いのちの水

ヨハネ4:1〜15 07.6.17

飯島隆輔伝道師(早稲田教会)

梅雨に入りまして、私たち日本人はこれからしばらくの間、暑さと湿気で嫌な季節を迎えるわけですが、この梅雨の雨と暑さによってお米がとれ、農作物が生長する訳です。そして日本は美味しい安全な水が豊富なために、水のありがたさをあまり感じません。また、、世界中に日本のように水に恵まれた国は少ないようで、アフリカや中近東などでは水は大変貴重なものです。これは古代や聖書の時代のことだけではなく、いまの現代社会でも同じで、アフリカや中近東などの乾燥地帯は飲み水がなくて、大きなポリタンクを抱えて毎日何回も婦人や子供たちが遠くまで水くみに行く様子がよくニュースなどで報じられます。それも濁ったボウフラの湧いているような汚い水です。あれでは病気になるのも無理はないかとおもいます。子供の死亡率が高いのは栄養も足りないのですが、汚い水を飲んでいるために腸炎を起こして、激しい下痢を起こし脱水状態になり死んでしまう訳です。また、支援された粉ミルクを溶かすきれいな水が無いので、折角送られてきた粉ミルクが役に立たないと言う事を聞いたことがあります。何とかならないものかと思うわけです。

アフガニスタンで20年以上も医療活動をしている中村 哲さんというクリスチャンドクターは、診療所と開いて医療をする傍ら井戸掘りや潅漑用水、水路作りに力をいれ、大変感謝されていることは有名であります。「医者が井戸を掘る」という著書があります。

砂漠地帯で遊牧をするイスラエルの人たちにとっても水は貴重な大切なものでした。、自分たちだけでなく、羊やろば、ラクダなどの家畜に飲ませるために苦労していたようです。聖書では水くみに集まる井戸や泉が出会いの場として重要な役割をしています。

アブラハムの子のイサクがリベカに出会うのは泉のほとりです。創世記24章42節〜46節です。(36頁)またモーセがファラオの手から逃れて、ミディアンの地方にたどり着き、祭司の娘ティポラと出会ったのも泉のほとりであります。出エジプト記の2章15節〜19節にでてきます(95頁)。

イエスが旅の疲れを癒し休憩をして、サマリヤの婦人に声をかけて水を汲んでくれるように頼んだのも井戸のほとりです。泉や井戸はアブラハムの時代からイエスの時代まで命に関わる特に重要なものであったばかりでなく、このような多くのロマンが生まれたところのようです。昔の日本ではご婦人たちの情報交換の場として昔「井戸端会議」というのはありましたが、今は井戸がが無くなり水道に代わってしまいまして、この言葉は既に死語になりました。

サマリヤと聞けば、すぐに思い浮かべるのがルカによる福音書10章の「善きサマリヤ人」の譬えの話です。強盗に襲われたユダヤ人の旅人がユダや人の同朋ではなく、敵対していたサマリヤ人に助けられるというイエスのたとえ話は何度聞いて、その度にいろいろな事を考えさせられます。

サマリヤ人の由来については何度も聞いていると思います。

モーセに率いられてエジプト脱出したイスラエル部族の一つの集団が中心となって12の部族が集まってイスラエルを形成するのですが、それは国といっても国を統一する王様や専門の兵隊を置かない宗教的な部族連合だったのですが、だんだん回りの国家からの侵略に対抗して身を守るために統一国家を建設し、王様をおいて国を統治し、外国からの侵略に対して軍隊を置くようになるわけです。紀元前1200年頃です。最初の王がサウロであり、その後がダビデ、ソロモンと続くわけですがソロモンの死後、国家が分裂して北王国イスラエルと南王国ユダヤに別れます。紀元前930年です。

2つに分裂した国家は弱くなって周囲の強い国々から侵略され、攻撃され続ける訳ですが、北王国イスラエルは722年B.Cにアッシリア王シャルマナサル5世の侵攻を受けて、首都であったサマリヤは陥落して王国は滅亡します。この辺の事は列王記下17章に書かれております。国の上層部が補囚に取られて、周辺の異民族が入植して残っていたユダヤ人との間で政策的に雑婚が行われ、この地域はアッシリアの属州になりました。この時に様々な宗教や慣習、文化が持ち込まれるのですが、この地域の人たちは異教の神々を礼拝したとして、ユダヤ教徒からは排除されて、新たにモーセ五書だけを聖典とするサマリヤ教団をつくりました。そして、異教の神を祀ったゲリジム山の宮殿をユダヤ人が破壊したことからサマリヤ人とユダヤ人が断絶し、相互に敵対するようにったといわれております。

そういう歴史的・思想的背景の中でこのイエスの物語が語られているわけであります。
(7節)イエスはヤコブの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女性に「水を飲ませてください」と言った。するとサマリヤの女は「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリヤ人と交際しないからである。

イエスがサマリヤの婦人に声をかけて、水を汲んで欲しいと頼んだ行為は当時のユダヤ人の通常の行為、常識的な行為ではありませんでした。全く想像もつかないような、革命的な事でありました。イエスが声をかけた女性は3重の意味での少数者でありました。

第一にはユダヤ人に軽蔑され、敵対的な感情を持っていたサマリヤ人であったことです。

第二には女性はユダヤだけでなく古代は男性社会で女性は数に入らない、員数外の人々でありました。イスラム社会などでは今でも極端な男性社会です。

第三にはこの女性は過去に5人の夫を持った人で、現在一緒に生活している男とは結婚していないということで、ふしだらな生活を送っているように見なされている女性でありました。(16節〜18節)しかし多くの聖書学者は女性の5人の夫とはサマリヤ人が次々と5つの異民族の神に仕えていたということの象徴だと言っています。

イエスが「水を飲ませてください」と頼んだサマリヤの女性が「ユダヤ人のあなたがサマリヤの女の私に、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と答えているのはそのような背景があるからです。

12節 あなたは私たちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸を私たちに与え、彼自身もその子どもも、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは応えて言われた。「この水を飲むものは誰でもまた乾く。14節 しかし私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の生命に至る水が湧き出る。15節 女はいった。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

「永遠の生命にいたる水」「渇かない水」とはどんな水でしょうか。この水は一度飲めば二度と飲む必要のない、のどの渇きを覚えることのない超自然的な魔法の水ではありません。

「永遠にいたる水」とは「永遠の生命」「救いの源」ということと言い替えることができるのではないかと思います。イエスはこの婦人に私はあなたに永遠にいたる水を与えましょう。永遠のいのち、救いを与えましょうといっております。

ヨハネ福音書は他の福音書と同じようにイエスをキリスト、救い主とする信仰の集団の中から生まれ、書かれた訳であります。この集団はイエスの弟子たちの経験を通してイエスの出来事に出会い、この人こそ救い主であると告白し、信仰の告白としてその宗教集団の中に伝わっている伝承をまとめ、彼らの礼拝の度に読んでイエスの救いを確信し、福音書が書かれた訳です。つまり、ヨハネが属していた信仰の集団はイエスは救い主であり、永遠の生命を与える約束のメシヤであるという信仰の告白をヨハネ福音書という形で纏め、この書物を通して信仰共同体の仲間にも、また私たちにも宣言し、告白し、語りかけているのであります。

このサマリヤの女性とイエスの出会いの物語もその文脈で読む必要があります。

イエスが、イスラエル民族から異民族として侮蔑していたサマリヤ人に声をかけてたこと、また、女性は数に入らない男性中心の社会で、女性に声をかけたということはイエスを救い主とする初代の信仰集団が、ユダヤ人一般のサマリヤ人蔑視の考えでなく、サマリヤ人も隣人である、同じユダヤ人であり、女性も男性と対等の人間であるという当時としては革命的な思想を持っていたことを示しております。

イエスのサマリヤの婦人に言った言葉は福音です。その行動は救いです。サマリヤの婦人にとってイエスの言動は、いままで経験したことのない、驚嘆するような事でした。自分たちをサマリヤ人をユダヤの民族の一つとして認めないで軽蔑していたそのユダヤの男性が、サマリヤ人女性のこの私に声をかけてきたこと、人間として対等に扱ってくれたことは彼女にとって福音そのものであります。

イエスはサマリヤの人たちにも伝道しました。「神の国は既に来ている、あなた達は既に救われている」と宣言し、福音を信じて神の赦しといのちの回復が実現した事を喜べと宣言しているのです。それがイエスのいう「いのちの水」「決して乾くことのない、渾々と絶えることのない、永遠にいたる命の水を湧き出出す泉」なのだと言っています。

この信仰理解こそがヨハネの福音書を書いた信仰共同体の信仰告白でありました。

イエスはサマリヤ人の町に行って福音を宣教し、あなた達は罪の縄目から解き放されて、既に救われているのだ、神の国はあなたたちの「現実の」只中にあるのだ」と言って伝道しました。その結果、多くのサマリヤ人がイエスの福音を信じるようになったのです。

このような文脈から考えると、イエスが14節で「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命にいたる水が湧き出る」
と言った言葉が理解できます。イエスが与える水を飲むことによってイエス自身が救いの源であり、救いそのものである。イエスを救い主と信じることによって永遠の命を得られる、決して渇かない水を得られるのだと言っているのです。

39節 さて、その町の多くのサマリヤ人は、「この方が、私の行ったことをすべて言い当てました。」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。40節 そこで、このサマリヤ人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるように頼んだ。イエスは二日間そこに滞在された。41節、そして、更に多くの人々が、イエスのこ言葉を聞いて信じた。

イエスの言葉を聞いて信じた多くの人々とは、スカルという町のサマリヤ人であった訳です。このヨハネ福音書のこの箇所は、初代のキリスト教の信仰共同体がサマリヤ人たちにも積極的に伝道して多くの人々がイエスを救い主と信じて、キリスト教共同体の中に多くのサマリヤ人がいた事を示しています。初代教会、キリスト教共同体の中にいた沢山のサマリヤ人キリスト者を意識してヨハネ記者のはこのような物語を福音書の中に取り入れたと思われます。

サマリヤ人の婦人とイエスのこの物語は2000年前の聖書の中の出来事だけではありません。ユダヤ人の宗教指導者は「サマリヤ人を異教徒の神に仕えた民族であり、純粋なユダヤ人ではない」、として軽蔑し、差別し、更には敵対するようになった訳ですが、サマリヤ人のような例は私たちの周辺に沢山あります。人種、国籍、肌の色、出自等様々な理不尽な理由で差別しているのが私たちの社会です。最近ではHIV陽性者やエイズ患者、路上生活者、障害者、高齢者、外国人への偏見と差別、いじめが問題になっています。

ヨハネによる福音書におけるイエスは、民族、国家や宗教の隔ての中垣を取り除くのが、イエスの真の目的でり、神の意志であると宣言しています。このことがサマリヤの婦人にとっても福音であり、生命の泉であったのであります。

サマリヤ人の婦人とイエスのこの物語を通してヨハネの信仰理解を学び、神の赦しと和解と慰めを得、また人間の尊厳といのちを回復する信仰の喜びを共に経験したいと思います。 

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