一杯の水を与える

2010.1.10

マタイ253140

飯島隆輔牧師
(早稲田教会)

パレスチナでは、昼のあいだは、羊も山羊もいっしょに放牧しますが、夜になると羊飼いは山羊と羊を分けます。山羊は温かさを必要とするのに対しまして、羊には新鮮な空気を与えなければならないからで、夜に羊と山羊を分けるのはパレスチナでは普通のことであり、必要な事でありました。

31節で「人の子」が世界の審判のために登場し、羊飼いの比喩に従って区別と選別が行われます(32-33節)。34節以下は判決の言い渡しが行われ、判決の理由が読み上げられます。そこでは祝福された者と呪われた者、肯定と否定の2つの決定基準が示され、それについての異議申し立てがなされます。特に「呪われた者」とされた人たちは、その決定は不当であると激しく抗議をしています。それに対して、非常に的確な説明が与えられ、話が終わります。

私たちがいちばん気にかかるのは審判の基準は何か。それが本当に公平かどうか、ということです。ここで示される基準が私たちの通常考えるものとは異なっております。

私たちは譲れない生涯の価値基準、行動基準を持っています。それは宗教あったり、思想・信条であったり、また仕事の業績や世間の評価であったりします。イエスの審判の基準はただ一つです。あなたは、生涯の中で、本当に愛に富んでいましたか。それとも愛のわざを怠ってきましたか」と尋問されるのです。

 「この最も小さい者」とはイエスの弟子たちを指すともとれますが、そうではなく、この世にあって疎外され、軽蔑され、迫害されている人たち、通常のノーマルな社会から弾かれ、うさん臭い存在としてさげすまれている人たちを考えるべきではないでしょうか。

私たちが学ぶべき第一点は、具体的な社会的人道主義的な行為を行なうことです。教会やキリスト教の世界だけではなく、一般社会でも「共生、共に生きる、人間として連帯しよう」という声が、いたるところで叫ばれています。発展途上国では今なお飢えがあり、三分の一の人が一日一食しか食べていないと言われております。8億人とか10億人とかの人たちが飢餓の状態にあると言われています。それは発展途上国の事だけではなく、最近では経済大国といわれるこの日本でも貧困問題は深刻です。一昨年は派遣労働者の派遣切りが大きな問題になりましたが、昨年は正規労働者までも突然解雇されるような事態になっています。また、1225日の夕刊によりますと、昨年の自殺者は11月末で3万を越えて(30181人、25日朝日夕刊)、自殺者は遂に12年連続して3万人を越えたということです。

悩める人、困窮している人と連帯することの必要は多くの人が言っており、当然すべき事となってきておりますが、イエスのこの言葉は、神の終末の裁きから現代の状況に対する私たちの責任を問うものではないでしょうか。社会的人道主義も同じ事を言っているように見えますが、キリスト者がそれを言う場合は、ヒューマニズムより以上に真剣に、より深い根拠、終末論的根拠に基づいて、その課題を引き受けていく必要があります。イエスのこの言葉は、私たちにそうした決意を促しています。

第二に学ぶ点は、滅びに定められた人達の異議申し立てをめぐってです。

「主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか」と言っています。そこで会った人が本当にあなたでしたらお仕えしたでしょう、仕えないはずがありませんとイエスに対する敬虔な気持ちを披露します。それはある種の宗教的な響きもった言葉です。

滅びの方の人たちが言うことは、「イエス自身が私たちのもとにいらっしゃるなら、誰の目にもわかるキリストとして来られたならば、当然、私たちは十分あなたをもてなしたでしょう。しかし、現実に私の家をたずねて来たのは、あなたご自身ではなく、乞食や浮浪人やうさん臭い人たちでした。それらの人に与えるものは何もありません」と言うのです。これは形を変えたエゴイズムです。

これに対して、イエスの答えから私たちが学びうるものは、神が喜ばれるものは、そのような報いを当てにしない奉仕だということです。「主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」。つまり、彼らは、その愛の行為を自分でもまったく気づかないうちにしたのです。何らの報いをあてにしない。イエスのいう愛の行為は、わたしたちがいったいどのような内面的生活をしているかを問うているのです。

「この最も小さい者」とはイエスの弟子たちを指すともとれますが、そうではなく、この世にあって疎外され、軽蔑され、迫害されている人たち、通常のノーマルな社会から弾かれ、うさん臭い存在としてさげすまれている人たちを考えるべきではないでしょうか。

本当に他者を真剣に受け止め、何らの報いの心なしに助け合い、悲しむものと共に悲しみ、喜ぶものと共に喜ぶ、そのような仕える愛が求められ、それをするかどうかが問われているのです。人生の究極の生き甲斐は、まさにこのような愛のわざを生涯においてしたか、しなかったかによって決定されるとイエスは言っております。イエスは、愛ある者は永遠に神から受け入れられ、愛なき者は遠く疎外されると言われます。

第三に学ぶものは、諸国民の前に現れる王であるキリストが、この貧しい「最も小さい者」と同じ者であるといっている事です。35節で「おまえ達は、私が飢えているときに食べさせ」とあり、42節では「私が飢えている時に食べさせず」といっています。

私たちは、クリスマスの物語を通して、神の子が人間となられたことを学んでいます。神の子は受肉され、人間となられました。そのことによって、イエスは、この世のすべての悲惨の中に入ってこられ、いっさいの苦悩をご自分のものとして担われました。従って、この世に存在するすべての苦難、すべての疎外された人びと、悲しむ者、悩める者、弱い者、軽蔑されている者の中にイエスは現に存在しているのです。そのようなすべての貧しい人たちの背後に、イエスは隠れておられるのです。

具体的に言えば、現実に私たちに助けを求めている隣人を通して、イエスご自身が私たちの助けと奉仕を求めているとうことです。この世的な基準からすれば、私たちからの助けを求めている人は、とるにたりない、目立たない、弱い小さな存在かもしれません。しかし、その人が非常に重要であるとイエスは言われます。そのような人に対して、渇いている時に一杯の水を飲ませるという、およそ奉仕という名に値しないような私たちの小さなわざが、イエスに対する奉仕なのであり、イエスの兄弟にたいする奉仕として無限に重要な意味を持つということであります。私の傍らに立っているこの隣人は、まさにそのことを通して、神が私たちに呼びかけている神ご自身、その当人だということです。私たちの隣人は、いわば私たちが神に心を開いていく窓なのであります。私たちは、その人の背後に立って、私たちに出会おうとされている神ご自身のみ顔を予感しなければならないのです。

イエスは、人びとが彼に対して行うように、彼の最も小さな兄弟に対して私たちが愛のわざを行うことを望んでおられます。イエスはいわゆる救世主として崇拝される事を望んでおられません。本当の愛は、心からあふれてくる内的な必然性によって動かされるものなのです。私たち自身が善いわざであることに気づかないで自然に出てくる愛、それをイエスはここで問題にされているのではないでしょうか。

しかし、そのような愛のわざを、私たちは自分の力ではできません。私たちがもし困っている人を助けたら、必ずそれを意識してしまいます。自分が行った不都合な事や悪いことはすぐ忘れますが、自分のした善いことは永久に忘れないものです。もしも私たちが、そのような内的必然からあふれてくる愛を示すことができるのは、キリストが私たちの心の内に宿り、私たちが古いエゴの衣を脱ぎ捨ててキリストの衣を着るとき、はじめて可能になるのだと思います。

わたしたちは飢えている人びと、疎外された人びと、悲しむ者、悩める者、弱い者、軽蔑されている者であるこの隣人の中に主イエスを認めるということを本当にできるでしょうか。この「最も小さい者の一人」を私たちの兄弟として認めるということを私たちの通常の人道主義的な愛から出来るでしょうか。それは極めて難しいことだと思います。この「最も小さい者の一人」を人間仲間として認めることさえ、私たちが主イエスを知り、イエスの愛を知る事なしにはできないのではないでしょうか。

私たちがイエスと出会い、イエスの無限の愛を経験し、イエスによる救いにおいて生きる事を学んだ者のみが、隣人の中に主イエスを認めるできる者となるのではないでしょうか。他人を赦し、その隣人を自分の兄弟として、隣人をイエス自身として受け入れ、彼と共に生きることができるようになるのではないでしょうか。

 このイエスの言葉は、私たちに対するイエスの対話なのであります。イエスの目は、私たち一人ひとりの顔をじっと見つめています。私たちが、苦悩と飢えにさらされ、差別と牢獄の中にいる兄弟たちに対して、現にどのような関わり方をしているのか。イエスはじっと見ておられます。

イエスがここで求めておられるのは、私たち一人びとりが、それぞれの能力と賜物とに応じて、この世の数限りない苦悩をせめて一つでも無くし、少なくするために奉仕するわざなのではないでしょうか。

最も重要なのは、「この最も小さい者の一人」への具体的な関わりです。私たちの日常生活の中でたまたま出会った「この最も小さい者の一人」に私たちが何をするのか、そのことが決定的に重要なのです。

凍死や飢え死にする人が一人もでないように、最低一日一食でも食べられるように、この年末年始、路上生活者、生活困窮者に対する炊き出し支援が行政や企業の活動がストップする特に年末年始に池袋、新宿、渋谷、山谷、上野、横浜寿などで行われました。

元気のよい若い人たちは、炊き出しのボランティアや夜回りに参加できるでしょうが、それに参加できなくても良いのです。渇き、飢え、寒さに震えている人、病気に苦しんでいる人、疎外された人びと、悲しむ者、悩める者、弱い者、軽蔑されている人たち、心を病んでいる人たち、孤独な人たちが私たちの周りに沢山おります。やさしいことばやいたわりの言葉は、心をいやし、慰めを与え、渇きを癒やし、力づける一杯の水であります。

私たちが主イエスを知り、イエスの愛を知る事によって、彼らの隣人となり、愛のわざをなすことができるのです。イエスは私たちにそのことを求められておられるのです。

イエスの愛により、私たちは隣人に愛の業を行う、来年もそのような一年であるように共に祈り、願うものであります。 

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