通して、私たちは神を理解するのです。

 「神を知る」ということは「礼拝する」「神を讃える」ということです。あるいは「信仰の告白をする」ということです。すなわち神を知るということとは神の意志を行うということと不可分であるいうことです。このように旧約聖書における「知る、認識する」ということは、具体的な生活の経験において、生き生きとした感性を伴うものです。知る対象を客観的に冷静に分析するということではなく、対象と関わりをもって、情熱を込めて自分の実存の全存在をかけて対象と関わることの中で、対象を認識するということです。

さて、パウロはフィリピ人の手紙の中で、8節に私の主キリスト・イエスを知ることの余りのすばらしさに、今では他の一切を損失と見なすようになったと云っています。

パウロはキリスト・イエスを知ったのはどのような仕方で知ったのでしょうか。(パウロがイエスを知ったのはイエスという人間を、また、その行為や人生の出来事を客観的に見て、観察してパウロはイエスを知ったのでしょうか。パウロという主体がイエスという対象を、可能な限り冷静に客観的に観察し、見極めたのでしょうか。決してそのような見方でパウロはイエスを知ったのではありません。)

パウロはギリシャ語を話すユダヤ人で、フィリピ人への手紙も他のパウロの書いた手紙はすべてギリシャ語でかかれています。ご存じのようにイエスやパウロの時代、今から2000年前、地中海地方にはイスラエル本土の人口の10倍、約500万人のユダヤ人が住んでいました。彼らはディアスポラのユダヤ人と呼ばれ、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語やアラム語を話せず、ギリシャ語を使っていました。彼らのために彼らの使っている言語、コイネーといわれるギリシャ語に訳された旧約聖書が70人訳聖書といわれる聖書です。パウロもギリシャ語を話すディアスポラのユダヤ人でしたから、70人訳聖書を読み、ギリシャ語で手紙を書き、ギリシャ語で説教をしたわけです。新約聖書もギリシャ語でかかれました。しかし、ここでパウロが使っているギリシャ語のギノースコー知るという動詞は旧約聖書のヘブライ語の動詞のヤーダーという言葉と関係しております。ヘブライ語の旧約聖書を70人約聖書といわれるギリシャ語聖書に翻訳するときにギリシャ語のギノスコーという言葉を使ったのです。ですから、パウロがここで使っているギノスコーギリシャ語の知るという言葉は、主体が対象を客観的に見て知るというギリシャ的な知り方ではありません。パウロがイエスキリストを知るという時はヘブライ的な知り方なのです。

ガラ:4:9で「しかし、今は神を知ってる、いや、むしろ神から知られている」と言っています。神に知られている」というのは、パウロにおいては、「神に選ばれ」、愛され、受け入れられていいるということであります(フィリピ3:12)。神を知るとは、神に仕えることであります。

パウロにとってキリストを知るということは「キリスト」「復活の力」「キリストの苦しみにあずかる」の三つです。パウロの信仰の中心には、キリストを知りたい、キリストと一体化した状態でキリストを知りたいという強い願いがあります。キリストは神の栄光を求めることを放棄されました(2:6−7)。パウロもそのキリストを見本としてパウロ自身のあらゆる栄光を捨て去り、更にキリストの受難、すなわち苦しみ、死、復活においてもキリストと一つとなることを願ったのであります。(ピリピ2:8−11)

パウロは復活を最後の望みとし、パウロ自身があずかることを望んでいる死からの復活は、常に、彼の信仰の中心でありました。(1コリ15:12−58)

私たちはイエスキリストを通して、神に、愛され、赦され、受け入れられていいるということを信仰によって知っています。そしてイエスキリストを通して神に捕らえられ、神を知り、神に仕えるのであります。(フィリピ3:12)。そして「神を知る」ということは「礼拝する」すなわち「神」あるいは「神の名を知る」ということ、神を讃えるということなのです。あるいは「信仰の告白をする」ということなのです。すなわち神の意志を行うということと神を知るということとは不可分であるいうこととです。神を知ることは神を愛することです。

神はイエスキリストを通して私たちを知って下さった。全身全霊を持って関わって下さった、愛して下さった。私たちもその愛に応えて、キリストに倣って神と人とを愛そう、これが私たちへの聖書のメッセージです。     

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